第5話 最後のパラレル 本当の愛とは?

# のっぺらぼうの嫁 本当の愛とは?


春の柔らかな風が頬を撫でる夕暮れ時、僕は会社からの帰り道、いつもの近道を選んだ。その選択が、僕の人生を永遠に変えることになるとは、その時は思いもしなかった。


「やめろよ、怖がってるじゃないか」


薄暗い路地裏で聞こえた男たちの笑い声に、僕は足を止めた。数人の男が一人の女性を取り囲み、からかっているようだった。女性は黒いワンピースを着て、長い黒髪を風になびかせていた。


「顔、見せてよ。なんでそんなに下向いてるの?」


男の一人が女性の顎に手を伸ばそうとした瞬間、女性が顔を上げた。


そこには顔がなかった。


目も、鼻も、口も、眉も、何もない。ただ滑らかな肌の曲面があるだけだった。


男たちは悲鳴を上げて逃げ出した。僕は凍りついたように立ち尽くしていた。恐怖で足がすくみ、心臓が激しく鼓動していた。


しかし、女性の姿に目を凝らすと、彼女は小さく震えていることに気づいた。怯えているようだった。


「大丈夫ですか?」


自分でも驚くほど自然に、その言葉が口から出た。女性は僕の方へゆっくりと顔を向けた。表情はないはずなのに、どこか悲しげな雰囲気が伝わってきた。


「家まで送りましょうか?」


彼女は小さく頷いたように見えた。言葉を発することはなかったが、なぜか彼女の気持ちが伝わってくるような不思議な感覚があった。


その夜、僕は彼女を近くの公園のベンチまで送った。彼女はそこが良いと示したのだ。別れ際、彼女は深々と頭を下げた。感謝の気持ちが伝わってきて、僕は少し照れくさくなった。


「また会えますか?」


思わず口にした言葉に、彼女はゆっくりと頷いた。


翌日から、彼女は毎晩同じ公園で僕を待つようになった。最初は戸惑ったが、不思議と心地よい時間だった。彼女は言葉を発さないが、僕の話に頷いたり、時には肩を震わせて笑っているようだったりした。


「名前はありますか?」と尋ねると、彼女は小さなメモ帳に「ユキ」と書いた。


「ユキさん、綺麗な名前ですね」


彼女の顔のない姿に最初は戸惑ったが、次第に気にならなくなっていった。むしろ、表情がないからこそ、僕は彼女の仕草や体の動きから気持ちを読み取るようになった。肩の震え方で笑っているのか悲しんでいるのかがわかるようになり、頭の傾げ方で疑問や好奇心を感じ取れるようになった。


ある雨の夜、僕は傘を彼女に差し掛けた。その時、彼女の冷たい指が僕の手に触れた。驚くほど柔らかく、少し冷たい感触。でも、その接触には確かな温もりがあった。


「ユキさん、僕と付き合ってくれませんか?」


言葉にするのに一ヶ月かかった。彼女は長い間動かなかったが、やがてゆっくりと僕の手を取り、強く握った。


恋人になってからも、彼女は変わらなかった。顔はなく、言葉も発さない。でも、彼女の存在は僕の日常に溶け込み、かけがえのないものになっていった。


「君の顔がないことを気にしてる人もいるかもしれないけど、僕は気にしないよ」と伝えると、彼女は僕の胸に顔を埋めた。その仕草に、安心と愛情を感じた。


季節は巡り、僕たちの関係は深まっていった。ある秋の夜、彼女は初めて僕を自分の家に招いた。古い日本家屋で、どこか懐かしい雰囲気があった。


「ここで一人で暮らしてたの?」


彼女は頷いた。部屋の隅には古い鏡台があり、その上には白い面が置かれていた。僕が近づくと、彼女は慌てたように面を隠した。


「大丈夫だよ、見せたくないなら無理しなくていい」


その夜、彼女は初めて僕に触れた。顔のない彼女の愛情表現は、全身で伝わってきた。肌の触れ合いを通して、言葉以上の深い絆を感じた。


冬が訪れ、クリスマスの夜、僕は決心した。


「ユキ、僕と結婚してくれないか」


小さな指輪を差し出すと、彼女は震える手でそれを受け取った。顔はないのに、彼女が泣いていることがわかった。肩が小刻みに震え、僕の手を強く握りしめていた。


「顔がなくても、言葉が話せなくても、君は僕にとって唯一無二の存在だよ」


春の穏やかな日、僕たちは小さな神社で式を挙げた。参列者は少なかったが、温かな祝福に包まれていた。ユキは白無垢に身を包み、顔のない花嫁は不思議な美しさを放っていた。


結婚後、僕たちは彼女の家で暮らすことにした。ある夜、ユキは僕を鏡台の前に座らせ、白い面を取り出した。


「これは?」


彼女はゆっくりとその面を自分の顔に当てた。すると不思議なことに、面が彼女の肌に溶け込むように馴染み、そこには美しい女性の顔が現れた。大きな瞳、小さな鼻、柔らかな唇。


「ユキ...?」


「ありがとう、愛してくれて」


初めて聞く彼女の声は、風鈴のように澄んでいた。


彼女は静かに語り始めた。彼女はのっぺらぼうだったが、人間に深く愛されることで、本来の姿を取り戻せるという言い伝えがあったのだと。


「あなたの愛が、私を救ってくれた」


僕は彼女を強く抱きしめた。顔があってもなくても、彼女は僕の最愛の人だった。


今、僕たちは普通の夫婦として暮らしている。時々、月の満ちる夜には、彼女の顔がほんの少しだけ、あの滑らかな姿に戻ることがある。でもそれは僕たちの秘密だ。


彼女の笑顔を見るたびに思う。本当の愛とは、相手の外見ではなく、魂を見つめることなのだと。


のっぺらぼうの嫁は、今では僕の人生そのものになった。彼女の存在が、僕の世界を豊かに彩っている。


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のっぺらぼうの嫁 赤澤月光 @TOPPAKOU750

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