第9話:「家庭のほころび」
帰宅したのは、21時を少し過ぎた頃だった。 部屋には、あたたかな灯りと、煮込み料理の香りが漂っていた。
「おかえり」
恵がダイニングから顔を出した。エプロン姿のまま、笑顔を浮かべている。 神崎はコートを脱ぎ、ソファに荷物を置いてダイニングに向かった。テーブルには、ビーフシチューとパン、それに小さなサラダが並べられている。恵が好きな、週末の“ゆるいごはん”だ。
「ごめん、遅くなって」
「いいよ、今日はあったかいのが食べたい気分だったから。どうせなら一緒に食べたくて、待ってた」
恵の言葉に、神崎は微笑みながら席についた。
「ありがとう。いただきます」
二人で手を合わせ、スプーンの音が響きはじめる。 静かな時間だった。以前と変わらぬようで、しかし、何かが少しずつ違っていた。
「……どう? 新しい依頼人は」
恵が、パンをちぎりながら聞いた。
「……まあ、複雑な案件だよ。正直、いろんな意味で手強い」
「ニュースで見た、連続殺人の、あの……?」
神崎の手が止まった。
「……その人、本当に無実だと思ってるの?」
神崎はスプーンを置いた。考え込むような間を置いてから、口を開く。
「まだ断言はできない。でも……話していると、嘘をついてるようには思えないんだ。」
恵は黙ってうつむいた。 沈黙が数秒続いたあと、ふっと顔を上げる。
「……気をつけてね」
その声は優しいけれど、どこか遠くなっていた。
「何に?」
「あなた、そういう人だから。誰かの孤独とか、苦しさとか、放っておけないでしょ。でも、全部を背負い込んでたら……帰ってこれなくなるよ」
神崎は少し笑ってごまかした。
「大丈夫だよ。ちゃんとここに戻ってくるから」
恵は笑い返さなかった。ただ、目の奥が揺れていた。
食後、神崎はコーヒーを淹れながら、さりげなく尋ねた。
「……蒼って人さ、君だったらどう思う?」
「会ってもいない人のことなんて、わからないよ」
「いや、もし仮に、目の前で“やってない”って言われたら、君はどうする?」
恵はコーヒーにミルクを注ぎながら、小さく息を吐いた。
「そうやって、もう信じたいと思ってるじゃない。……その人のこと」
神崎は何も言えなかった。
夜、ベッドに入ったあとも、恵は背を向けたまま無言だった。 神崎は手を伸ばせば届くその背中に触れず、ひとり天井を見つめていた。その目に浮かんでいたのは、拘置所のガラス越しに見た男の、あの無表情な微笑だ。……ガラス越しの蒼の瞳は、胸の奥にざわりとした感覚が走った。どこかで、この目を見たことがある――。無言で、静かで、救いを求めていないのに、助けを乞うような目。過去の記憶が、唐突に甦る。
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