静御前異譚 神婚物語 ―白拍子との契りの果てに、義経は“英傑として”完成する―

五平

第1話:評定の刻(とき)と巫女の予兆

深い森の奥、朽ちかけた鳥居の先に立つは、ひっそりと時を重ねた古き社。苔むした石段は、幾世代もの巫女たちが踏みしめた証しだ。そこは、俗世の喧騒から隔絶された、神聖にして厳粛な空間。時折、風が木々を揺らし、葉擦れの音が遠い囁きのように響くだけで、それ以外の音は何一つ届かない。社殿の古い床が、軋むたびに微かな悲鳴を上げる。静御前は、まだ幼さの残る顔に似合わぬ重い十二単を纏い、冷たい玉砂利の上に膝をついていた。その日差しが届かぬ社殿の中は、ひんやりとした空気が肌を刺す。周囲を取り囲むのは、皺深く、瞳の奥に古の知恵と宿命を宿す老いた巫女たち。誰もが沈黙し、張り詰めた空気だけが社殿を満たしていた。まるで、今から始まる評定の重みを、その光が一人一人に問いかけているかのようだった。静御前は、ひたすら息を殺し、自身の心臓の鼓動すらも、この静寂を破る罪過ではないかと恐れるほどだった。身につけた十二単の重みが、この一族に受け継がれてきた途方もない使命の重さを象徴しているかのようだった。


天下は源氏と平家の争乱に巻き込まれ、京の都は荒れ果て、民は塗炭の苦しみを味わっていた。戦乱の火蓋は既に各地で上がり、血の匂いが風に乗って遠くまで運ばれてくるようだった。しかし、この一族にとって、目の前の戦火は、より大きな「異常」の兆候に過ぎない。彼らが守り続けてきたのは、三種の神器たる草薙の剣が持つ「異常性」を鎮める使命だ。剣そのものに神威や呪いの力があるわけではない。ただ、その「在ること」が、人の世の政局を惑わし、権力構造を歪め、争いを激化させるという奇妙な特性を帯びていたのだ。それは、まるで目に見えぬ「王権を呼ぶ磁場」が、人の心を狂わせるかのようだった。古文書には、その恐ろしい記録が残されている。かつて剣が東国にあった際、その地で武家同士の私闘が激化し、血が流れた歴史。また、別の時代には、剣が特定の都に留まることで、皇位継承を巡る陰謀が渦巻き、無数の貴族が命を落とした記録。これらはすべて、剣の「存在」が引き起こす混乱の確たる証拠として、一族に、そして静御前に伝えられていた。剣はただ存在するだけで、人の心を騒がせ、争いの火種を蒔く。その恐ろしさは、物理的な力を持つ呪いよりも、はるかに根深く、人の世の理そのものを蝕むものだった。


評定が始まった。中央に据えられた神鏡が、ゆらりと光を放つ。その光は、まるで神の眼差しのように、巫女たち一人一人の心を覗き込んでいるかのようだった。最年長の老巫女が、枯れた声で神託を告げ始めた。その声は、社殿の静寂を震わせ、ひんやりとした空気に重く響いた。それは、この時代をはるかに超えた未来、およそ百年後の惨劇を予兆させるものだった。断片的ながらも、その言葉の断片は痛ましい。「二つの帝、一つの都、剣は血を吸い、国は裂かれん。終わりなき戦火、人の心に巣食う闇……その源は、この剣の“在り方”に宿る。」その言葉が告げられるたびに、社の空気がさらに重くなり、老巫女たちの顔には深い絶望の色が浮かんだ。静御前は、その神託の意味をまだ全ては理解できない。しかし、その言葉が宿す計り知れない悲しみの波動は、幼い彼女の心を強く揺さぶった。未来に、日本という国が二つに引き裂かれ、血で血を洗う大乱が起こる。それが、南北朝期のような、国家を根底から揺るがす未曾有の混乱であると、評定の場にいる誰もが直感していた。巫女たちの顔に浮かぶ絶望は、その未来が如何に苛烈であるかを物語っていた。静御前の幼い胸は、予期せぬ未来の重みに押しつぶされそうだった。


「この剣が存在する限り、未来の国は分かたれる因果の鎖の一端となる。ゆえに、この時代で、その『存在』を無に帰さねばならぬ。」


重々しい結論が下される。それは、逃れることのできない使命だった。そして、そのための「鍵」となる存在が、古文書の記述と新たな神託によって指名された。

「鍵は、源氏の御曹司、九郎義経。彼が持つ、常識を超えた天賦の武才こそが、剣の『異常』を受け止め、それを無に帰すことができる唯一無二の『最適解』である。」

その名が告げられた瞬間、静御前の全身に電流が走った。周囲の巫女たちの息遣いが、一斉に止まったかのように静まり返る。まさか、あの、戦場で神のごとく舞い踊ると噂される若き将が、この一族の、そして未来の世を救う鍵だというのか。その才の異質さは、確かに古文書の記述に合致していた。


そして、評定は静御前自身にその重責を担う巫女となることを命じた。

「静よ、お前が、その『鍵』を導く者となれ。」

彼女は一族の命令を厳かに受け入れた。しかし、その内心では、激しい葛藤が渦巻く。

「この御方が、世を救う鍵――けれど、その運命は……ただの道具として終わるのか?」

巫女として、己の感情を殺し、ただ使命に従うべきか。それとも一人の女として、血の通った人間として、己の意志を貫くべきか。静御前の胸中には、「巫女として、ただ従うべきか。それとも一人の女として、己の意志を……?これは、本当に私の使命なのだろうか?」という、葛藤と自身の未熟さへの自問が渦巻き、「彼を『道具』として利用するだけでは終わらせない。この人間の運命を『人として』全うさせてやりたい」という、密かな「個としての決意」が、小さな、しかし確かな灯火として芽生え始めていた。それは、一度見た義経の“目”に、命を背負った者の痛みを見たからかもしれない。その決意は、冷たい社殿の空気とは裏腹に、静の胸の奥で熱く燃え上がり、彼女の瞳の奥に、使命とは異なる、人間的な光を宿した。一族の歴史と、個人の感情が交錯する、静御前の長く孤独な闘いが、今、始まったばかりだった。彼女の視線の先には、神鏡に映る自身の小さな姿があった。その姿は、一族の重責と、一人の人間としての願いの間で、強く揺れ動いていた。もし、これがただの夢であったなら――そう願わずにはいられなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る