第5話

 ミジオから下着を奪い返すことは無意味であると結論付け、文音は彼に気取られぬようにして自室へ戻った。


 安心も安全もない。それでも自室が不可侵の領域であることには違いない。ふと、文音は自分が目にいっぱいの涙を溜めていることに気がつく。


 ――泣きたいなら、勝手に泣けば良い。


 自分の肉体に対して突き放すかのような態度を取るが、目頭の熱が引いていくことはない。机の上に置かれた文庫本を見つめながら落ち着くのを待つ。その内に、文音は祖父の言葉を思い出した。


 ――人間は決して負けない生き物なんだ。


 何かの小説から引用した言葉であり、それは祖父の座右の銘でもあった。


 ――負けない。


 文音はポケットに入れたスマホを握り締める。咄嗟の思い付きではあったが、証拠を残したのは我ながら良く出来たと思った。これなら「見間違い」だの「気のせい」だのといった欺瞞は通じないはずだ。


 路傍の石が如くちっぽけであっても、当たり前のように蹴り飛ばされ、踏みにじられようと、人間であるなら負けはしない。


 古びた根性論であると、文音は理解しているが、同時に、その古びた根性論だけが自身の崩壊を繋ぎとめていると理解していた。


 

 その晩、まずは同性である母に事情を伝えた。或いは――と抱いていた淡い希望は呆気なく袖にされた。ミジオの写真を見ても尚、彼女は「忙しいからお父さんに」と感情の無い声で告げた。


 雲行きの悪さを認めつつも、文音は母の言葉に従って父に声を掛けた。


 父は文音の手から奪うようにしてスマホを受け取ると、じっと写真を見つめ始めた。文音は不快感に唇を噛み締めながら、父の答えを待った。


「こんな派手な下着、持ってたか?」


「……え?」


「お父さんはこんなの見たことがないぞ」


「そ……れは……だって……、いちいち見せる訳にもいかないし……」


「何言ってるんだ。文音はまだまだ子供なんだから恥ずかしがらなくて良いんだぞ。だいたい、こんな男の子を誘惑するような下着だから、ミジオも反応したんじゃないか」


「……で、でも……」


「それにな、年頃なのは分かるけど自己処理した後は綺麗にしないと駄目だぞ。そういう臭いが残ってて、ミジオも気になったんだろ。なあ、ミジオ?」


「ニジソ……ガチコ、ガチコ……ナサイ……」


 血の気が引いていく。視界が白んで、五感が酷く鈍っていく。


 ――言わないと。そんなんじゃないって。いや、言うべきはそれなのか? 父の態度に対する苦言? 馬鹿な。聞き入れるような人じゃないことは嫌というぐらいに思い知らされてきた。声真似について? そうじゃない。そうじゃないのに、分からない。私には分からない。


「……でも」


 やっとのことで搾り出した意味のない声に対して、父は大仰にため息を漏らした。


「急に家族が増えたからなあ、環境の変化に慣れないんだろう。どうだ、文音、明日は休みだし、お母さんも誘ってみんなで焼肉でも食べにいかないか。ウチの系列店だからミジオも一緒に行けるぞ」


 ――この人は何を言っているのだろう。


 文音はしばしぼんやりと父の顔を眺めていた。自身が情に厚い家族想いの父であると疑わず、その役割を果たしているという満足感から来る笑みの浮かぶ顔。ある意味でハエモグラ男以上に分かり合えない男の顔。


 ――拒絶すべきなのは分かってる。だけど、私はどこへ逃げれば良い? 両親の手を振り払って、野垂れ死にすれば業人としての罪も許されるのだろうか。


 雨に降られ、二度と動かなくなった青白い肌の自分を夢想するのは、心地良かった。早くそうなってしまえば良い。文音は強く願いつつも、呪縛は彼女を許さない。首を自然と縦に振ってしまう。


 父が嬉々としてスマホを取り出し、焼肉店への予約を入れ始める。もちろん家族サービスである点は何度も強調していた。


 

 心を押し殺す。それ以外の術はなかった。自己満足の為に弄ばれる道具に相応しく、何も考えず、何も感じず。朝からそれだけを考える文音だったが、無意識の内に少しばかりの抵抗を試みていた。最初に手を付けたお気に入りの洋服ではなく、処分を検討しているものを敢えて選んで、この会食を「楽しまない」という意思を示していた。


 焼肉店では経営者である父に媚びへつらうような店員に個室へ案内された。目だけが笑っていない不気味な顔に、最初から乏しかった食欲が一層削られる。父はメニューも見ずに注文を言い付け、慣れた手つきで場を整えていく。肉や飲料を運んでくる店員に向けて気安く声を掛けながらだった。無論、返ってくるのは苦笑いが殆どだった。


 文音が冷ややかな眼差しを向ける先で、肉が焼けていく。香ばしい匂いが立ち昇り、脂の爆ぜる音が小気味良く連続する。


「どうだ、ミジオも嬉しいだろう? 今日は特別なご馳走だぞ」


 小皿を置きながら、父が言った。ミジオは子供用の椅子にちょこんと腰掛けている。黒々とした大きな目が焼き網の上に向けられている。文音は食べ物への期待とは少し違った雰囲気を認める。彼女には、肉が焼ける様子に破壊の悦びを見出しているように感じられた。


