離縁排除プロセス設計書

トムさんとナナ

離縁排除プロセス計画書

## 第一章 設計書の誕生


二十八歳の桜井美穂は、コーヒーショップの隅のテーブルで、ノートパソコンに向かって真剣な表情を浮かべていた。画面には「離縁排除プロセス設計書ver.1.0」というタイトルが大きく表示されている。


「美穂、何それ?」


隣に座った親友の香織が、のぞき込んできた。美穂は慌ててノートパソコンを閉じる。


「えっと...仕事の資料よ」


「嘘でしょ。システムエンジニアの仕事で『離縁排除』なんて使わないでしょ」


香織の鋭い指摘に、美穂は観念した。実は香織こそが、この設計書を作るきっかけとなった人物だった。三週間前、香織は五年間の結婚生活にピリオドを打ち、離婚届にサインしたのだ。


「ねえ、香織。あなたの離婚の原因って、結局何だったの?」


香織は苦笑いを浮かべた。「価値観の違い、かな。最初は些細なことだったんだけど、積み重なって...」


美穂は真剣にメモを取り始めた。「価値観の違い...つまり事前の擦り合わせ不足?」


「美穂、まさか私の離婚を分析してるの?」


「違う!私はね、恋愛における最大の失敗は離婚、もしくは別れることだと思うの。だから、それを防ぐためのシステムを構築しようと思って」


香織は呆れたような、感心したような複雑な表情を見せた。「あなたって本当に...システムエンジニアの思考回路ね」


その夜、美穂は自宅のデスクで「離縁排除プロセス設計書」の完成版を作り上げた。A4で二十三ページに及ぶ大作だった。


**【目次】**

1. プロジェクト概要

2. リスク分析

3. 予防的措置

4. 定期メンテナンス

5. 緊急時対応プロトコル

6. 成功指標(KPI)


特に力を入れたのは「リスク分析」の章だった。過去の恋愛経験、友人たちの別れ話、インターネットで見つけた統計データを元に、関係破綻の要因を二十七項目に分類し、それぞれに対する対策を細かく記載した。


「完璧だわ」


美穂は満足げにつぶやいた。これで次の恋愛は絶対に失敗しない。そう確信していた。


## 第二章 被験者Aの出現


設計書完成から一ヶ月後、美穂に新しい出会いが訪れた。会社の新プロジェクトで配属された田中亮介、二十九歳。落ち着いた物腰で、仕事に対して真摯な姿勢を見せる男性だった。


「田中さんって、もしかして独身ですか?」


プロジェクトの飲み会で、美穂は同僚の佐藤に小声で尋ねた。


「そうだよ。なんで?」


「いえ、ちょっと...」


美穂の頭の中では、既に設計書の内容が回転し始めていた。田中亮介は理想的な「被験者A」だった。年収、学歴、性格、全てが設計書で設定した条件を満たしている。


翌週、美穂は意を決して田中に話しかけた。


「田中さん、今度お時間がある時に、コーヒーでも飲みませんか?」


田中は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに笑顔になった。


「ええ、ぜひ。いつが良いですか?」


「設計書によると...」美穂は口に出しそうになって慌てて言い直した。「えっと、今度の土曜日はいかがですか?午後二時に駅前のカフェで」


その夜、美穂は設計書を開いて入念にチェックした。


**【初回デート:実行項目】**

- 時間:午後二時開始(統計的に最も成功率が高い時間帯)

- 場所:静かなカフェ(会話に集中できる環境)

- 服装:清楚系ワンピース(信頼感を与える色合い)

- 会話トピック:仕事、趣味、家族の順で展開

- 支払い:相手に任せる(男性の自尊心を尊重)

- 解散時間:4時間以内(適度な物足りなさを残す)


