第2話
ハエモグラ男との生活は続く。
それは様々な苦痛を文音にもたらし続けた。
屑野州知事の来訪があった。太った男は脂ぎった体から発せられる臭いを香水か何かで誤魔化していた。もちろん誤魔化せてはいなかったし、却って悪臭となっていた。ミジオですら「ナサイ、ナサイ」と頻りに鳴いて屑野には近付こうとしなかった。
父の提案した記念撮影は二度と味わいたくない体験だった。屑野に肩を抱かれた際には全身の血が凍てつくような寒気がしたし、髪に頭を寄せてハスハスと鼻を鳴らしてからニタァと笑みを浮かべた折には下卑た肥満男を突き飛ばしたくなった。
彼女を多大に苦しめた末に出来上がった写真には、逃げ出そうとするミジオ、嫌悪感を噛み殺したような表情の文音、一見すると朗らかに感じられる胡散臭い二つの笑顔が写っていた。
――忌々しい。
父から渡されたその写真を破り捨ててゴミ箱へ放り込んだ。父が写真の行く末など気にする人間でないことは知っている。
「ニジソ、ニジソ……ガチコ? ナサイ、ガチコ……」
文音の私室のドアを短い腕で掻きながら、ミジオが鳴いている。
あの一件以来、ミジオは文音に対して執着するようになっていた。
「ガチコ、ガチコ、ガチコ……」
幸いにしてドアを開けるだけの知能も器用さも持ち合わせていない。万が一ミジオがドアを開けられるようになったとすれば、文音は徹底して対策を講じる腹積もりだった。そこはこの家に於ける聖域にして唯一の安息地だ。
利己的な理由で互いを憎しみ合う夫婦による欺瞞も、他者がこうむる負担を考えられない無責任な大人達が作った社会による抑圧も、自律する不気味な人型果実が漂わせる汚臭も、ここにはない。
文音は一つ深呼吸をした。
「ガチコ、ガチコ、ガチコ……」
部屋の外ではミジオが鳴き続けている。
小さな木製の本棚から一冊を引き抜く。それはある男について複数の作家が描いたオムニバス形式の短編集だ。加棲呉利の木が大地に根付く以前の広島州を舞台とした話が多く、祖父の愛読書でもあった。
土産店の裏手で、缶入りの短い煙草を吸う祖父の姿をこっそり覗き見るのが好きだったことを思い出しながら本を開く。
短編集に登場するその男は他責思考甚だしく、また同程度に自惚れが激しい。それでいて酷く怠惰で傲慢といった人物だ。ホラーの中で、人情劇の中で、モキュメンタリーの中で、男は自業自得と言わざるを得ない悲惨な末路を迎える。
荒んだ心に慰めを与えるには、キラキラと輝く愛と青春の物語よりも、ずっと適していた。
頁を捲る。活字を追う。ミジオの声が遠ざかっていくように感じる。物語は、例え醜悪な題材を描いていたとしても、紡ぐ者の心得次第では癒しとなる。読み手を楽しませる為の創意工夫が心地良く、文音は書物へ没頭していく。
物語の一つに、孔子による論語を絡めたものがある。これまでは難解そうだと敬遠していたが、これも読み進めた。志学というのが15歳であると知ることが出来た。
しばし黙して読書を続けていた文音が、ハッとした表情を浮かべる。
――業人。
ある短編の中で、件の他責自惚れ男がそう呼ばれていた。業が深い者。胸がちくりと痛む。
――あの人達がそう呼ばれるべきなのか。それとも私がそうなのだろうか。知らずの内に犯した悪行……私はその罰を受けているのではないのだろうか。
年頃の娘らしい自問自答に耽っていた文音の耳に、父の声が届く。
「お~ぅい」
うんざりすること、それ自体にうんざりする。表情を強張らせて部屋を出る。
「ガチコ、ガチコッ」
ふと目に留まったミジオの股間にある小ぢんまりとした突起が、腫れているように見えた。文音はその意味を察していたが、知らんぷりを決め込んで階段を下った。ミジオが鳴きながら後に続く。
「ああ、文音。喜んで良いぞ。明日からミジオと一緒に学校へ通えるようになったんだ」
「……え」
「ミジオもすっかり文音に懐いて、最近は何処へ行くにも付いて回っているだろう? 今だって二階で遊んでいたようだし」
「遊んでなんか……」
