第19話

 俺と愛宮は小さいころに出会っていた。まるで嘘だ。そんな事実は少なくとも俺の中にはない。姉貴のことだから、嘘を吐いてからかっているのではないかと疑った。姉貴は他人を揶揄やゆするためなら嘘も吐く。腐った性格をしている人間なのだ。


『待て待て。なんだそれ。俺は全く記憶にないぞ』


 俺はあわてて画面に指を滑らせる。高速で文字を打って、姉貴に文面を送った。姉貴は俺のメッセージにすぐ既読を付けて、返信を送ってきた。


『だから小さいころだって言ってるじゃん』


『というか急に思い出したのか? そんな記憶、いったいどこから?』


 姉貴に長期的な記憶力はほぼ皆無だ。そんな人間がどうして俺と愛宮に関する昔話を思い出せるのか。なにか理由がある気がした。


『大学が休みでね、お母さんのリビング掃除を手伝ってたら懐かしい写真が出てきたんだよ』


 メッセージのやり取りが表示されている画面に、一枚の写真が送られた。かなり古い写真だった。それを姉貴が直接、スマートフォンのカメラで撮ったようだ。写真には幼いころの俺と、もう一人、女の子が写っている。


『俺と一緒に写っているこの子が愛宮なのか?』


『お母さん曰く、そうらしいよ。小さいころは仲良く遊んでたって』


 俺は必死に記憶を辿った。幼少の日々に愛宮がいるらしい。写真に写っている女の子は、本当に愛宮なのか。俺の記憶にはそんな日々が一切ない。幼い日々の記憶が全くないわけではない。小さいころに姉貴におもちゃを取られて泣きわめいていたのは覚えているし、それを叱った母に姉貴が屁理屈を述べていたのも覚えている。


 愛宮との日々は、一切思い出せない。まるでそこだけが抜け落ちているような感覚だった。本当に小さいころから愛宮を知っているのだろうか。姉貴の巧妙な嘘ではないか。それを疑うことしかできなくなるくらい、俺の記憶にある愛宮は、高校生の愛宮でしかなかった。


『あー、あと、それとさ』


 またメッセージが送られた。姉貴の文面が途中で途切れたようになっている。まだなにかあるのかよ。これ以上は衝撃に耐えられません。俺は溜息を吐いて文面の続きを待った。


『やっぱりいいや。なんでもない。家に帰ってきたら写真見てみたらいいんじゃない? それじゃ』


 文面の中にいた姉貴はそうして消え去った。なにか言いかけていたが、大した用事ではなかったのだろう。俺は目の前にある原稿用紙に向き合うことにした。


 ……いや、無理だ。書けない。姉貴からの文面が頭の中を飛び交っている。集中できる状態じゃない。クソ姉貴め。あいつ、絶対ニヤニヤしながら連絡を寄こしただろう。絶対に画面の向こうで笑っていただろう。ムカつく。俺のことをとにかくバカにして、揶揄していたいらしい。終わった性格をした女め。絶対あいつには恋人はできない。まあ、当人は恋人を作る気は全くなさそうだが。


 俺は原稿用紙に向かった。目の前の課題は、書くことでしか進まない。ずっと悩んでいても、結局は書かなければ意味がない。書かないことにはなにも始まらない。そんなことは分かっている。でもね、無理だよ。なんにも書けない。


 結局、俺はその日、一文字も書けなかった。途中で吹っ切れたように「さて」と書いたが、なにを思って「さて」と書いたのか分からず、すぐに消した。二歩進んで二歩下がったような。意味のない行進だった。


 食堂にて夕飯の時間となったころには、俺はもう絶望した。天野先生はそれぞれに進捗を聞いたが、かんばしくない結果を報告したのは俺だけだった。どうやら早瀬も書きたいテーマを固めて、自分なりに小説の骨組みであるプロットを書いてみたらしい。俺だけじゃん、なにも進んでないの。


「明日で合宿は終わりだ。今回は構想を練るのが第一目標だったから、本文に入れてない夏川も早瀬も焦らなくていいぞ」


 天野先生はそう言うが、俺は焦った。文学賞の締め切りは例年通りでいけば七月だ。あと二か月後までに本文が完成してなくてはならない。これ、終わるの? 間に合わない気がしてならない。