土曜日、美穂は完璧な準備を整えてカフェに向かった。


## 第三章 初期実装とバグの発見


「すみません、お待たせしました」


美穂は約束の五分前にカフェに到着した。田中は既に席に着いており、コーヒーを飲みながら文庫本を読んでいた。


「いえいえ、僕も今来たところです」


設計書通り、美穂は仕事の話から始めた。


「田中さんは前の会社ではどんなお仕事を?」


「システム開発の上流工程を主に担当していました。要件定義から基本設計まで」


「要件定義!それってすごく重要ですよね。曖昧な要件のせいで後工程が大変になること、よくありますもん」


田中は少し驚いたような表情を見せた。


「桜井さん、詳しいんですね」


「私もSEなので...あ、でも設計書みたいに詳細に決めすぎると、かえって現実とのギャップが生まれることもあるなって最近思うんです」


美穂は自分が何を言っているのか分からなくなった。設計書では「相手の専門分野について適度な理解を示す」となっていたが、思わず本音が出てしまった。


「面白い考え方ですね」田中は興味深そうに身を乗り出した。「確かに、設計は重要だけど、柔軟性も必要ですからね」


会話は予想以上に盛り上がった。設計書で予定していたトピックを全て消化し、さらに映画や音楽の話まで発展した。気がつくと、五時間が経過していた。


「あ、もうこんな時間!」


美穂は慌てた。設計書では四時間以内の解散が推奨されていた。


「楽しい時間でした」田中は満足そうに微笑んだ。「また今度、良かったら」


「はい!ぜひ」


帰り道、美穂は設計書の修正箇所をメモした。「初回デート時間制限」の項目に「ただし、自然な会話の流れを優先する」という但し書きを追加した。


## 第四章 システムの稼働状況


二回目のデートは映画鑑賞。美穂は事前に田中の好みをリサーチし、アクション映画を選択した。設計書の「相手の興味に合わせる」という項目に従った結果だった。


「どうでした?」


映画館を出た後、美穂は田中に尋ねた。


「うーん、正直に言うと、僕はアクション映画より、もう少し静かな作品の方が好きなんです」


美穂は青ざめた。事前調査が不十分だったのだ。


「ごめんなさい!私、勝手に決めちゃって...」


「いえいえ、大丈夫です。桜井さんが選んでくれたから、新鮮でした」


田中の優しさに、美穂は胸が温かくなった。同時に、設計書の「相手の好みリサーチ」の項目に「直接本人に確認する」という修正を加えることを決めた。


三回目のデートでは、美穂は思い切って田中に選択を委ねた。


「今度は田中さんに決めてもらいたいです」


「それなら、美術館はどうでしょう?今、面白い企画展をやっているんです」


美術館など設計書には載っていなかった。美穂は少し不安になったが、田中の嬉しそうな表情を見て頷いた。


結果は大成功だった。田中の美術に対する造詣の深さに驚かされ、美穂自身も普段触れることのない世界に魅力を感じた。


「田中さんって、すごく博識なんですね」


「桜井さんこそ、いつも興味深い反応をしてくれるので、話していて楽しいです」


美穂は設計書に新しい項目を追加した。「相手の提案を積極的に受け入れる」。


## 第五章 バグレポートと仕様変更


付き合い始めて二ヶ月。美穂と田中の関係は順調に見えた。しかし、美穂の頭の中では設計書の更新作業が続いていた。


ある日曜日の午後、田中のアパートで一緒に過ごしていた時のことだった。


「美穂、いつもメモ帳に何か書いているけど、何?」


田中が美穂の手帳を覗き込んできた。美穂は慌てて隠そうとしたが、間に合わなかった。


「『田中さんは甘いものを食べる時、必ず渋い顔をする。今後は甘さ控えめの店を選択』...これって」


「あ、あの...」


美穂は真っ赤になった。バレてしまった。


「もしかして、僕のことを分析してる?」


田中の表情が読めなかった。怒っているのか、呆れているのか。


「ごめんなさい!でも、これは田中さんを困らせないようにするためで...」


「面白いね」


