恋愛知見コレクター

トムさんとナナ

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## 第一章 失恋は宝物


桜井美咲は、カフェの隅のテーブルで一人、ノートに何かを書き込んでいた。向かいの席に座る友人の田中りえは、美咲の顔を心配そうに覗き込む。


「美咲、本当に大丈夫?昨日あんなに泣いてたのに」


美咲は顔を上げて、意外にもにっこりと微笑んだ。


「うん、すごく良い知見が得られたよ」


「ちけん?」


「そう、知見。今回の失恋で、私、すごく大切なことに気づいたんだ」


りえは眉をひそめた。美咲は昨日まで、三年付き合った彼氏の拓也に振られて泣き崩れていたはずだった。それが一晩経っただけで、まるで研究発表でもするかのような表情で語っている。


「えっと...どんな知見?」


美咲はノートを見せた。そこには「恋愛知見コレクション No.47 相手の価値観を尊重しすぎて自分を見失うパターン」と書かれていた。


「拓也くんとの三年間を振り返ってみたら、私、彼の趣味に合わせすぎてたんだよね。映画も音楽も、全部彼の好みに寄せてた。それで彼は『君と話していても面白くない』って言ったわけ。つまり、相手に合わせすぎると逆に魅力を失うという貴重なデータが取れたの」


りえは口をぽかんと開けた。


「美咲...あんた、失恋をデータ収集みたいに考えてるの?」


「そうよ。人生は実験の連続でしょ?恋愛だって同じ。失敗したからって落ち込んでいても仕方ない。大事なのは、その失敗から何を学んだかよ」


美咲はノートをパラパラとめくって見せた。そこには数十個の「恋愛知見」が書き連ねてあった。


「No.23 初回デートで過去の恋愛話をすると相手が引くパターン」

「No.31 相手の友達に愚痴を言うと必ず本人の耳に入るパターン」

「No.39 記念日を忘れられても怒らない方が良い結果を生むパターン」


「これ、全部実体験から得た知見なの。今まで15人の男性とお付き合いしたけど、全部違うパターンで終わって、そのたびに新しい発見があった」


りえは絶句した。美咲の恋愛遍歴は知っていたが、それをこんな風に分析していたとは思わなかった。


「でも...悲しくないの?」


「もちろん悲しいよ。でも悲しみって、新しい知見を得るためのプロセスだと思うの。痛みがなければ学習は起こらない。これは心理学でも証明されてることよ」


美咲は新しいページを開いて、ペンを構えた。


「それに、今度は今までの知見を活かして、もっと良い関係を築けるはず。失敗を重ねれば重ねるほど、成功に近づいているってことでしょ?」


りえは友人の前向きさに感心すると同時に、少し心配にもなった。恋愛を実験のように捉える美咲の姿勢は、確かにメンタル的にはタフだが、本当に幸せになれるのだろうか。


## 第二章 知見との出会い


美咲の「恋愛知見コレクション」の歴史は、大学一年生の時の初恋にさかのぼる。


相手は先輩の山田だった。文学部で真面目な性格の彼に、美咲は一目惚れした。しかし告白したその日に、あっさりと振られた。


「君はまだ若すぎる」


たった一言だった。美咲は三日三晩泣き続けた。でも四日目の朝、ふと思ったのだ。


「なぜ振られたんだろう?」


美咲は自分なりに分析してみた。告白の場所、タイミング、言葉選び、服装、相手の状況...。すべてを客観的に振り返ってみると、確かに問題があった。


相手は期末試験の直前で忙しそうだった。告白の場所は人通りの多い学食。時間も昼休みの慌ただしい時間帯。美咲は相手の状況を全く考慮していなかった。


「これは貴重な経験だった」


美咲はそう思った。そして初めて「恋愛知見」をノートに書き留めた。


「No.1 相手の状況を考慮しないタイミングでの告白は成功率が低い」


それから美咲は、恋愛における出来事を常に分析し、学習するようになった。二人目の彼氏は一か月で別れたが、「連絡頻度の重要性」について学んだ。三人目とは半年続いたが、「価値観の違いを無視した場合の限界」を知った。


友人たちは「美咲は男運が悪い」と言ったが、美咲は違うと思っていた。運ではなく、知識と経験の問題だった。恋愛にも技術があり、それは学習によって向上できるはずだった。


