泣き虫の天使

星ジョージ

第1部 わが青春のとき

第1話 直子

 誰にでも、忘れられない異性が一人はいるだろう。

 俺、川越耕二にとって、それは高島直子である。

 笑うかも知れないが、俺は運命論者だ。人は生まれた時から運命というレールに乗って人生を旅している。あの時ああしていれば、はあり得ないのだ。

 抗えない運命に流されて、俺と直子は出会い、そして終わった。





 1998年(平成10年)3月1日、俺は府中刑務所を仮出所した。

 懲役17年だったが、14年3か月で仮出所が認められた。模範囚という名目だが、服役者が多過ぎて看守の手が回らないので、何人か出してしまえという事情らしい。

 天皇崩御の1989年と、皇太子成婚の1993年には、大々的な〝恩赦〟というものが行なわれたが、俺は時期尚早として対象にならなかった。

 そしてやっと、寒い日の朝に塀の外に出て来た。時代は、昭和から平成になっていた。

 こういうとき映画では、家族や組員が車でお迎えに来るものだ。『ブルース・ブラザース』では、ジョン・ベルーシをダン・アイクロイドが中古のパトカーで迎えに来ていた。

 俺にはそんなものは無かった。誰も呼んでいないから当たり前だ。家族からはとっくに勘当されて縁は切れている。

 その代わり、保護観察官と保護司という二人の男性が来ていた。俺は仮出所なので、刑をまだ終えていない。娑婆には出たが完全に自由の身ではなく、定期的に観察しながら世話をしてくれる人が付くのである。

 保護司の工藤さんは、倉庫会社社長だそうで鼠色の作業着を着ており、社名の入った軽トラックが俺の出迎え車だった。その車で、豊島区にある工藤さんの会社まで行った。




 大きな倉庫の中の小さな社長室で、インスタントコーヒーを飲みながら、三人で話をした。観察官の大野という男性は、40代くらいでスーツ姿のいかにも公務員のような人で、これからのことについてひと通り説明すると、30分くらいで帰って行った。

 保護観察中は、外出時は行先を工藤さんに事前連絡すること、東京都外には出られないこと、工藤さん宅の隣りのアパートに住むが外泊はしないこと、などを聞かされた。

 大野氏が帰ると、工藤さんが2杯目のコーヒーを入れてくれた。久しぶりのネスカフェはおいしかった。

「これから2年間、私を父親だと思ってほしい」

 工藤さんは恰幅の良いジョン・ベルーシのような体格に、『スーパーマン』のクリストファー・リーブがクラーク・ケントの時にかけていたような大きなメガネをかけた、いかにも中小企業の社長さんという感じの55歳だ。メガネの奥に見える人の好さそうな目は、少し心を許せそうな気がした。

 話をしながら、工藤さんは見慣れない小さな機械をカチャカチャと操作している。見せてもらうと、画面の中で文章が書かれていた。俺と話したことなどを日記のように記録していた。

 ワープロというものだそうで、文字を打ち込むと活字のような文書が紙に印刷されたり、保存することが出来るらしい。大学生のとき和文タイプライターという不便なものがあったが、これは簡単で便利そうだ。

 話の途中で、ピピピピという音がした。小さなリモコンのようなものを取ると、工藤さんは「もしもし」と言った。どうやら電話機らしい。

「携帯電話とか、最近はみんなケイタイって言ってる。今どきは高校生も持ってるんだよ。いくつか種類があって、これはPHSっていう安めのもの。あなたにも、連絡用に買おうと思ってる」

 軽くておもちゃみたいだが、ちゃんとプッシュボタンが並んでいる。受話器の声を送ったり聞こえたりするところは、それぞれ小さな穴があるだけだ。これで通話が出来るのか。小学生のとき大阪の万国博でこういう未来の電話があったような気がする。

 14年の間に、こんなものが出来て普通になっているのか。まるで『2001年宇宙の旅』か『ブレードランナー』の未来世界に来たようだ。

 14年は長かった。俺は浦島太郎になっていた。




 それからまた、工藤倉庫の軽トラックに1時間ほど乗った。

 ラジオでは冬季オリンピックが中継されていた。今年は長野で開催されているらしい。

 葛飾にある墓地に着いた。黒井という名前の墓石を探して、花を手向けた。

「川越さん」

 線香に火を点けながら、工藤さんの声を聞いた。

「あなたはこの人のことを一生忘れてはいけない」

「はい」

「でも、あなたが自分からここへ来たいと言われたので、私はほっとしました」

 黒井は、14年前俺が殺したカメラマンだ。

 あの時は、殺されて当然だと思った。今は後悔している。一番に墓参りをしたいと、工藤さんに頼んだ。手を合わせ、浅はかな俺の短気で命を落とした人間に心から詫びた。

「あなたのような人が、人を殺したとは思えない」

 しかし、それは事実だった。俺は取り返しのつかない過ちを確かに犯し、14年間それを償って来たのだ。






 1983年(昭和58年)、俺は大学3年生だった。

 新宿から京王線で30分ほどの下高井戸にある、私立大学の文学部に入った。埼玉県の自宅を出て、大学近くの世田谷区赤堤のアパートで一人暮らしをしていた。

 当時その大学では、まだ学生運動が盛んで、顔にタオルを巻いてヘルメットを被った学生たちがキャンパスを行進していた。歌で有名な『いちご白書』を教室で上映するというので観に行くと、終了後出口でヘルメットたちが「どうでしたか?」と詰め寄って来て、逃げ帰ったりした。