予想外の反応だった。


「え?」


「僕も実は、美穂のことを観察してたんだ。いつも一生懸命で、でもどこか不器用で」


美穂は困惑した。これは設計書にない状況だった。


「美穂って、すごく真面目だよね。僕のために色々考えてくれて。でも、そんなに完璧にしなくても良いんじゃない?」


「でも、失敗したら...」


「失敗って?」


美穂は設計書のことを全て話すか迷った。しかし、田中の優しい眼差しに、思わず本音が出た。


「別れちゃうのが怖いの。友達が離婚して、すごく辛そうで。私も過去に付き合った人と上手くいかなくて。だから今度は絶対に失敗したくなくて」


田中は黙って美穂の話を聞いていた。


「それで、完璧な恋愛をするための設計書を作ったの。馬鹿げてるって分かってるけど」


長い沈黙の後、田中は笑い出した。


「美穂らしいな」


「え?」


「システムエンジニアらしい発想だよ。でも、恋愛にデバッグは通用するのかな?」


美穂は首を振った。


「全然ダメ。バグばっかり。想定外のことばかり起きて、修正箇所だらけ」


「それが普通だと思うよ」


田中は美穂の手を取った。


「完璧なシステムなんて存在しない。恋愛だって同じじゃない?」


## 第六章 仕様書を超えて


その夜、美穂は設計書を見直していた。田中の言葉が頭から離れなかった。


確かに、設計書通りにいったことはほとんどなかった。でも、それでも二人の関係は続いている。むしろ、予想外の出来事の方が印象深い思い出になっていた。


翌週、美穂は香織に会った。


「どう?その設計書とやらは役に立ってる?」


「うーん...実は」


美穂は田中との出来事を話した。


「面白い人ね、その田中さん。美穂の変なところを受け入れてくれるなんて」


「変って...」


「愛情を込めて言ってるのよ。でも良かったじゃない。設計書なしでも上手くいってるってことでしょ?」


美穂は考え込んだ。確かに最近は設計書をあまり見なくなっていた。


「もしかして、私の設計書って意味なかった?」


「そんなことないと思うわよ。美穂が田中さんのことを真剣に考えてる証拠でしょ?方法はちょっとユニークだけど」


香織の言葉に、美穂は少し安心した。


その日の夜、田中から電話がかかってきた。


「美穂、明日空いてる?」


「はい、大丈夫です。どこか行くんですか?」


「実は、僕なりに美穂のための『デートプラン設計書』を作ってみたんだ」


美穂は驚いた。


「え?」


「美穂の好きそうな場所をリストアップして、天気や時間も考慮して...でも、実際に会ってみないと分からないことも多いと思うから、修正前提で」


美穂は笑い出した。


「私たち、変なカップルですね」


「変で良いんじゃない?普通は退屈だよ」


## 第七章 バージョンアップ


翌日、田中が用意したデートプランは想像以上に詳細だった。美穂の設計書に負けないくらい、細かくスケジュールが組まれていた。


「すごい...私より几帳面かも」


「美穂の影響を受けたかな」


二人は笑いながら、田中のプランに従って街を歩いた。しかし、計画の第一段階で早速問題が発生した。予定していたカフェが臨時休業だったのだ。


「あー、調査不足でした」田中は頭を掻いた。


「緊急時対応プロトコルの発動ですね」美穂はにっこりと笑った。


「緊急時対応?」


「代替案を三つ用意しておくの。私の設計書に書いてあります」


美穂は手帳を取り出した。しかし、今日は設計書を持ってきていなかった。


「あれ?忘れちゃった」


「じゃあ、即興で行きましょう」


田中が提案した。


「即興?」


「設計書なしの、ぶっつけ本番デート」


美穂は不安になった。設計書なしで上手くいくだろうか。


「大丈夫?」


「分からないけど、やってみない?」


結果的に、それは二人にとって最高のデートになった。たまたま通りかかった古本屋で面白い本を見つけ、公園で読みながら話し込んだ。夕方には小雨が降り出したが、傘を忘れた二人は軒下で雨宿りしながら、くだらない話で笑い続けた。