大学を卒業するころには、美咲のノートには30個以上の知見が蓄積されていた。そして就職してからの数年間で、さらに17個の知見が追加された。


美咲は自分の成長を実感していた。初期のころは基本的なミスを繰り返していたが、最近の恋愛はより高度な段階での問題だった。拓也との関係も、三年間続いたのは知見を活かした結果だと思っていた。


ただ、一つだけ気になることがあった。知見を蓄積するほど、なぜか恋愛が長続きしなくなっているような気がするのだ。


## 第三章 新しい実験対象


失恋から一週間後、美咲は会社の同僚に紹介されて、佐藤健太という男性と出会った。健太は美咲と同い年のシステムエンジニアで、落ち着いた雰囲気の持ち主だった。


初回のデート、美咲は今まで蓄積した知見をフル活用した。


「過去の恋愛話は避ける(知見No.23)」

「相手の話を7割聞く(知見No.12)」

「連絡の頻度は相手に合わせる(知見No.5)」

「共通の趣味を見つけて話題にする(知見No.18)」


デートは成功だった。健太は「とても楽しかった」と言ってくれて、次回の約束も取り付けた。


「やっぱり知見の蓄積は無駄じゃなかった」


美咲は満足していた。


二回目のデート、美咲はさらに細かな知見を適用した。


「初回よりも少しカジュアルな服装(知見No.26)」

「相手の仕事の悩みに共感を示す(知見No.33)」

「食事のときは相手の好みを優先(知見No.41)」


これも成功だった。健太は明らかに美咲に好意を持っているようだった。


三回目のデート後、二人は正式にお付き合いすることになった。美咲は嬉しかった。今度こそ、すべての知見を活かして完璧な恋愛をしてみせる。


しかし、付き合い始めて一か月経ったころ、健太の様子が少し変わってきた。


「美咲さんって、すごく理想的な彼女だと思うんです」


健太はある日、そう言った。


「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しい」


「でも...なんというか、完璧すぎて」


「完璧すぎて?」


「はい。僕が何を言っても、いつも的確に反応してくれるし、僕の好みもよく理解してくれている。でも、美咲さん自身のことがよくわからないんです」


美咲は困惑した。相手に合わせることで関係が良好になるという知見があったはずだった。


「私のこと、知りたいですか?」


「もちろんです。美咲さんが本当は何が好きで、何を考えているのか知りたいです」


美咲は答えに詰まった。今まで相手に合わせることばかり考えていて、自分が本当に何を望んでいるのかわからなくなっていた。


その夜、美咲は久しぶりに深く考え込んだ。健太との関係は知見通りに進んでいるはずなのに、なぜかうまくいっていない気がする。


これまでの知見に、何か重要な見落としがあるのだろうか。


## 第四章 知見の限界


健太との関係に違和感を覚えた美咲は、これまでの恋愛知見を改めて見直してみることにした。深夜のアパートで、美咲は数年分のノートを広げた。


読み返してみると、確かにすべての知見は実体験に基づいている。でも何かが違う。知見を活用するほど、相手との距離が縮まるどころか、むしろ遠ざかっているような気がするのだ。


美咲は新しい仮説を立てた。


「もしかして、知見を意識しすぎることで、自然な自分を見失っているのかもしれない」


翌日、美咲は思い切って健太に本音を話してみることにした。


「実は私、恋愛について研究してるの」


健太は驚いた顔をした。


「研究?」


美咲は恥ずかしそうに恋愛知見ノートを見せた。健太はしばらく黙ってページをめくっていたが、やがて苦笑いを浮かべた。


「これ、すごいですね。でも...なんだか寂しいです」


「寂しい?」


「美咲さんが僕とデートしているとき、頭の中では常に分析していたってことですよね?それって、僕と向き合っていたんじゃなくて、データを収集していただけなんじゃないでしょうか」