 その頃の俺は、自主映画作りに夢中だった。授業は単位ぎりぎりで出席し、毎日バイトし、稼いだ金で8ミリカメラを回した。

 大学に映画サークルはいくつかあったが、どこも趣味に合うものを作っておらず、先輩の下働きをするのも面白くなかった。俺は、高校からの同級生である大久保伸也と新しいサークルを作った。

 サークル名は〝ディレクターズ・カンパニー〟。コッポラやウィリアム・フリードキンがやっていた会社の名前をいただいた。日本でもゴジこと長谷川和彦や相米慎二たちが同名の会社を作ったが、俺たちの方が先だった。

 ノブヤンこと大久保伸也と俺は、『未知との遭遇』と『スター・ウォーズ』で映画に目覚め、高校時代にキューブリックの『2001年宇宙の旅』と『時計じかけのオレンジ』のリバイバルに衝撃を受け、『ゴッドファーザー』とその『PARTⅡ』をベストワンとし、パチーノやデ・ニーロを崇拝することで共通していた。

 が、作ろうとする映画は違った。ノブヤンはSFやホラーっぽいものを好み、当時の学生映画の流行りであった、『トワイライト・ゾーン』のようなシナリオをよく書いた。

 俺はドラマ志向だった。お前のホンは暗いと、ノブヤンはいつも言った。

 そして俺は、本気で映画監督になろうとしていた。




 緑色の公衆電話に、工藤さんにもらったテレホンカードを入れた。広末涼子という知らないタレントの写真入りだ。テレカは学生時代に出始めていたが、あまり使ったことはなかった。

 大久保家の番号にかけると、幼稚園くらいの男の子の声が出た。

 川越と名乗ると、「お世話になってます」と子供らしからぬ言葉の後、保留音になった。

「コージか。出て来たのか」

 昔と変わらない、ごつごつした声が飛び込んできた。

「久しぶりだな」

「ああ、ご苦労さま。待ってたぞ」

「しっかりした息子だな」

「うん、仕事の電話もあるから、しっかり躾けてるんだ」

 息子は小学校1年生で、さらに4歳の娘がいるらしい。

 27歳で結婚したことまでは聞いていた。奥さんは、最初に就職した食品会社で知り合った6つ下の女性だそうだ。

「会えるか」

「もちろん」

 ノブヤンは卒業後一般企業を2回転職し、今は映画の特撮を扱う会社に勤めている。大学を出て、結局映画の仕事に就くとはノブヤンらしい。

「明日はおそらく徹夜だけどその後2日オフだから、金曜の夜に会おう」

 三日後に池袋で飲む約束をする。




 学生時代より少し広い6畳のアパートで、掛布団の下に毛布2枚を敷くと、刑務所とは全く違う暖かさを感じ、あっという間に深い眠りに落ちた。

 地獄の底に堕ちて行くような心地好い浮遊感の中で、幻のような女神の姿を見ていた。その顔はゆっくりとフォーカスが合うように鮮やかとなり、予想通り直子の目鼻となった。

 15年前の直子だった。控えめな伏目を上げると、花びらがスローモーションで開いて行くように笑顔に変わった。




 4月新入生歓迎イベントのこと。

 機動戦士ガンダムがキャンパスを歩いていた。巨体が横にふらついて、酔っ払いのように怪しい足取りをしていた。俺とすれ違うとき、突然足が折れて屈強なモビルスーツが音を立てて転倒した。

 自力で立ち上がれない酔いどれガンダムを、周囲の数人で起き上がらせた。頭の操縦席を取り上げてやると、中にいたのはアムロ・レイではなく女の子だった。真っ赤な顔でメガネを曇らせるほど湯気を出していた。

「大丈夫か?」

「すみません、すみません・・・」

 小さな声でかろうじてそう言うと、メガネ女子は気を失った。

 初めて見た高島直子だった。



 ガンダムの中で気絶した女の子を、とりあえずモビルスーツから出そうと、何人かの男たちが胴体と足部を引っ張った。超合金と思いきや、意外と柔らかい縫いぐるみが、やっと2つに分かれた。高校の体操服のような、白いTシャツと紺色のジャージパンツ姿の少女が救出された。

 俺が持っていた水筒を口に当ててやり、彼女が目をつむったまま少し飲み始めた頃、救急車のサイレンが近づいて来た。

「誰か付き添いの方は?」

 ストレッチャーに乗せられた彼女を見ていた俺は、救急隊員の呼びかけを聞いて「行きます!」と反射的に救急車に飛び乗った。



 病院までついて来たものの、彼女の名前も身元も知らない俺は、まるで役立たずだった。看護婦に問診書を書くように言われても、病歴やアレルギーなど知ってるはずがない。

 安易な行動を後悔していると、30分も経たないうちに大学の人間が駆けつけて来た。目が覚めるまでいたかったが、後は任せて帰ることにした。

 救急車の中、ずっとそばで見つめていた彼女の、赤ん坊のようにピンクに紅潮した頬と、中学生のように素直であどけない寝顔が、帰り道も目に焼き付いたままだった。

 それが、直子との最初の出会いだった。




「直子・・・」

 夢の中で俺は呼んだが、彼女は答えない。

ただ、こちらを見ながら微笑んでいた。それは天使のように思えた。昔から、彼女は天使のようだった。

 14年間、ずっと俺は思い続けていた。

直子に会いたい・・・


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