第7話 赤ちゃんの正体

 夫のアイゼルの部屋は城砦の三階にある。

同じ三階の私の部屋からは、ちょうど反対側で一番遠い場所にあった。


 夫婦だと言うのにほとんど訪れた事はなかったが、最近は離婚の提案をされに訪ねていた。


 今日はその返事をする為に私から訪問するつもりだったけれど、今、夫の方から呼び出されている。


 アイゼルの部屋の前には夫の側近達が待っていた。

「クレア様、お越しいただきありがとうございます」

 いつもなら大抵私を呼びに来るのはギリアムだったけれど、今日は別の使用人が呼びに来て、ギリアムは夫の部屋の前にいる側近たちの中にもいなかった。


 いつもよりもピリピリした空気に包まれていたけれど、主人の愛人と隠し子が訪ねて来たのだからそれも当然かもしれない。


「さあ、中へ」

 側近たちが私をアイゼルの部屋の中に通すと、側近たちは誰も部屋に入らずにそっと扉が閉められた。

 その様子が、ただ事ではなく、

 緊張が深くなる。


 アイゼルはいなかった。


 主人のいない部屋は、この間と変わらず豪華な装飾が重厚な雰囲気を漂わせていた。

 相変わらず生活感はあまりなく、この一週間も雨の中、隣の執務室で大半の時間を仕事に費やしていたのだろう。


 ただ一つ変わったところがあるとすれば、この間はアイゼルが立っていた部屋の広いスペースの真ん中に、ベビーベッドが置かれている事だった。


(アイゼルの部屋にベビーベッド!?)


 場違いさが際立っている。


 ここに来る間に、きっと隠し子の話なのだろうと予想はしていたけど……。


 アイゼルが皆に、隠し子だと明かすにしても、隠すにして、私には要点を話していなければならないだろう。

 だって、まだ私はアイゼルの妻なんだもの。


 でも、こんなに早く隠し子本人に会えるとは思っていなかった。


 ベビーベッドを覗き込むと、スヤスヤと赤ちゃんが眠っている。

 ふわりふわり、寝息と一緒に陽だまりが飛んでくる様な愛らしさがあった。


 思わず微笑んでしまう。

 隠し子だってなんだって、この子にはどうでもいい話だろう。


 外の鬱々とした雨を忘れて赤ちゃんを見つめる。

 愛らしさに吸いこまれそうになった時に、恐怖が込み上げて来た。


 ——遠い記憶の彼方から来る恐怖。


 パッと後ろを振り返っても誰もいない。


 赤ちゃんを見ていても、怒られる事はないんだ……。


 ホッと胸を撫で下ろす。


 これは小さな頃の記憶だ。

 赤ちゃんと一緒にいて、ぼんやりと心の奥底に封印していた記憶が浮かびそうになった時、アイゼルが現れた。


 アイゼルは私が入って来た正面の扉からではなく、隣の執務室から繋がったドアを開けて入って来た。


 やっぱり仕事が忙しいのかもしれない。


 金色の髪と紺碧の瞳に美しい顔を持ち、スラリと背が高く、煌びやかな装飾のついた服がよく似合う美青年がアイゼル・ハリエット。

 この城の主人で私の夫だった。


 整った顔で、いつも私に見せるのは無表情や仏頂面で冷たく睨む瞳だけど、今日は少し疲れた無表情だった。


 それでも、私の胸の鼓動は早くなる。


 アイゼルの姿を捉えると私の胸はいつもこうなった。


 いつものことだからあまり意識はしていなかったけれど……。

 これから離婚する事、愛人と隠し子の事で、今はいつもより遠い存在になってしまったアイゼルへの想いを意識せずにはいられなかった。


 私が子供の頃からずっと大好きだった、この夫の姿をいつまでも目に焼き付けておきたい。


「今朝方、急な来客があった事は聞いているか?」

 入ってくるなり私の横のベビーベッドにチラリと目をやりながらアイゼルが尋ねた。


「さ、騒がしいのは私の部屋にも聞こえて来ましたが、詳しい事は何も知りません。女性と赤ちゃんと従者が一人だったらしいとだけで……」

 私もまた赤ちゃんに目を向けた。


 愛人と隠し子の事を私が知っていると、これでアイゼルにも伝わったと思う。


「この子がその赤ちゃんだよ」

 隣に立ちベビーベッドを覗き込みながらアイゼルが言う。


 噂の隠し子だと言うのに、アイゼルからは悪びれる様子が感じられない。

 赤ちゃんを憐れむ様な忌む様な、複雑な表情で見つめている。


 私に隠し子と愛人の存在を知られてしまった事にも興味がないようだった。


 私もベビーベッドの中をもう一度よく確認する。

 スヤスヤ眠る赤ちゃんが金髪なのに気づいた。

どこかで見た事がある色だ。


 眠っていて瞳の色は分からないけれど、ここまで見事な金髪はなかなか見ないだろう。

 アイゼルは母親譲りの金髪だと言うが、光り輝く黄金の様な珍しい色をしていた。


 似ている!


「似ていないな」


 アイゼルがそんな事を呟いた。


「とても似ていますよ。同じ金髪じゃないですか」

 そう言うと、

「私ではない。君に似ていないと言ったんだ」

 アイゼルはそんな事を言う。


 ぽかーん。

 唖然としてしまう。


 私の髪は茶色で、光の加減によっては金髪に見えることもあるけれど、アイゼルと赤ちゃんの金髪とは似ても似つかない。


 そんなの当たり前でしょ!?

 何で! あなたの隠し子が私に似ているの!?


 頭の中でそんな事を考えるけど、隠し子の事は口にはしない。


「それは、この赤ちゃんと私は何の関係もありませんから」

 とだけ言う。


 他人だもの似ていなくても当然だ。

 それは、他人の空似って事もあるでしょうけど。


 では、似ていたらなんだと言うのだろう?


 ハッと閃く。


 実の親子に見せかける事が出来る!


 もしかして、アイゼルは隠し子を私に育てさせようとしてる!?

 愛人の子が正妻に似ているかどうかを気にする意味はそう言うことではない?


 平然としているアイゼルに何か言おうとするけど、結局何も言うことが浮かばなかった。


 あまりの事に、パクパクと酸欠の魚みたいに数回口が動いただけだった。


 私は口を閉じて、黙ってアイゼルの言葉を待った。


 赤ちゃんを見つめながらアイゼルが話し出す。


「君は妹とは母親が違うんだったね。だったら似ていなくても仕方ないか」

 後半は独り言の様なつぶやきだった。


 何故ここで妹が出てくるんだろう?


 6つ年下の妹のアリシアは帝都の大学に通っていて、最近は手紙のやり取りも以前ほど頻繁ではなくなっているけど……。


「君の妹の子だそうだよ」

ベビーベッドの横に立ってアイゼルが言う。


 はっ!?


 今度こそ酸欠の魚みたいに口をパクパクさせるだけで、何も言葉が出て来なかった。

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