あの空に浮かぶ青
あおいてる
青白い光
青白い光が、仄かに揺れていた。
音という概念が存在しないかのように、すべてが静まり返った空間。視界に広がるのは、巨大な円形ホール。その中心に鎮座するのは、巨大な球体の結晶だった。
まるで惑星を模したかのような結晶は、捉えようのない法則に従い浮遊し、音もなくゆっくりと左に回転していた。
その滑らかな表面には、どこかの言語に似て非なる、幾何学的な文様が絶えず浮かび上がっては消えていく。描かれ、消え、また別の軌跡が描かれる。その明滅の繰り返しが、まるで空間そのものの鼓動のようだった。
壁面を流れる光の筋、有機体のように脈動する柱、そして砕け、崩れながらもなお、静謐な美しさを保つ。すべてが、この場所ではそうあるべきだとでもいうように、絶対的な調和の中に存在していた。
時が止まったかのような空間に、変化が訪れたのは一瞬だった。
ぶわっ、と。
予兆も、過程もなく、ただ結果だけが突きつけられる。
中央の結晶が弾け、青白い光が奔流となって溢れ出した。視界のすべてが青に染まり、輪郭という輪郭が溶けていく。
壁も、柱も、文様も、そしておそらくは、この光景を見つめる意識さえも。
そのすべてが、青白い輝きの中で溶けていった。
◇◇◇
カーテンの隙間から差し込む朝の光に、星川律は目を覚ました。
アラームはまだ鳴っていない。時計を確認すると、いつもより二十分も早い。妙に胸がざわついていた。夢を見ていたような気はするが、その内容はもう、指の隙間からすり抜けるように思い出せなかった。ただ、胸に残る静かな圧迫感だけが、やけに生々しい。
「……なんだったんだ、今のは」
ベッドに寝転んだまま、誰にともなく呟く。忘れてしまったはずの夢の内容を、なんとか思い出そうと試みる。だが、思考は霧散し、掴みどころがない。ただ、何かとても大きなものに触れたような、畏れにも似た感覚だけが残っていた。
のそのそと体を起こし、海浜第九高等学校の制服に着替える。窓の外では、隣の家の子どもが水鉄砲を片手に元気よく走り回っていた。平和な夏の朝。それなのに、自分の内側だけが、世界の音からわずかにずれているような、奇妙な孤立感があった。
「おーい、律!」
古い石畳が残る坂道を下りきった交差点で、声をかけられた。
手を振って駆け寄ってきたのは、高宮真人。律のクラスメイトで、中学からの親友だ。
「早いな、珍しく」
「そっちこそ。寝坊かと思ったのに」
「なんか、変な夢見たような気がしてさ。内容は全然覚えてないんだけど」
律が正直に打ち明けると、真人はからかうように笑った。
「あるある。そういう日はだいたいロクなことがないぞ。気をつけろよ」
「縁起でもないこと言うなよ」
つられて笑いながらも、律は胸のざわつきが消えないのを感じていた。真人は昔からそうだ。律が言葉に詰まったり、考え込んだりしていると、持ち前の明るさでその場の空気を軽くしてくれる。その気遣いが、今は少しありがたかった。
二人で歩く通学路は、古いものと新しいものが混ざり合う、この海浜第九環港市らしい景色が続いていた。錆びついた街灯が立つ昔ながらの商店街を抜けると、再開発で建てられたガラス張りの商業ビルが聳え立つ。アスファルトの熱気と、微かな潮風が混じり合う、この街特有の空気だ。遠くには、新しい複合施設を建設している巨大なクレーンが何本も空に伸びているのが見える。
◇◇◇
終業式は、拍子抜けするほどあっさり終わった。
教室での最後のホームルームも、どこか浮ついた空気のまま解散となる。
「よっしゃ、明日から自由だな!」
校門のところで、真人が大きく伸びをしながら言った。その解放感に満ちた声に、律は冷静に事実を告げる。
「いや、まだ夏期講習が残ってるだろ」
「うわ、真面目か。固いこと言うなって。もう授業って雰囲気でもないし、気分は半分休みみたいなもんだろ?」
真人は悪戯っぽく笑って、律の肩を軽く叩いた。
「まあ、そうだけどな」
苦笑しつつも、そのやり取りに少しだけ心が軽くなるのを感じる。親友に手を振り、律は一人、帰路についた。
一人になると、途端に思考が内側へ向かう。夏の終わりの気怠い日差しが、やけに心を落ち着かなくさせた。
視線の先には、港湾地区の再開発現場が広がっている。巨大なクレーンが林立し、未来の骨格を組み立てていた。その足元には、かつてこの港の主役だった古い倉庫群の残骸が、取り壊される日を待っている。立ち入り禁止を告げる無機質なフェンスが、現実と非現実の境界線のように見えた。
その時だった。
視界の端、再開発区域の方角で、網膜を焼くような純白の閃光が迸った。
思わず足を止めた直後、ドン、と腹の底から突き上げるような衝撃。地震の横揺れではない。巨大な心臓が、街の地下で一度だけ脈打ったかのような、有機的な振動だった。あの夢の最後に感じた、畏怖の感覚とよく似ている。
数秒の後、遠くで人のざわめきが上がった。工事車両のけたたましいエンジン音が、ぴたりと途絶えている。振り返ると、フェンス越しの現場は静まり返っていた。
律は、ただ呆然と立ち尽くす。
光が走ったのは、古い防波堤の先。立ち入り禁止のエリアだ。そこから、ぼんやりと水蒸気のようなものが立ちのぼっているのが見えたが、それもすぐに海風に掻き消された。
数時間後、ニュースがその現象について報じていた。
『本日午後、海浜第九環港市の再開発区域において、旧港湾地区の地下に埋設されていた高圧ケーブルが、老朽化によりショートしたことによる放電事故が発生しました。周辺住民に被害はなく、現在、市と電力会社が協力し、復旧作業を進めております』
それだけだった。
事故としては小規模、原因は想定内、心配はいらない。ニュースはそう伝えていた。まるで、それ以上の意味はないと、聞き手に言い聞かせるかのように。
だが、律の中では何かが違っていた。
理屈では納得できる。報道の内容ももっともらしい。しかし、あの瞬間、律の身体が感じた巨大な脈動は、ただの“放電事故”という言葉に収まるものではなかった。
見慣れたはずの海浜第九環港市の風景に、目に見えない亀裂が入ってしまったような、決定的な違和感。それは、じっとりと肌にまとわりつく夏の湿気のように、律の心を支配し始めていた。
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