この愛に沈んで、息ができなくなる前に
愛碧あい
第1話 君を迎えに来た日
春の風が、花の香りを連れてくる。街はまるで祭りのように賑わい、人々の笑顔があふれていた。
そのざわめきの中、黒いフードを目深にかぶったひとりの娘が、石畳の影を静かに歩いていた。人々を避けるように、そっと街の片隅をすり抜ける。
手には、小さな包み。薬草を取引先へ渡すだけ――今日の予定は、それで終わるはずだった。
けれど、その計画はあっけなく崩れ去る。
「レアルーン様が帰ってきたんだって!」
「魔王を倒したって、本当?」
「笑わないし冷たそうなのに、でも……あんなに綺麗な人、他にいないよね」
「結婚してくれって言われたら、わたし……!」
次々と弾ける歓声に、通り全体が浮き立っていた。
街のざわめきが向けられる先には、中央を歩く一行の姿があった。
逞しい体に大剣を背負った男が、照れくさそうに手を振る。
神衣の金糸の刺繍がまばゆい聖女は、微笑んで人々に応えていた。
そして、ふたりの中央――まるで光をまとったような白衣の魔導士が歩いていた。
銀の髪が春の風に揺れる。
肩に届きそうな銀の髪がふわりと舞うたび、誰もが思わず彼に意識を奪われていた。
静かな横顔。その目に映る青は、深く、吸い込まれるようだった。
それは、誰もが憧れを抱く、完璧な美しさだった。
アリアは押し寄せる人波の中、マントの裾をぎゅっと握る。
勇者たちを気にする様子もなく、ただ足早にその場を通り過ぎようとした。
その一瞬、風が悪戯をした。
黒いフードの隙間から、漆黒の髪が覗く。
赤い瞳が、光を受けてわずかにきらめいた。
(……いや)
ひやりとした感覚が、体の奥をかすめた。
その異質な色彩は、この街ではあまりにも目立ちすぎる。
アリアは慌ててフードを引き寄せた。
恐る恐る辺りを見渡す。だが、遅かったようだ。
銀の髪の男と視線がぶつかってしまう。
心の動揺を隠すように、彼女はすぐに背を向けた。
なのに、その男からは、敵意のようなものは微塵も伝わってこなかった。どこか底知れなくて――ひどく落ち着かない感覚だった。
(大丈夫……ほんの一瞬だったし……大丈夫)
自分に言い聞かせるように。目をつぶり、早く時間が過ぎてほしいと願うしかなかった。
「アリア」
低く、けれどよく通る声が、ざわめきの中で確かに届いた。
ずっと呼ばれなかった名前。
母が亡くなってから、一度も口にされなかった。
自分でさえ、もうその名前を忘れかけていたのに。簡単に名前を呼ばれて、不意を突かれた。
(……誰?)
思わず、その男を見つめ返していた。銀の髪、青い瞳。整った顔立ち。それでも、どうしても思い出せない。
男は迷わずこちらへ歩み寄る。ひとり、またひとりと、その道を開けていく。
まるで、誰もがそうするのが当然だと言わんばかりに。
気づけば、その男は目の前にいた。
「ずっと君のことを想ってた。こうしてまた会える日を、何度も夢に見た」
青の奥にある熱が、じりじりと伝わってくる。
その真剣さに、心臓がどきりと跳ねた。
「迎えに来たよ。今度は……ずっとそばにいたい」
そして、最後に告げられたその言葉が、アリアの世界を静かにひび割れさせた。
「――結婚してくれ」
次の瞬間、通りにいた人々のざわめきが、一気に広がる。
驚きの声が四方から飛び交う中、勇者は気まずげに顔を伏せ、ひとつ咳をしてその場をやり過ごした。
聖女は、口元に手を添えたまま、ふふっと小さく笑った。まるで面白いものでも見つけたかのように。
「うわ……ちょ、これやばいだろ……」
白いローブの補佐官はおろおろしながら手帳を取り出し、落ち着きなくページをめくると、小さな声で何かぶつぶつ書きつけていた。
周りのざわめきが増すほど、アリアは自分だけがどこか遠くにいる気がした。何も言えず、何も動くことさえできなかった。
頭が真っ白だった。何かがおかしい。それはわかっていたのに、脳が追いつかない。息を呑むだけで、喉がひどく乾いていた。
(なにを、言ってるの……?)