健太の言葉は、美咲の胸に深く刺さった。


「そんなつもりじゃ...」


「美咲さんは本当に僕を好きになってくれたんですか?それとも、僕は知見を得るための実験対象だったんですか?」


美咲は答えられなかった。健太を好きかどうか、自分でもよくわからなくなっていた。知見を適用することに夢中で、自分の気持ちに向き合っていなかった。


「僕、美咲さんの素の部分が見たいんです。分析とか知見とか関係なく、美咲さんがどんな人なのか知りたい」


その日の夜、美咲は一人で泣いた。健太の言葉は正しかった。いつの間にか恋愛を「攻略」するゲームのように考えて、相手の気持ちや自分の気持ちを置き去りにしていた。


美咲は新しい知見をノートに書いた。


「No.48 知見に頼りすぎると本当の自分を見失う」


でも、これも結局は知見だった。美咲は自分が迷路に入り込んでしまったような気がした。


## 第五章 素のままで


翌週、美咲は健太に会って話をした。


「健太くんの言う通りだった。私、いつの間にか恋愛を攻略することばかり考えて、本当の気持ちを忘れてた」


「美咲さん...」


「でも、私、本当は健太くんのことが好きなの。知見とか関係なく、一緒にいると楽しいし、健太くんの真面目で優しいところが素敵だと思う」


美咲は初めて、分析抜きの素直な気持ちを伝えた。


「僕も美咲さんが好きです。でも、今度は知見を使わない美咲さんを知りたい」


「それ、すごく難しいかも。もう知見を考えないで行動するのって、どうしたらいいのかわからない」


健太は笑った。


「じゃあ、一緒に練習しましょう。僕も美咲さんも、お互いに失敗しながら学んでいけばいい」


「失敗してもいいの?」


「もちろん。失敗しない恋愛なんてつまらないじゃないですか」


美咲ははっとした。今まで失敗を避けるために知見を蓄積してきたが、健太は失敗することを前提に話していた。


二人はゼロからやり直すことにした。美咲は意識的に知見を封印して、素の自分で健太と向き合うようにした。


最初はぎこちなかった。どう振る舞えばいいのかわからず、会話も途切れがちだった。でも、不思議なことに、その不完全さが心地よかった。


「あ、今、知見を思い出しそうになった」


美咲が正直に言うと、健太は笑った。


「どんな知見?」


「『会話が途切れたときは相手の趣味について質問する』っていう知見」


「で、実際はどうしたいの?」


美咲は考えた。


「このまま黙っていたい。健太くんの横顔をぼーっと見ていたい」


「じゃあ、そうしましょう」


二人は公園のベンチで、しばらく無言で座っていた。美咲は健太の横顔を見て、幸せな気持ちになった。これまでの恋愛で、こんなに何もしない時間を過ごしたことはなかった。


## 第六章 新しい発見


知見を封印した美咲は、これまで経験したことのない感情に出会った。


ある日、健太が風邪で熱を出したとき、美咲は看病に駆けつけた。以前なら「病気の時の対応方法」という知見を思い出していただろうが、今回は無心で健太の世話をした。


「ありがとう、美咲さん。でも、無理しないで」


「無理してないよ。健太くんの具合が悪いと、私も心配で仕方ないの」


それは嘘偽りのない気持ちだった。分析的な思考を停止すると、純粋な愛情が湧き上がってくることに美咲は驚いた。


別の日、美咲は仕事でミスをして落ち込んでいた。いつもなら一人で解決策を考えるところだが、今回は素直に健太に相談した。


「私、今日すごく嫌なことがあって」


「何があったの?」


美咲は仕事のミスについて話した。健太は黙って聞いてくれて、最後に言った。


「それは辛かったね。でも美咲さんなら大丈夫だよ」


シンプルな言葉だったが、美咲の心に深く響いた。アドバイスや解決策ではなく、ただ共感してもらえることの価値を、美咲は初めて理解した。


知見を使わない恋愛は、確かに効率的ではなかった。時には喧嘩もしたし、すれ違いもあった。でも、そのたびに二人で話し合って、お互いを理解しようと努力した。


ある夜、美咲は気づいた。


「私、今まで失敗を避けることばかり考えてたけど、失敗そのものを楽しんでる」


健太との小さな喧嘩も、ぎこちない沈黙も、予想外の出来事も、すべてが愛おしく感じられた。完璧な恋愛を目指していたころより、はるかに幸福感があった。


## 第七章 最終知見


健太と付き合って半年が経ったころ、美咲は久しぶりに恋愛知見ノートを開いた。


数か月間、まったく書き込みをしていなかった。でも今なら、書けることがあるような気がした。


美咲はペンを取って、新しいページに書いた。


「No.49 最も重要な知見:知見を手放すこと」


そして続けて書いた。


「恋愛は科学実験ではない。相手は研究対象ではなく、一人の人間である。完璧を目指すより、不完全なままで愛し合うことの方が美しい。失敗を避けるのではなく、失敗を共有することで絆は深まる。


