【力】私たちは善人ではない。ただ無力なだけかもしれない

晋子(しんこ)@思想家・哲学者

私たちは実は「善人」ではないのかもしれない…

私たちは時に、自分のことを善人だと思い込んでいる。しかし、本当にそうだろうか?私たちが今まで他人を傷つけなかったのは、正義感からか?それとも、ただの無力さゆえではないのか?


この問いは不快かもしれない。しかし、不快だからこそ、向き合うべきだ。


私たちは、自分が悪いことをしていないからといって、それだけで「自分は善人だ」と安心してしまう。しかし、それはまやかしだ。本当の善とは、「悪を行う力を持ちながらも、それを行使しないこと」である。つまり、力を持った上でなお、正しい選択をし続けるという覚悟と鍛錬が必要なのだ。


では、力を持たない今の私たちが、たまたま人を傷つけていないとして、それは本当に善と言えるのか?たとえば、暴力をふるう力もなければ、他人を操作するだけの知恵もない。ただ、悪をなす手段がないからやっていないだけではないのか。もし、ある日その「力」を手に入れてしまったとしたら?私たちは本当に、それでも善を貫けるだろうか?


ここに、善と悪の本質的な境界がある。


力を持たない者の善は、もろく、偶然の産物に過ぎない。だからこそ、私たちは勉強しなければならない。鍛えなければならない。知識を得て、心を育てて、倫理を自分の中に築き上げていかなければならない。善とは、自然に訪れるものではない。努力の結果である。


特に現代において、情報や技術の力は誰にでも与えられるようになった。SNSで他人を攻撃する力。AIで誰かを貶める力。嘘を本当のように見せかける力。こうした力を手にした時、人は簡単に「悪」に堕ちる。なぜか?心が鍛えられていないからだ。力に先んじて、心が強くなっていないからだ。心を鍛えていないにもかかわらず、力だけを得てしまっているからだ。


本当に恐ろしいのは、「力を持った未熟な善人」である。彼らは、自分を善人だと信じたまま、他人を攻撃し、排除し、正義の名のもとに悪を行う。それはもう善ではない。だが本人は気づかない。自分が正しいと信じて疑わないからこそ、悪質なのである。


逆に、力を持った上で、なおかつ自分の中の悪を自覚し、それを戒めて生きている人間こそが、本物の善人だ。そういう人間は、自分の心の弱さや欲望を理解しているからこそ、傲慢にならず、常に学び続ける。そして、他人にも優しくなれる。


だから、私たちがもし今、無力であっても、それは悪いことではない。問題は、その無力さをもって善人ぶってしまうことだ。むしろ無力であることを自覚し、その上で「では、どうやって真の善に近づけるか」と考える人こそが、本当の善の道にいる。


善は自然には育たない。ほっておけば、人間の心は利己と欲望に傾いていく。だからこそ、善を目指す者は、自らを律し、学び続け、己の力と心の両方を育てなければならない。善は放っておいて育つ草ではない。善は、毎日水をやり、雑草を抜き、根を張らせなければ育たない花のようなものなのだ。このことを忘れてはならない。


何もしなければ善でいられる、という幻想は危険だ。人は努力しなければ、すぐに欲望や怒り、憎しみに流されてしまう。だからこそ、「勉強」が必要なのだ。ここでいう勉強とは、ただの学力ではない。倫理を学ぶこと、感情を制御すること、自分の中の悪を見つめ直すこと、弱さを自覚すること。そして、善とは何かを学び続けることである。


「力を持った善人」になるには、時間がかかるし困難な道でもある。しかし、それこそが人として最も価値のある生き方なのではないか。


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