「お~ぅい」


 快活さを主張するかのように、席に備え付けられたボタンを押さずに父が店員を呼ぶ。タレに使っているオリゴ糖があったはずだから持ってくるように命じた。


 焼き上がった肉を小皿に移し、プラスチック容器に入ったオリゴ糖を垂らす。そこでようやくミジオはそれが食べ物であると認識したらしい。


「ニジソ、ニジソ……ナサイ……!」


 そう鳴きながら肉に食いつこうとして頭をテーブルへ近付けている。


「おい文音、写真を撮るからミジオを押さえててくれ」


 文音が手を触れると、ミジオはすぐに顔をあげた。そして「ガチコ」と鳴いた。どこかうっとりとした響きのある声色は、脱衣所で見た光景を想起させる。吐き気を堪えながら無理やりに笑顔を作る。撮影をさっさと済ませてもらうにはそれしかなかった。


「よーし。撮れた撮れた。それじゃあ乾杯!」


 父がビールジョッキを掲げる。文音は母と共に、ジュースの入ったグラスを少しばかり持ち上げた。


 カルビやロースといった柔らかな部位ならミジオも食べられるらしい。時折「ング、ング」と呻いているが、口元をオリゴ糖で汚しながら必死で肉を食べている。


 父はそんな光景を嬉々として撮影している。母はスマホを気にしつつ、父から押し付けられた肉を無感情に口へ運んでいた。


 ――うんざりする。


 小言が飛んでくるのを恐れて、文音も肉を食べるが、味はよく分からなかった。


 不意に鋭い着信音が響く。母のスマホだった。母は明らかに喜びの表情を浮かべ、しかし、声色は不満げなものを演じながら応答する。


「ええ。はい。そうですか。承知致しました。すぐに対応へ向かいます」


 母は涼しい顔をしてハンドバッグを手に取り、立ち上がった。


「ごめんなさい、会社でトラブルがあったみたい。お父さん、あとはお願いね」


「おいおい、せっかくの家族サービスなんだぞ?」


「仕事なんだから仕方ないでしょ。文音、いい子にしてるのよ」


 文音の返事を待つことなく、母は足早に個室から去っていった。まるで最初からそこに居なかったかのように。


 父はわざとらしく肩をすくめて見せると、すぐにスマホの画面に視線を戻した。SNSのタイムラインを更新し、誰かからの「いいね」を待つ作業に夢中になっている。


 肉の焼ける音、ミジオの咀嚼音、別室から届く楽しげな声音、子供の笑い声や優しくたしなめる大人の声――文音は、この場にいるのが耐えられなくなった。


「……お手洗い、行ってくる」


「ああ、早く戻ってこいよ。肉が冷めちまう」



 父はスマホに落とした視線を上げもせずに言った。文音は無言で立ち上がり、個室の扉を開けた。


 狭い通路を抜け、トイレの個室に入って鍵をかける。ようやく一人になれた。便座に腰を下ろし、深く息を吐く。何もかもが狂っている。父も、母も、ミジオも、この社会も。こんな世界で心を殺して生きている自分も。


 どれだけの時間が経っただろうか。個室の外が急に騒がしくなった。悲鳴と、何事かを叫ぶ声。意識してみると煙の臭いも増してるように感じられた。


 文音が訝しんでトイレから出ると、店内には灰色の煙が立ち込め、客も従業員もパニックに陥っていた。誰かが消防署への通報をおこなっている声がした。胸騒ぎがして、個室へと足を速める。


 そして目にした光景を、文音は生涯忘れないだろう。


 

 個室のテーブルは、業火に包まれていた。


 父が、炎に巻かれて床を転げまわっている。


 ただでさえSNSに夢中となっていたところにビールまで飲んでいた。ミジオの動きなど意識していなかったのだろう。


 甘いものを求めるミジオは、オリゴ糖の容器とよく似た、テーブル隅に置かれていた消毒用アルコールのボトルを手に取ったのだ。蓋を外すくらいの器用さは身につけてしまっている。自身でアマアマを用意しようとして、焼き網へと注ぎ込んだのだ。アルコールは瞬時に気化し、爆発的な炎上を引き起こした。


「あああああ! 熱い! 助けてくれえええ!」


 理想という虚像が、業火によって見る影もなく焼け落ちていく。ブランド品のシャツが燃え尽き、皮膚は醜く爛れていく。助けを求める声音は、もはや父のものとは思えなかった。


 その傍らで、ミジオは黒く大きな目をぱちくりさせながら「ナサイ、ナサイ」と鳴いていた。


 文音は、燃え盛る炎の中で絶叫する父の姿を、ただ、じっと見つめていた。


 熱風が頬を撫でる。耳鳴りがする。何も聞こえない。何も感じない。破滅という二文字だけが頭にぼんやりと浮かんでいた。

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