「え、と……あの……その……」
言葉にならない音ばかりが唇からこぼれ落ちる。気づけば、体が勝手に強ばっていた。
ずっと、誰とも深く関わらずに生きてきた。そうしてれば傷つかずに済んだから。
言葉なんてなくても、どうにかなってきた。
それなのに……
それでも、やっとの思いで声を絞り出す。
「……どちら様ですか?」
アリアの問いに、彼は黙って立ち尽くしていた。
ふと、表情が陰る。
ただ、それだけのことで──空気が、わずかに変わった。
けれどすぐに、彼は微笑んだ。
切なさを滲ませながらも、どうしようもなく優しくて──胸に残るような笑みだった。
「……レアルーンだよ。君と交わした約束、僕はずっと忘れなかった。迎えに来たんだ。魔導士になって」
アリアは小さく首を傾ける。
「……レアルーン……?」
その名に確かな記憶はなかった。でもなぜだか、どこか懐かしさを感じてしまっている。
すると彼は、ひとこと、こう続けた。
「そう。いつも君は、僕のこと“レア”って呼んでた」
その瞬間、眠っていた記憶の扉が音を立てて開いた気がした。
確かに、そんな名前で呼んでいた子がいた。
鮮明に記憶を蘇らせようと必死で頭を働かす。
銀髪で、青い目をした、とても可愛らしい子だった。
そうだ……その子は、女の子だったはずだ。
「うそ……女の子、じゃ……」
声が震え、言いかけた言葉を最後まで紡げない。
その姿を前に、どうしても過去の記憶が邪魔をした。
すると、彼は落ち着いた声で、まっすぐに言った。
「違うよ、アリア。僕は――男だ」
低く静かなその声には、冗談なんてひとつもなかった。一点の曇りもない眼差しも、微動だにしないその立ち姿も。
――どれだけの覚悟を抱えて、今ここにいるんだろう。
アリアには想像すらできなかった。
だってどこをどう見ても、かつての“レア”とは重ならない。
その現実を、アリアはまだ受け止めきれずにいた。
姿も、声も、瞳の奥に宿る熱も――まるで別人みたいで。
なのに、どうしようもなく、あの頃の温もりが微かに残っている気がした。
「……ごめんなさい。信じたいけど……急にそんなこと、言われても……」
かすれた声でそう呟き、アリアはそっと一歩だけ身を引いた。胸元を押さえた手に、知らず力がこもっている。
それでもレアルーンはまったく動じなかった。静かな声音で、やわらかく続ける。
「昔、アリアに渡したブレスレット――まだ、持ってる?」
そのブレスレットは、今も彼女の手首に巻かれて、微かに揺れている。
そう……彼が言った通り、あの子から別れ際に“君を守るもの”として渡されたもの。銀の鎖に、青い石がついた、小さな飾りのブレスレット。
その言葉に、アリアははっと顔を上げた。だけど、その瞬間――
「ちょ、ちょっとレアルーン!? 周りの嫉妬がヤバいって……!」
いきなり飛び込んできた声に、二人の間の空気がごちゃっと乱れる。
勇者ライガが割り込むように前に出てきて、背中の大剣を軽く揺らしながら、場の空気を和ませるように口元を緩めた。
「このままだと、通りの女の子たちの視線で、燃やされそうだぞ……アリアちゃん、早くこっち!」
その後ろから、ジオが手帳を振り回しながら慌てて駆けてくる。
「うわ……ちょ、ちょっと待ってよ! 今の最高だったのに……ライガ空気読んでよ!」
「お前な……注目されてるの、わからないのかよ」
ライガは、呆れたように息をついた。その様子を聖女フロレットは、微笑みを崩さずただ静かに見守っていた。
その場に立ち尽くしながら、アリアの頭は真っ白だった。もうわけがわからない。
すぐそばでは、男たちが騒いでいる。
そして、自分がその注目の的になっていることに、ようやく気づく。
早く……逃げなければ――その本能だけが、背中を押した。
足を引こうとした瞬間、ライガにぐいっと腕をつかまれる。
「ほらほら、こっち――」
「……離せ」
低く、有無を言わせぬ声が、その場を支配した。レアルーンの気配が、ライガの手元にぐっと集中する。逃がさないという強い意志がそこにあった。
ライガは悟った。完全に“狙われている”。ただの静けさじゃない。
今にも、そこから何かが飛び出してきそうな気配──そう、“殺意”の形をした沈黙だった。
ライガは「まいった」とでも言うように両手を上げ、素直に手を放した。
「……悪い。別に深い意味はなかったんだけどな」