これまで48個の知見を蓄積してきたが、すべてを忘れて素の自分で向き合ったとき、初めて本当の愛を知った。


知見は恋愛の助けにはならない。なぜなら、恋愛は頭で理解するものではなく、心で感じるものだから。


これが私の最後の、そして最も大切な知見である」


美咲はノートを閉じた。もう二度と開くことはないだろう。


その日の夜、健太と二人でいるとき、美咲は言った。


「健太くん、私ね、これまでたくさん恋愛で失敗してきたの。でもそれを全部『知見』だと思って分析してた」


「うん、知ってる」


「でも最近気づいたの。失敗は知見になんてしなくていい。ただの失敗でいいんだって」


健太は微笑んだ。


「それって、とても大切な気づきだね」


「うん。そして私は健太くんと、これからもきっとたくさん失敗すると思う。でもそれを分析したりしない。ただ、一緒に失敗して、一緒に笑えたらいいな」


「僕もそう思う」


美咲は初めて、未来に対する不安がなかった。どんな失敗が待っていても、健太と一緒なら大丈夫だと思えた。


知見なんてなくても、愛があれば十分だった。


## 第八章 友人との再会


数か月後、美咲はりえと久しぶりにカフェで会った。


「美咲、最近すごく幸せそうね」


「そうかな?」


「顔つきが全然違うよ。前はいつも何かを分析してるような表情だったけど、今はすごく自然」


美咲は笑った。


「りえちゃん、実は私、恋愛知見コレクションをやめたの」


「え?あの研究みたいなやつ?」


「うん。気づいたの。恋愛って研究するものじゃなくて、体験するものだったんだって」


りえは安堵の表情を浮かべた。


「よかった。正直、あのノート見たとき、ちょっと心配だったの」


「心配?」


「だって美咲、恋愛を楽しんでるように見えなかったもの。まるで課題をこなしてるみたいで」


美咲は苦笑いした。りえの指摘は的確だった。


「でも、あの知見の蓄積も無駄じゃなかったと思うの」


「どういうこと?」


「知見を手放すことの大切さに気づけたから。あれだけ分析的に恋愛をして、最終的に『分析なんて意味がない』って結論に達したのは、ある意味で価値のある経験だった」


「それって、結局また知見になってない?」


美咲は一瞬固まった。確かにりえの言う通りだった。


「あ...」


「美咲らしいよ」りえは笑った。「何でも学習材料にしちゃうところ」


「でも今度は違うの。その知見を使って次の恋愛を攻略しようとは思わない。ただ、私にとって大切な気づきだったってだけ」


「わかる。美咲の性格だと、完全に分析をやめるのは難しいもんね。でも今の健太さんとの関係は、見ていてとても自然で素敵だと思うよ」


美咲は温かい気持ちになった。親友からの言葉は、どんな恋愛テクニックよりも心に響いた。


「ありがとう、りえちゃん」


「それにしても、美咲の恋愛遍歴を考えると、健太さんとは長く続きそうね」


「どうしてそう思うの?」


「だって今までの美咲は、常に『次はもっと良い関係を』って思ってたでしょ?でも今は『健太くんと一緒にいられれば十分』って感じがする」


美咲は考えてみた。確かにりえの言う通りだった。以前は常に改善点を探していたが、今は健太との現状に満足していた。


「そうかも。『もっと良い恋愛』を求めるのをやめたら、今の恋愛が『最高の恋愛』になった」


## 第九章 新しい始まり


健太と付き合って一年が経ったころ、二人は同棲を始めた。


一緒に住むようになって、美咲は新たな発見をした。健太は朝が苦手で、コーヒーを飲むまでは機嫌が悪い。洗濯物をたたむのが下手で、いつもしわくちゃになる。テレビのリモコンを必ず見つからない場所に置く。