「楽しかった」


帰り道、美穂は素直に感想を述べた。


「計画通りじゃなかったけど」


「計画通りじゃないから良かったのかも」


田中の言葉に、美穂は何かが腑に落ちる感覚を覚えた。


## 第八章 設計思想の転換


その夜、美穂は設計書を久しぶりに開いた。二十三ページにわたる詳細な計画書。でも、今日のような経験は一行も書いていなかった。


「予想外の出来事を楽しむ」


美穂は新しい項目を追加した。でも、すぐに消した。これを項目にすること自体が矛盾している気がしたのだ。


代わりに、美穂は全く新しいページを作った。タイトルは「設計書ver.2.0」。


**【基本方針】**

- 完璧を目指さない

- 相手の意外な面を楽しむ

- 失敗を恐れない

- 自分らしさを大切にする


この新しいバージョンは、たった一ページで完結していた。


翌日、田中に新しい設計書を見せた。


「シンプルになりましたね」


「前のバージョンは複雑すぎたの。でも、これで良いのか分からなくて」


「良いと思うよ。でも、一つ追加したいことがある」


田中はペンを取り、最後の行に書き足した。


**「一緒にいて楽しいと思える人を大切にする」**


「これが一番重要だと思う」


美穂は頷いた。確かにそうだった。設計書の目的は完璧な恋愛をすることではなく、大切な人との時間を守ることだった。


## 第九章 システムの安定稼働


それから三ヶ月後、美穂と田中の関係はより自然なものになっていた。設計書は存在していたが、以前ほど頻繁に参照することはなくなった。


ある日、二人は初めて大きな喧嘩をした。きっかけは些細なことだった。美穂が仕事で疲れていた時に、田中が友人との約束を優先したことだった。


「私のこと、軽く見てるでしょ?」


美穂は涙ながらに訴えた。設計書には「感情的にならない」と書いてあったが、そんなことは頭から飛んでいた。


「そんなことない。でも、美穂が大丈夫だと思って」


「勝手に判断しないで」


二人は言い合いになった。美穂は家に帰ってから、設計書を開いた。「喧嘩の対処法」の項目には「冷静に話し合う」「相手の立場を理解する」などと書かれていた。


でも、美穂は設計書を閉じた。今は設計書通りに行動したい気持ちになれなかった。


翌日、田中から連絡が来た。


「昨日はごめん。美穂の気持ちを考えられていなかった」


「私も言いすぎました」


二人は公園で待ち合わせ、昨日の続きを話した。


「設計書には何て書いてあった?」田中が聞いた。


「冷静に話し合えって。でも、冷静になんかなれなかった」


「それで良いんじゃない?感情があるのが人間だから」


美穂は田中の顔を見つめた。


「田中さんは私の設計書、変だと思わない?」


「最初は驚いたけど、今は美穂らしいと思ってる。君が僕のことを大切に思ってくれてる証拠だから」


「でも、全然計画通りにいかない」


「それが良いところかも。予定調和じゃつまらないでしょ?」


美穂は笑った。確かにそうだった。


## 第十章 プロジェクト完了


一年後、美穂は香織と久しぶりに会った。


「どう?田中さんとは順調?」


「うん、相変わらず設計書通りにはいかないけど」


美穂は笑いながら答えた。


「でも幸せそうね。前より自然な笑顔してる」


「そうかな?」


「設計書、まだ使ってるの?」


美穂は考えた。最近は設計書を見ることは殆どなくなっていた。でも、完全に不要になったわけではない。


「時々参考にする程度。でも、内容は大分変わった」


「どんな風に?」


「『完璧を目指さない』とか『失敗を恐れない』とか。前とは正反対」


香織は感心したように頷いた。


「良い学習機能ね、その設計書」


「学習機能?」


「経験を積んで、自動的にアップデートされてるじゃない。まさにAIみたい」


美穂は新鮮な視点に驚いた。確かに設計書は、経験とともに進化し続けていた。


その夜、美穂は田中に香織の言葉を話した。


「学習機能のある設計書か。面白い発想だね」


「でも、まだバグは多いけど」


「バグがあるから面白いんじゃない?完璧なプログラムは退屈だよ」


田中の言葉に、美穂は深く頷いた。


「そういえば、田中さんは私の設計書をどう思ってる?正直に」


田中は少し考えてから答えた。


「最初は変わってるなと思った。でも、美穂が僕のことを真剣に考えてくれてるのが伝わって、嬉しかった」


「今は?」


「今も変わってるけど、それが美穂らしさだと思ってる。完璧じゃないところも含めて、愛おしいよ」


美穂は胸が温かくなった。設計書の目的だった「離縁の回避」は、もはやどうでも良くなっていた。大切なのは、お互いを理解し、受け入れ合うことだったのだ。


## エピローグ 設計書ver.final


二年後、美穂の設計書は最終バージョンを迎えていた。ページ数は一ページ。内容はシンプルだった。


**【離縁排除プロセス設計書 ver.final】**


**基本方針:**

- 相手を大切に思う気持ちを忘れない

- 完璧を求めず、今の関係を楽しむ

- 問題が起きたら、一緒に解決する

- 自分らしさを大切にしながら、相手も尊重する

- 設計書に頼りすぎない


**緊急時対応:**

- 困った時は素直に相談する

- 感情的になっても良い(人間だから)

- 謝る時は心から謝る

- 相手の気持ちに寄り添う


**成功指標:**

- 一緒にいて楽しいと思えること

- お互いの成長を感じられること

- 未来に希望を持てること


最後のページには、田中の字で追記されていた。


「美穂の設計書のおかげで、僕も恋愛について真剣に考えるようになりました。ありがとう。これからも一緒にバージョンアップしていきましょう。 - 亮介」


美穂は設計書を閉じて、隣でテレビを見ている田中を見つめた。完璧ではない、でも愛おしい日常がそこにあった。


設計書の最初の目的だった「離縁の排除」は、いつの間にか「愛情の育成」に変わっていた。そして美穂は気づいていた。真の離縁排除とは、完璧なシステムを作ることではなく、お互いを大切にし続けることなのだと。


「美穂、コーヒー入れるけど飲む?」


田中が振り返って聞いた。


「うん、お願いします」


美穂は微笑んだ。これからも予想外のことが起きるだろう。設計書にない問題も発生するだろう。でも、それを二人で乗り越えていくこと自体が、最高のバージョンアップなのだ。


設計書は引き出しにしまわれ、代わりに二人の未来への希望が、部屋を温かく満たしていた。


【完】


---


**著者後記**


この物語は、完璧を求めるあまりに不完璧な現実を受け入れられない現代人の心情を、恋愛というテーマを通じて描いたものです。主人公の美穂のように、私たちは往々にして人生をコントロールしようと試みますが、実際には予想外の出来事や感情の揺れこそが、人間関係を豊かにするものなのかもしれません。


設計書というシステマチックなアプローチと、予測不可能な人間の感情とのコントラストを通じて、真の愛情とは何かを考えるきっかけになれば幸いです。

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