「はいはい、道開けてくださーい! 勇者ご一行、通りまーす!」
ジオがわざとらしく手帳を振りかざし、場を笑いで包み込むように通りをかき分ける。
その後ろで、レアルーンが静かにアリアの隣に立ち、手を差し出した。
さっきまでの冷たい気配は、まるで嘘のように消えている。
「静かな場所で、君とちゃんと向き合いたい。……一緒に来てくれる?」
その声は穏やかで、誠実だった。押しつけがましくなく、ただ信じて待ってるみたいに聞こえる。
アリアは迷いながらも、その手を取ってしまっていた。
彼の手は温かくて、まっすぐすぎて――拒むことはできなかった。
(話してみたい。ちゃんと、聞いてみたい。“レア”のことも、あのときのことも……)
ほんの少しだけ、そう思ってしまっていた。
気がつけば、一行は通りを歩き出していた。アリアはフードを深くかぶりなおし、顔を隠すようにうつむく。
通り過ぎる視線に触れるたび、マントの裾を無意識に握りしめてしまう。
勇者たちは道の両側にいる人々に手を振っていた。 まるで、それがいつもの日常みたいだ。
そんな一行の中に、自分がいることが。……なんだか、どうしようもなく変で仕方なかった。
つい先ほどレアルーンに差し出された手を取ってしまったことを、すでに後悔し始めている。
冷静に考えれば今一緒に行動しなくても、後日待ち合わせするなり、できたのではないだろうか。
隣にいるレアルーンをフードの隙間から、ちらりと盗み見る。
きれいな顔立ち……街の女の子たちが騒いでいたのも、わかる気がする。
勇者たちは笑顔で街の人に手を振り返しているのに、彼は笑いもせず、ただ前だけを見て歩いていた。
女の子たちが名前を呼んでも、知らん顔だ。
冷たいはずなのに、ぞっとするほど――月の光みたいに、美しかった。
こんなきれいな男の人、初めて見た。
プロポーズされたの? 私が? これって夢なんじゃ……。
「僕の顔、何かついてる?」
レアルーンが急に腰を屈めて、フードを覗きこんだ。にこっと優しく笑われて、顔が赤くなる。
「あの、いや……なんでもないです」
考えてた頭の中を覗きこまれてしまったみたいで、ぎこちなく笑いそうになった。
「アリア、可愛いね」
──それは、爆弾を落とされたような衝撃だった。
アリアはフードを限界までおろして下を向く。
力強く拳を握りしめた。手の爪が食い込んで、痛い。
……夢じゃない。
聞き間違い? そう思いたくなるくらい、現実が信じられなくなっていた。
ぼんやりとした思考のまま、足だけが勝手に動いていた。いつの間にか、ずいぶん歩いてきていたようだ。
(……そういえば、どこに向かってるの?)
そう思って顔を上げると、そこには見慣れた白い尖塔がそびえている。神殿だ。
アリアにとって苦手な場所だった。昔からここに近づくだけで、頭が痛くなる。
そして空気は重く感じられ、具合が悪くなっていた。
下を向いて歩いていたから、この場所に気が付くのが遅くなった。
気づけば、神殿の扉がすぐ傍にあった。アリアの足が止まる。
(あれ……?)
神殿にこんなに近づいたのは初めてなのに、体に変化は感じられない。
不思議に思って、自分の体を見つめて、小さく眉をひそめた。
「アリア……大丈夫だよ」
レアルーンに不意に声を掛けられ、アリアは顔を上げた。
まっすぐに注がれたその眼差し――
その強さに触れた瞬間、さっきまでの不安が、すーっとどこかへ溶けていくようだった。
重厚な扉が音もなく開いた。白く高い柱がそびえ立ち、静寂な空気が肌に触れる。
初めて触れる“神聖”という空気に、自然と体が引き締まる。
足音だけが、石畳に響く。まるで別世界だ。神殿の人たちが数人静かに、みんなを迎えた。
街のみんなとは対照的な静けさだ。よそ者のアリアを気にする様子もない。
隣にいる彼のおかげだろう。もう、その隣にいることが嫌じゃないどころか、少しだけ安心していた。
でも、その目に宿る光に惹かれるたび、どこか言葉にできない揺らぎが胸を包む。
(……まるで、月の光みたい)
触れられないほど遠いのに、完璧すぎて。
近づけば壊れてしまいそうなほど、静かで綺麗で……
そんなふうに感じてしまう自分が、一番怖かった。
このときの私は、まだ知らなかった。
この再会が、望んでいたはずの未来を、静かに塗り替えていくことを。
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