 今回は全て姉貴のメッセージのせいだ。そのせいでなにも進まなかった。と、姉貴のせいにしたところでなにもならないのは、俺自身がよく分かっている。責めるべきは、すぐに動揺する俺のメンタルだろう。


「夏川、大丈夫か? なんか目が死んでるぞ」


 天野先生が心配そうな表情で俺に声をかけた。


「え、死んでる……? すみません、ちょっと考え事をしてて」


「考え事か」


 天野先生が俺をじっと見る。視線があまりにもまっすぐこちらを向いているので、微かに動揺した。説教でもされるのではないかと思ってしまった。


「え、なんですか。どうしたんですか、天野先生」


 俺がそう言うが、その視線は俺をとらえている。とらえてはいるが、決して怒っている目ではない気がした。というか、この人が怒っているところなど、俺は見たことがない。


「夕飯のあと、ちょっと外に出られるか?」


 真面目な声音が、緊迫した映画のワンシーンを彷彿ほうふつとさせた。


「いいですけど……なにかあったんですか?」


「まあ、ちょっとな」


 愛宮と早瀬が首を傾げていた。なにか大事な話だろうか。合宿初日に俺が宿を飛び出した件か? それだったらやはり叱られるのだろうか。天野先生の用件は全く予想できなかった。


 食堂での夕飯の時間が終わった。早瀬と愛宮はともに女湯へ入っていったようだ。その一方で、俺と天野先生は薄暗く夕焼けの輝く民宿の外へ出ていた。


 空はほぼ黒かった。だいだい色は黒に敗北したかの如く、空の隅に追いやられている。もうじき、本当の夜が来る。


「タバコを吸ってもいいか?」


 天野先生はライターとタバコの入った箱を取り出した。


「まだ吸ってるんですね。やめるって言ってませんでしたっけ?」


「まあ、もはやタバコは俺の日常だ」


「言い訳にすらなってないですよ」


「許せ」


 タバコに火がつけられた。煙が闇の中に舞う。俺の肺に副流煙が濁るかと思ったが、夜の風が煙を空へ飛ばした。俺の肺は見事に守られた。


「お前の姉の透子から連絡があってな」


 天野先生はタバコを咥えたまま喋った。口元から灰がぽろぽろと落ちている。


「え、叔父さん……じゃなくて、天野先生と姉貴って連絡先、交換してたんですか?」


 意外だった。姉貴はあまり他人と関係を築こうとする性格ではないと思い込んでいた。いや、家族や親戚についてはその対象ではないのかもしれない。


「まあ親戚だから一応な。去年の正月に集まったときに交換した」


「で、姉貴からどんな連絡が?」


「おそらく愛宮のことだ。『文芸部にいる信也の同級生、誰でしたっけ?』とな」


 天野先生の元にも連絡がいっていたらしい。あのバカ姉貴はどれだけ人をからかいたいのか。ここまで来ると苛立ちを通り越して呆れてくる。


「愛宮のことですね。俺のほうにも連絡が来ました」


「ああ、多分、同じ用件だろうな。愛宮と夏川が小さいころに出会ってたっていう話だった」


「ですね」


 姉貴による嘲笑の表情が浮かぶ。俺は今、猛烈に姉貴を罵倒したい。


「そこで俺には追加である連絡が来た。これも、愛宮のことについてだ」


 天野先生は咥えていたタバコを口から離し、煙を深く吐いた。煙はまた夜風にのった。微かに煙の臭いが俺の鼻に伝う。タバコの臭いはそこまで苦手ではないが、できることなら嗅ぎたくはない。煙とともに、天野先生の口から愛宮について語られた。


「どうやら、愛宮が一年生のとき、愛宮の両親が交通事故で亡くなったらしい」


 口から出た煙は冗談を含んでいなかった。本当にそこに存在する事実が、煙に運ばれたのだった。俺にとって、それはかなり衝撃的だった。顔も知らない人の死にこんなにも驚いて反応してしまうのは、その血縁に愛宮がいるからなのだと、そう思った。


