第16話 <過去編:中学時代>高校入試合格発表

1991年3月18日

北海道公立高校入試合格発表日


<19時すぎ>

苫別町・自宅


月末の塾の合格祝賀会には、行くつもりはなかった。

――いや、行けるわけがないと思っていた。


たぶん、いや絶対に電話はかかってくる。

発表日の夜、家の電話が鳴った。

母は「塾の先生からよ」とだけ言ってきた。


思ったより早いな。

胸の奥がわずかに緊張した。


目の前には、「合格」の通知書。


母の表情には、何か言いたげな雰囲気もあった。

受話器を耳にあてると、聞き慣れた安立先生の声が飛び込んできた。


<同時刻>

北大進学ゼミナール 旭川校舎 

講師室


合格者名がびっしりと貼られた一覧表。


祝賀ムードの講師室で、その一角だけどんよりとした空気が漂っていた。

笑い声や新規入塾の申込の電話の音が、遠くから聞こえる。


「今から中村の家に電話します」と安立先生。

進路指導の立場もあるのか、表情はさえない。


俺――辰野は「ええ、お願いします」とだけ返した。



あの日……

今月上旬の入試当日。


樟陽高校や神楽東、青陵の受験会場に直樹の姿は見なかった。

俺らが見逃したのかと思ったが……。

土曜コースの生徒からも、直樹を見たという話は聞かない。

インフルエンザで欠席した可能性もありえたが、

再試験会場にもいなかった。


そもそも。


直樹だけ、最終出願高校と受験番号を塾に伝えていない。

たまたま忘れただけなのか、それとも――


こちらからの電話に、果たして直樹本人が出るだろうか?

状況が状況だけに、親御さんが対応するのかもしれんな。



「おお、直樹か? 今、話せるか。夜遅くにすまんな」


安立先生の大きい声が、

講師室の視線を一斉に集める。


「そう言ってくれて助かるよ。いきなりで悪いが、

お前、ご家庭に何かあったのか?」


短い間。


直樹の返事の内容までは、こちらには聞こえない。


「いや、そうじゃなくてな。お前の受けた高校がわからないんだよ」


赤ペンで囲まれた合格者の列を、先生は視線でなぞる。

そこに、直樹はいない。


「そう、入試会場でも姿が見えなかったって話でな。

インフルエンザ流行ってたろ? だから、休んだのかって思ってたんだ。

再試験に回ったかもなって」


「そりゃ見てるよ、当然だろう。あの日は俺ら講師全員で手分けして、

高校の正門前で声かけしてたんだから」


「で、今日の合格発表。お前からの連絡もなかったから、

心配に思ってな。結局、どこを受けたんだ?」


安立先生は、一瞬受話器に耳を寄せた。

空気の揺れすらも拾おうとするように。


「は?」


講師室の空気が、

ぴたりと止まった気がした。


「……そうか、そっちにしたのか。なんで……そこにしたんだ?」


直樹は、樟陽高校じゃないのか?

安全策で神楽東か青陵に回ったのか……


「でもな、お前。あれだけ努力してきただろ? 仲間と一緒にさ」


安立先生の眉間には、皺が寄っている。


「クラスの連中は? 相葉とか山本は知ってるのか」


「そうだよな、言えないよな。2月とかピリピリしてたもんな」


「なるほどな……で、それでお前は納得してるのか?」


「でもさ、ラ・サールの特訓まで受けてただろ? 正月に」


悔しさを隠そうとする声が、逆に強く響いた。

いったい、何を話している?


「いつ地元に行こうって決めたんだ?」


……!

直樹が地元?……バカな。


タバコの灰を落とす指が、すこし震えた。


「そうか……じゃあ、1月は周りに合わせてたんだな」


ずっと樟陽高校を第1志望にしてた直樹が、なぜ?


「ご両親は何て?」


「う~ん、……なるほどなあ」


信じられなかった。


「まあ、全員が大学に進めるわけじゃないし。

高校だって上位に入れる保証もない。でも、そこでトップは意味ないぞ」


「不利だぞ。ライバルがいないところで受験勉強を続けるって、すごく孤独なんだよ。俺も経験あるから言うけどさ」


……そうだ。

トップに立つことと、そこから先に進めることは別物。

進学熱のない環境は、志があっても心を削ってゆく――

それを俺たちは何度も見てきた。


かすかに灯るタバコの火だけが、やけに暖かく見える。


「家の事情っていうなら、俺らが口を出すことじゃない。

けどよ……気持ちが切れそうになるぞ、『大学受験、もういいや』ってなる。

それが一番怖いんだ」


「高校生活って、流されるんだよ。入ってみたらわかる。

勉強習慣や進学の雰囲気……そういうの、お前の高校はには、たぶんないだろ?」


あるわけがない。これまで見てきた中で、

そんな環境で踏ん張れるのは、ほんの一握りだった。


「授業だって、せいぜい5-6時間だろ?

共通一次の願……あ、いや。今はセンター試験か。

センター試験の願書の出し方だって、わからんのじゃないか?そこだと」


「お前の高校のデータも、こっちにはないんだ」

安立先生の口調に、心配と惜しみが同居していた。


地元ってことは、

直樹は苫別高校……か。


「いや、直樹が落ちるわけないだろ。

だったらお前、トップ合格なんだろうな。結果はわかってるのか?」


思わず苦笑が漏れる。

もし直樹が不合格なら、苫別高の合格者はゼロだろう。


「そうか。それならいい、許す。ったく……心配させやがって」


講師室の空気が、わずかに緩んだ。


「で、4月からどうする。塾は続けるのか?」


「おう、来いよ。歓迎するぜ」


「進度は合わないけど。お前、必死でついてこいよ」


「中学の仲間も何人か塾に申し込んできたよ。

また一緒だな。お前の高校を聞いたら驚くぜ、きっと」


よどみなく言葉を重ねる安立先生――それは、

直樹の決心が相当以前から固まっていた証拠だった。


「いや、謝らんでいい。謝れと言っているわけじゃないんだ。

そういう選び方は俺も高校時代には考えなかったからな。意外だったんだ」


「確かに目標は大学受験だ。

高校だけ良くて、大学でダメってのも多いからな」


「まあな、新しい道になるかもしれない。

もし実現したら、カッコいいと思うよ」


「ああ、じゃあな。来月、塾で待ってる。

ご両親にもよろしく伝えてくれ」


受話器が静かに置かれる音が、

講師室にやけに大きく響いた。

ゆっくりと天井にのぼる煙の行方を追うことしか、

俺にはできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る