第19話:もうひとつの断章 「壁の向こう側」
――最初の記憶は、壁の色だった。
薄汚れた白。ひび割れた塗装の隙間に、鉛筆の芯のような黒ずみが点々と残っている。そこに指を這わせながら、幼い蒼は何度も口の中で言葉を繰り返した。
「……ここに、いるよ」
返事はなかった。 父は酒を飲むと怒鳴り、時には手を上げた。母はそんな父から逃げるように家を出ていった。残された蒼は、返事のない壁だけに向かって話しかけるようになった。
雨の日、空腹の日、真夜中に響く怒号の日。いつも壁は同じ顔をして、ただそこにあった。
「……僕、ちゃんと生きてるよ」
誰に言うでもないその言葉は、やがて蒼自身を守る呪文になった。 父の影が廊下を横切るとき、壁の向こうに小さく潜り込むような気持ちで、息を潜める。
やり過ごす術を覚えたのは、五歳の頃だった。母が完全に帰ってこなくなった日のことを、蒼はよく覚えていない。 泣き声も出なかった。
壁を見ているとなぜか安心した。昨日と同じ場所にある傷は、少なくとも消えなかったから。
ある日、役所の職員が家に来た。 玄関で何かを話し、父が叫ぶ声がした。気づけば蒼は、知らない大人の腕に抱えられて外へ連れ出されていた。 振り返ったとき、家の窓の奥に見えたのは――父も母もいない家だった。その視線を離さないまま、蒼は施設へと送られた。
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