以前の美咲なら、これらを「問題行動」として分析し、対処法を考えただろう。でも今は違った。


「健太くんのそういうところも含めて好きなんだな」


美咲は自分の変化に驚いた。完璧を求めなくなったら、相手の欠点すら愛おしく感じられるようになった。


ある朝、健太が寝坊して慌てている様子を見ながら、美咲は思った。


「私、この人と結婚したいな」


それは分析や計算ではなく、純粋な気持ちだった。結婚の条件やタイミングを考えたわけではない。ただ、健太と一緒に生きていきたいと思った。


でも美咲は、その気持ちを性急に伝えることはしなかった。以前なら「結婚話を切り出すベストタイミング」という知見を探していただろうが、今は自然な流れに任せることにした。


数か月後、健太の方から話を切り出した。


「美咲さん、僕たち、結婚を考えませんか?」


「私も同じことを考えてた」


「本当?」


「うん。でも健太くんから言ってくれるまで待とうと思ってた」


「どうして?」


「以前の私なら、タイミングを計算して、戦略的に話を持ち出していただろうけど、今回は自然な流れを大切にしたかったの」


健太は美咲を抱きしめた。


「美咲さんと出会えて、本当によかった」


「私も。健太くんのおかげで、本当の恋愛を知ることができた」


二人は幸せな時間を過ごした。知見もテクニックも必要なかった。ただ愛があれば十分だった。


## 第十章 完璧な不完璧


結婚式の準備をしているとき、美咲は母親から言われた。


「美咲、あなたって昔から完璧主義だったけど、最近は肩の力が抜けてるわね」


「そうかな?」


「健太くんの影響かしら?とても良い変化だと思うわ」


美咲は結婚式のプランを見ながら思った。以前なら完璧な結婚式を目指して、細部まで計画していただろう。でも今回は、多少の失敗があっても構わないと思っていた。


「お母さん、私ね、やっと気づいたの。完璧を目指すより、不完璧を楽しむ方がずっと幸せだって」


「どういう意味?」


「恋愛でも結婚でも、うまくいかないことの方が多いでしょ?でもそのうまくいかなさを含めて愛するってことが、本当の愛なんじゃないかって思うの」


母親は微笑んだ。


「それは素晴らしい考えね。お父さんと私も、最初はお互いの欠点ばかり気になっていたけど、長く一緒にいるうちに、その欠点すら愛おしくなったわ」


結婚式当日、予想通りいくつかのハプニングがあった。花嫁のメイクが少し崩れ、新郎のスピーチで噛んでしまい、ケーキカットでクリームが飛び散った。


でも美咲は全く気にならなかった。むしろ、そのハプニングがあったおかげで、結婚式がより思い出深いものになったと感じた。


「完璧な結婚式より、私たちらしい結婚式になったね」


健太は笑って答えた。


「美咲さんと僕の人生も、きっとこんな感じだね。完璧じゃないけど、私たちらしい」


「それが一番いいよ」


美咲は心から幸せだった。知見を手放して得た愛は、どんな完璧な計画よりも美しかった。


## エピローグ 新しい知見コレクション


結婚から三年後、美咲は新しいノートを手にしていた。でもそれは恋愛知見コレクションではなく、「幸せな結婚生活のための知見」でもなかった。


「子育て奮闘記」と書かれたノートだった。


生後六か月の娘を抱きながら、美咲は友人のりえに電話をかけた。


「りえちゃん、大変よ。赤ちゃんって、恋愛よりもずっと予測不可能」


「また分析してるの?」りえは笑った。


「してない、してない。でも記録はしてるの。『今日は夜泣きが3回』『離乳食を全部吐き出した』『おむつ替えの時に笑顔を見せた』とか」


「それって結局、知見コレクションと同じじゃない?」


美咲は一瞬考えた。確かにりえの指摘は正しかった。でも今回は違う。


「違うの。今度は改善のためじゃなくて、記憶のため。この子がどんな風に成長していくか、全部覚えていたいから」


「なるほど。分析のためじゃなくて、愛情のためなのね」


「そう。恋愛知見コレクションは失敗を避けるためだったけど、これは成功も失敗も全部含めて記録したいの」


娘が美咲の腕の中で小さく笑った。美咲の心は温かくなった。


「健太くんも育児、手伝ってくれてる?」


「もちろん。彼も私も、育児に関しては完全に初心者だから、二人で試行錯誤してる。でもそれが楽しいの」


美咲は窓の外を見た。健太が買い物から帰ってくるのが見えた。


