第8話 <現代編:再会前夜>追憶

娘と夫が出かけて行ったあと、居間にはぽっかりと静寂が残された。


キッチンの換気扇が、一定の低い音を響かせている。

その音だけが、今の玲子の耳に届いていた。


リビングの窓から差し込む冬の光が、テーブルの上に残された葉書を淡く照らす。

さっきまでの家族の会話が、ほんの少し前の出来事だったなんて思えない。


玲子は、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

指先がそっと、葉書の角に触れる。


ダイニングのテーブルには、さっきの家族の気配がまだ残っていた。

悠登の脱ぎっぱなしの靴下が椅子の下に転がっている。


……


ほんとうに……


お医者さんになったんだ……直ちゃん。

あのときから言ってた夢を……叶えたんだね。


うちらの高校って、ほら……とっても田舎だったから。

どうなっちゃうんだろうって、思ってた。


教室の窓ぎわで、大学の資料を読んでいた背中――

不思議とよく覚えている。


みんな、あなたの夢を信じてなかったと思うけど。

私も……どうだったかな。


松山先生からはね、

直ちゃんも結婚して……子供もいるよ……って、聞いてたよ。


そうだよね……。

お互い結婚……子供も……いるよね。


玲子はふと窓の外を見た。

冬の白い陽射しが、ゆっくりと庭の鉢植えに落ちていた。


最後に会ったのは……卒業してから1年くらいたってからよね。

あの頃はまだ未成年。

若くて、何も知らなかった。


あのとき……初めて私に気持ちを伝えてくれた。

びっくりして、でも――

うれしかった。


実はね……高校のときから、ちょっと気づいてたよ。

直ちゃん、そういうところ……。

気持ちを隠すの、ぜんぜん上手じゃなかったから……。


静まり返った空気の中で、時計の針だけが遠くで音を刻む。


だけど私は、やさしい言葉は返せなかった。

「ありがとう。でも、ごめんなさい」しか……。


それっきりで29年……。

もう30年近くも経っちゃったんだね。


視線を上げた先の、庭の葉先に残る霜の光に目を細めた。


今度が――あの日以来、はじめての再会。

目を合わせたら――29年後の私たちが、何を話せるんだろう。


ひと息ついた空気が、どこか懐かしい匂いを運んでくる気がした。


玲子はゆっくりと目を閉じた。

まぶたの裏に浮かぶのは制服姿の高校生たちと、今はもう取り壊された古い校舎と教室。


ねえ……。


もう…… 私のことなんか、やっぱり……忘れてるよね。

今は私も、48歳になっちゃったし。

あなたはまだ47歳……そうよね。


いまさら何を期待してるんだろう。


覚えてる?

高校のとき、

同じ班のみんなで、誕生日の話をしたよね。

康介や由香や、明日香もいたかな。


「直ちゃんのほうが3か月も若~い、ずる~い」って、私が言って……。


あなたは、


「このズレは、何十年後にひびくぞ~。3月生まれの特権だ~」って、笑ってた。


当たったね。


お医者さんになった直ちゃんに、また同じことを言われたら……もう、泣けるよ。


でも、今度はそんな話もしないまま終わるのかもしれない。


そう思うと……ちょっとだけさびしいね。


玲子はゆっくり目を開いた。

テーブルの上の葉書を、じっと見つめる。

まだ核心に触れていないのに、手のひらがじんわりと暖かかった。


椅子に深く座ったまま、天井を見上げる。

天窓から差す淡い光が、どこか儚い。


指先が、いつの間にか葉書の文字の上をなぞっている。

あの言葉を――もう一度、

思い出しているみたいに。


直ちゃん……。

あの朝の手紙のこと……忘れてる?

切手のない直ちゃんからの手紙……読んだよ。

手紙をくれるなんて、思ってなかった。


どうして同じ高校だったのかって、初めてわかったよ。


それに……あなたの「もう少しだけ、好きでいさせてね」って、

私、とても……


指先がそっと胸元に添えられる。


ねえ…… 。


聞いてもいい……?


(トクン)


怒らないでね……。


私への“好き”は……。


(トクン)


いつ……どこで終わっちゃったの?


唯一部屋に響く時計の秒針。 

それが、いつもよりはっきりと強く聞こえた。


目元を指でそっとなぞる。 

玲子は少しだけテーブルへ向けて顔を伏せて、 そっと笑った。


自分だけが知っている静かな笑顔。

そこにあったのは、寂しさでも、悔しさでもなく――

確かにあった「過去」に触れたときだけににじむ、微かな温かさと、揺れ。


返事は……やっぱりいらない。

思い出せただけで、もう十分。


玲子の影がカーテンのすき間から差し込む冬の光に揺れていた。


たったひとつ。

心の奥で小さな明かりがまだ、そっと灯り続けていた。

返事がない部屋の中で、彼のあの筆跡がまた浮かんでくるようだった。


きっと、今度会っても何も起こらない。

でも、会わずに終わるのは、たぶん違う。


……それだけは、確かにそう思えた。


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