第3話『今日の駅には、あなたがいた』-真一side-

久しぶりに見た彼女の顔に胸がいっぱいになっていた。会いたかった人に会えた。ちゃんと会いたいと言えた。その事実だけで言葉が出てこなかった。


目の前の彼女が驚いたように目を見開いて、頬を赤らめてこちらを見上げている。その表情を真っ直ぐに見つめ返す。


「……あの、どうかしましたか?」


問いかけられてようやく気づいた。自分が彼女に何も説明していなかったことに。


「仕事でトラブルがありました。その後始末で、ここ数日早朝出勤していたんです」


言いながら、自分の声が少しだけ弾んでいることに気づく。


「……今日、あなたに会わなくてはいけないと思ったので」


そう言うと彼女は少し目を丸くして、それから納得したように微笑んだ。なぜだかわからないけれど、その笑顔をずっと見ていたくなる。


「お仕事、まだ終わってないんですよね? 戻らなくていいんですか?」


心配そうに言われたが、その言葉に首を縦に振ることができなかった。まだ話していたかった。もう少しだけでもいいから、彼女の声を聞いていたかった。


話題を探して頭を巡らせたとき、ふと大事なことに気づいた。僕はまだ、彼女の名前を知らない。


「……あなたのお名前を教えていただけたなら」


「え?」


「あなたのお名前と、連絡先も教えてください。教えていただけたら社に戻ります」


我ながら子どもじみた言い方だと思った。けれど、そう言うしかなかった。名前を知っていれば呼ぶことができる。連絡先を知っていれば、会えなくてもつながっていられる。


彼女は少し戸惑ったあと、ゆっくりと口を開いた。


「桐島ひより、です」


その名前が耳に届いた瞬間、心に何かやわらかいものが触れた気がした。音の響きも、名前の意味も、すべてが美しく感じられて、思わず胸の奥がじんとあたたかくなる。


「ありがとうございます」


小さく頭を下げながらスマホを差し出した。震えそうになる手を押さえて、彼女が番号を入力するのを見守る。


表示された番号と名前をじっと見つめた。大切なものを扱うように指先でそっと画面を撫でた。彼女の名前が、もう自分の中で宝物になっていた。




その後、社に戻った僕に件の後輩・佐々木が泣きついてきた。


「相原さん! どこに行ってたんですかあぁぁ! 僕を見捨てないでくださいぃぃ!」


「資料はどこまでできたんだ? ……このグラフ、数値が間違ってる。元データをこっちに持ってきてくれ」


いつもより冷静で、いつもより判断が早かった。自分でもどうかしてると思うくらいに。でも、気分は悪くなかった。


小野からは「……お前、まじすげーな」と称賛なのか呆れなのか分からない一言をもらった。




一日が終わり、帰宅。すぐにでも連絡したかった。けれど落ち着け、まずは整えよう。シャワーを浴び、髭を剃り、歯を磨く。ドライヤーで髪を整えて、寝間着を選び、襟を整える。万全の準備の末、スマホの前に正座。

──何をしてるんだろう、僕は。


身内以外の女性に、自分からプライベートで連絡を取るのはこれが初めてだった。文字を打っては消し、語尾を直してはまた悩む。

「こんばんは」から始めるか? いや、堅すぎる? いきなり用件? それも不自然だ。試行錯誤の末にようやく一文を送り、深呼吸する。……よし、完璧だ。


数分後、彼女から返信が届いた。それだけで胸が少し熱くなる。どう返そう。いや、なんて返したら喜ばれるだろう。


……そういえば。昔、妹に言われたことがあった。


『お兄のLINE、絵文字ひとつなくてつまんない』


あのときはそんなもの必要ないと思っていた。でも今なら、少しだけわかる気がする。


僕はスマホを構え、少しだけ悩んで──笑った顔の絵文字を一つだけ添えて送信した。大げさかもしれないけれど、それだけで今日はもういい日だと思えた。


少しだけ、いい夢が見られそうな気がした。


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