「りえちゃん、私、やっと分かったの」


「何が?」


「人生で一番大切なのは、完璧になることじゃなくて、大切な人と一緒に不完璧を楽しむことなんだって」


「美咲らしい結論ね」


「でも今度は、この知見を誰かに教えたりしないよ。これは私だけの宝物だから」


電話を切った後、美咲は娘に向かって話しかけた。


「ゆいちゃん、お母さんはね、長い間恋愛を勉強してたの。でもね、最後に気づいたの。愛は勉強するものじゃなくて、感じるものなんだって」


娘は意味は分からないながらも、母親の声に反応して手をばたつかせた。


「お母さんはゆいちゃんにも、いつか素敵な恋愛をしてもらいたいな。でも知見なんて集めなくていいからね。ただ、心の声を大切にして」


健太が玄関のドアを開ける音が聞こえた。


「ただいま!美咲、ゆい、元気だった?」


「おかえりなさい。ゆいちゃん、お父さんが帰ってきたよ」


健太は娘を抱き上げて、美咲にキスをした。


「今日はどうだった?」


「今日もいろんなことがあったよ。でも全部幸せなことばかり」


美咲は本当にそう思っていた。娘の夜泣きも、洗濯物の山も、健太の靴下の脱ぎっぱなしも、全てが愛おしい日常だった。


完璧じゃない毎日が、完璧に幸せだった。


その夜、娘を寝かしつけた後、美咲と健太はソファに並んで座った。


「美咲、僕たちってうまくいってるよね」


「うん、すごくうまくいってる」


「知見とか使わなくても」


美咲は笑った。


「知見なんて最初から必要なかったのよ。ただ愛し合えばいいだけだった」


「じゃあ、あの恋愛知見コレクションは何だったの?」


「あれは...私が本当の愛に出会うまでの道のりだったのかもしれない。回り道だったけど、無駄じゃなかった」


「どうして?」


「だって健太くんに出会えたから。あの知見を手放したときに、初めて健太くんの本当の良さが見えたもの」


健太は美咲を抱きしめた。


「僕も美咲に出会えて本当によかった。分析的な美咲も、素の美咲も、全部好きだよ」


「ありがとう」


二人は静かに抱き合った。隣の部屋では娘が安らかに眠っている。


美咲は思った。人生最高の知見は、知見を手放すことだった。そして今、知見なんてなくても、毎日が驚きと発見に満ちていた。


愛する人がいて、愛される自分がいて、新しい生命が生まれた。これ以上何を求める必要があるだろうか。


美咲はかつての恋愛知見ノートのことを思い出した。あのノートは今、本棚の奥深くにしまってある。もう開くことはないだろう。でも捨てることもしないつもりだった。


あれは美咲の成長の証だった。失敗を恐れ、完璧を求めていた頃の自分から、失敗を受け入れ、不完璧を楽しめる自分への変化の記録だった。


「健太くん」


「何?」


「私たちの娘が大きくなって、恋愛で悩んだりしたら、何てアドバイスする?」


健太は少し考えてから答えた。


「『頭で考えすぎないで、心の声を聞きなさい』かな」


「私も同じこと考えてた」


「やっぱり夫婦だね」


美咲は微笑んだ。同じ答えに辿り着いたのは、偶然ではなく、二人が同じような経験を共有してきたからだった。


知見を求めることをやめた美咲は、代わりに人生の深い喜びを手に入れた。それは分析では得られない、心で感じるものだった。


未来には、きっとまた困難や失敗が待っているだろう。でも今度は、それらを知見として蓄積するのではなく、健太や娘と一緒に乗り越えていく。


完璧ではない人生を、完璧に愛していこう。


美咲の新しい人生が、静かに始まっていた。


**【完】**


---


**あとがき**


美咲の物語は、現代社会でよく見られる「効率化」や「最適化」への過度な執着に対する一つの答えを提示しています。恋愛を含む人間関係は、マニュアル通りにはいかないものです。


失敗を恐れることなく、不完璧な自分を受け入れ、相手をありのままに愛することの美しさ。それが、この物語の核心にあるメッセージです。


知見やテクニックも時には有用ですが、それらに頼りすぎることで、本来の人間らしさや純粋な感情を見失ってしまう危険性があります。美咲の成長過程は、多くの現代人が共感できる体験かもしれません。


真の幸福は、完璧を目指すことではなく、愛する人と共に不完璧を楽しむことにあるのかもしれません。

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