第3話

△▼△


 何かが眼前に急激に迫った。

 は避けることができず、咄嗟に顔を庇った腕と頬に鋭い痛みが走る。目の前ではいつも通りの苛烈な暴力が振るわれている。私は恐怖を覚え、裏に飛び出した。


 まぶしい夕焼けの中、私は体を丸めて小さな手で両耳を塞いだ。

 あと数刻で赤い空は闇に染まる。

 無力感と迫り来る夜に、私はよりその身を縮こまらせた。


 鈍い物音と、陶器の割れる音がひっきりなしに塞ぐ手を貫通してくる。そして極めつけに男性の怒号が響き、直後乾いた音と張り裂けそうな悲鳴が鼓膜を震わせた。


──聞きたくない……!


 私はぽろぽろと涙を流す。

 しかし不意にそれを拭われ、私は顔を上げた。


──きみ、ここの子?


 背丈は私と変わらない。けれどその男の子には、言葉にできない頼もしさがあった。どうやら旅をする集団の一員らしく、このむらに滞在するのは一日限りだという。


 私はこれきりの関係だと思って、すべてを打ち明けた。彼は静かに私の拙い語りに耳を傾けてくれた。こんなことは初めてだった。

 一回り大きな体に抱きしめられる。私は戸惑いながらも、一時的にその温かさに身を委ねた。







 しかし、ひと時の安らぎは私の心をひどく揺さぶるものにした。

 諦念を一瞬でも忘れてしまった私に突き付けられたのは、母の失踪。残された私は酒におぼれる父に言われるがまま母の代わりを担った。


 家事をし、家にいる父を労い、酌をする。代わりになったのは、溢れて止まらない膨大な怒りの感情の矛先も同じであった。


 私は静かに張り手を受け、意味のない謝罪の言葉を繰り返す。

 それでも泣かなかったのは、あの手が奮い立たせてくれたから。あの温もりを胸に、ずっと生きていた。


 やがて、私は家を出た。

 一人で生きていく方法は知らなかったが、旅する集団に混ぜてもらえたら、と淡い期待を抱いて邑を出た。







 彼は立派な青年になっていた。


──私は見合う女性になれているのかしら


 私は途端、ひどく不安を覚えた。

 彼の頼もしさは健在、いやあのとき以上だった。

 対して私はどうだろう。ひたすら耐えてきただけだ。


 その時、遠目の彼の側にある女性の存在に気づいた。可愛らしいとはいいがたいが、良き母になりそうなはつらつとした笑顔の素敵な女性。同性の自分ですら魅力を感じるのだから、彼がい感情を抱かないわけがない。それ以上に距離感が二人の関係性を物語っていた。

私は踵を返していた。

 ずっと淡い期待を抱いたまま、見つからなければよかった。自分が莫迦らしく思えて視界が滲む。


 そのとき私の名前が懐かしい声で呼ばれた。

 私は捨てきれない心で振り返る。

 彼の声は十年でずいぶん大人っぽくなっていた。けれどよく通る、活発さをそのまま音にしたような朗らかな声。


 私は驚いた。彼は私を見ていたからだ。覚えていたのだ。


──久しぶり。もしかして、探しに来てくれたのかい


 私はぎこちなくうなずいた。


──ありがとう。僕も会いに行ったんだけどね、行き違いになってしまった。会えて本当にうれしいよ


 すべてが報われた気がした。

 でも彼には好い人がいる。迫りくる距離感に私は後ずさった。


──どうして逃げるんだい

──だって貴方には……


 そう言って明るい調子の女性を見遣ると、彼は目を丸くして、それから盛大に吹き出した。


──あれは妹だよ。ほら、似てるだろう


 私は胸を撫でおろしながら、早とちりに頭から火が出るほど恥ずかしくなった。ゆで卵になった顔を覆って隠す。


──恥ずかしい。ごめんなさい、早合点してしまって……

──つまり、君は僕は「そう」思ってくれている、ということで合ってる?


 私はさらに顔を覆い隠した。

 けれど彼に顔を覗き込まれ、その大きな手で顔を覆う手をはがされてしまってはどうもできなかった。


──僕も同じ気持ちだよ


 ああ。今まで不幸は、この日の幸福のためだったのだ。

 そのとき流した涙は、嬉しさのあまりに溢れ出すものだった。







──おっかぁ、きょうのおやさいはつやつやだよ


 私は彼に目元がそっくりな幼い男の子に苦笑しながら、目の前の客に釣りを手渡す。


──わかったから、お客さんに迷惑にならないようにね


 夕暮れも怖くなくなった。むしろ、今や一日のうちで最も好きな空の色である。

 なぜなら。

 私は客と入れ違いに、軒をくぐる見慣れた顔へ笑みを向けた。


──おかえりなさい


 彼は畑仕事で汗を気にするが、私は構わず抱き着いた。


──今日もお疲れさま


 それを羨ましがった息子も、また私と同じように彼へ抱き着く。


──二人ともありがとう。先に体を流してくるよ


 旅の集団から抜けた彼は、定住に慣れている私のためにこの生き方を提案してくれた。私はそれに甘んじることにして、日々幸せに暮らしていた。







 手にあったはずの陶器が砕け散る音が響いた。


 私は一瞬、何が起きたのかわからなかった。

 酷い立ち眩みに、足元がおぼつかずその場に座り込む。ずきずきと頭の奥を刺すような痛みを覚えて頭を抑えた。それから痛みは何か硬いもので殴られるような暴力的なものへと変わって行った。


 視界がぼやける。

 けれど思考を揺さぶるような頭痛に、私は歯を食いしばってでも耐えられなかった。


──生きてあの子を育てなくてはいけないのに


 その痛みは死を伴うものなのだと気づいた。


──まだ、やるべきことがたくさんあるのに……!


 私は悔しさを含んだ涙をこぼした直後、意識をぱったりと飛ばした。


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