「……そう……なんですか?」


「透子とやり取りをしてるときにそんな連絡があった。お前の母が透子伝いに教えてくれてな。今、愛宮はおばあさんの家で暮らしているんだとさ」


 メッセージで姉貴がなにかを言いかけていたことを思い出した。姉貴はこれを伝えようとしていたのか。


 ふと、愛宮の顔が浮かんだ。あいつのどこかに、その事実による片鱗があっただろうか。いや、なかった。あいつはその事実を隠していたのだろう。一切、外に表出させることなく俺や早瀬に接していたのだ。なに一つ、俺は気付かなかった。


「両親の死によるショックで、愛宮は一時期、精神的にかなり参ってしまったっていう話も聞いた。病院にも行ったそうだ」


「それ、俺に言っていいんですか?」


 俺が聞いてしまってはいけない気がした。俺はその事実に触れてはいけないような。俺はあいつの上辺だけしかすくってはいけないような。そんな感覚だった。


「お前だから言ってる」


「え……?」


 天野先生は、強い語調で続けた。


「そういうことがあって、愛宮は精神的に脆いんだろう。現状、支えになっているのは文芸部という場所であり、そこにいる仲間だと俺は勝手に思っている」


「文芸部が、支柱だと」


「ああ、そうだ」


 天野先生の吸っているタバコが、だんだんと短くなっていく。灰と煙に、タバコの姿が消えていく。その様が、どうにも切なく見えてしまった。


「お前は、愛宮と付き合っているんだろ? 教師の俺が踏み込む話題じゃないかもしれないが、すまん、触れさせてくれ」


 愛宮との交際。それが嘘であると、ここで伝えるのはどこか違う気がした。天野先生はまっすぐに言葉を続けた。


「多分、愛宮の心のよりどころはどこでも構わなかったんだと思う。だから、こんな話を夏川にするべきじゃないのかもしれない」


「……」


「これは個人的な思考だが、俺は、お前が愛宮を支えるべきなんだと思う。支えられるんだと思う」


「俺が……支える……」


「お前が、お前の存在が、愛宮を支えているんだと、俺は勝手に思っている」


 上手く言葉が出てこなかった。愛宮の真実の過去が、俺の内面を圧迫していた。そこから派生するように、天野先生の言葉がさらに俺を圧迫する。俺が愛宮の支えになっているのかは分からない。愛宮自身が弱さや脆さを見せたことが今までなかったからだ。


 愛宮にそういった様子が見られないので、俺があいつを支えている自覚も、感覚もない。だっていつでもあいつは明るくて、元気で、小説に没頭している少し変わった女子生徒だ。そんなあいつが、そんな弱さを抱えていると思ったことなど一回もない。


「お前がいいんだと思う。愛宮にとっても、それがベストなんだろう」


 天野先生は極限まで短くなったタバコを、携帯用の灰皿にしまい込んだ。この人は、根っからの教師なのだと分かった。ここまで生徒のことを考えている、考えてしまう人なのだろう。そういうところを見て、俺はこの人を、カッコいいと思うのかもしれない。


「お前だ。きっと、お前がいいんだ」


 俺は、なにも言えなかった。なにかを言うべきなのは分かっていた。だが、衝撃が強すぎた。天野先生も、俺の言葉を待っている気がした。俺の心強い返事を期待しているのではないかと思った。その期待に今すぐには応えられそうになかった。


「すまん。こんな重苦しいことをフラットに伝えられなかった」


「いえ、大丈夫です」


「戻って風呂にでも入ろう」


 俺たちは宿へと戻った。ちょうど風呂上りの愛宮と早瀬に遭遇した。二人とも毛先が若干濡れており、シャンプーの甘い香りがした。


「お、おかえり~」


 愛宮が力の抜けた口調で言った。


「ああ、ただいま」


「夏川、このあとは書くの?」


「ん、ああ、そのつもりだ」


「私も頑張らないとなぁ」


 愛宮は笑っている。この笑顔の裏に、どれだけの脆さがあるのか。どれくらいの弱さがあるのか。それに付随する過去を、愛宮はどう思っているのか。簡単に推し量れるものではなかった。


 そして俺は、この笑顔を笑顔のままにできるのだろうか。そんな思考が巡った。

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