「照れなくて良いんだぞ。何せハエモグラ男は広島州の宝だ。懐かれて恥じることはない。誇って良いんだ。屑野さんにな、一人で留守番しているミジオが可哀想だし、文音の友達にとってもハエモグラ男との交流は学びになるんじゃないかって相談したら、すぐに学校側の許可を取ってくれたよ」
「そ……う、なんだ……」
息が詰まる。父の言葉に対して全身が拒絶の意を示している。真っ白になった頭にハエモグラ男の鳴き声が如く、同じ言葉が繰り返し浮かぶ。なんで、どうして。
「いやあ、他所の共生家庭では色々トラブルも起きているようだけど、ウチのミジオは良い子で良かったな」
「ガチコ……ガチコ……」
「……」
言葉が出なかった。文音には黙ったままで父親の姿を眺めていることしか出来なかった。父は得意げに言葉を続ける。屑野さんと意気投合して――。
――ああ。そういうことか。お父さんは私の領域を売ったのだ。政界とのコネクションが出来たと思い込んでホクホクと笑んでいるのだ。悪名は無名に勝る。その言葉が為に州知事となってしまった男に取り入る為に、私の人生の一端を踏み躙っている自覚もなく。
「ガチコ、ガチコ、ガチコガチコ」
ミジオが文音の腕にしがみ付こうとする。
「やめて」
「ははっ、喧嘩する程仲が良いとはこのことだな。……だけどな文音。外では姉弟喧嘩も程々にしないと駄目だぞ?」
「……うん」
父の目には鋭い光が宿っていた。理想の外面を守る為の牽制だ。
うんざりする。娘でさえも父にとっては潜在的な『敵』に過ぎないのだ。理想的な家庭という虚像を打ち砕き得る敵。父が如何に器の小さな人物であるかを再確認すると、いくらか冷静になれた。文音は自分の心を客観視しながら、思考を放り棄てた。
――なるようになれ。打ちのめされることには慣れている。
匙を投げて強がる文音だが、数少ない友人の中でもとりわけ親しい佐々木雪乃のことだけは気掛かりだった。
――私が業人だとして。その報いに雪乃まで巻き込んでしまうことがあるなら、私は。
また一つ世界が遠退いていくような感覚に、眩暈を覚える。それは一つの幸福なのかも知れない。腐敗した世界に迎合していないことの証左なのだから。敢えて悲劇のヒロインぶった言い回しで思考して自嘲する。そんな文音の姿を、ミジオは黒く大きな瞳でじっと見つめていた。
翌日から始まったミジオを伴っての学校生活は、想定していたよりは問題の少ないものだった。
例えば通学。行動の読めないハエモグラ男だが、文音に執着を見せるミジオは彼女の後にしっかりと続いた。時折、若い女性を目で追って立ち止まることこそあれど、文音が声を掛ければちゃんと歩き出した。
学校内では揶揄を受けたり、好奇の視線を浴びることとなった。だが、これに関しては想定済みであった。もちろん気分の良いものではなかったが、文音にとっての彼らは、何かを強制するだけの力は持っておらず、いずれ時の流れに従って消え去る風景に過ぎなかった。
しかし、ミジオが文音を始めとした女性に執着しているのは周囲の目にも明らかで、そうした仕草に対する揶揄には辟易させられた。
陰で嫌われているお調子者の男子、浜谷が指で作った輪に指を差し入れしながら下卑た笑みを浮かべて「ハエモグラ男の世話ってこういうこと?」などと言い始めた際には酷く腹が立った。
空気の読めない彼が勘違いしているだけであるが、「何をしても許される」存在として扱われるのは耐え難い苦痛だった。
折り良くその場に居合わせた雪乃が機転を利かせてくれた。近くにいた男子に手招きをして耳打ちする。その男子は距離の近さ故に顔を真っ赤にして照れたが、すぐに肩を震わせながら笑みを漏らして複数の男子を集めて何事かをひそひそと話した。爆笑が起こった。
浜谷が文音に向けたジェスチャーの意味は「父親に毎晩掘られる浜谷」と改変されて浜谷以外のクラスメイト全員が知ることとなった。
教室の後方に設置された飼育ゲージの中、女子が通り掛かる度に立ち上がっては「ガチコ、ナサイ、ナサイ」と鳴くミジオと、自分が笑われているとは知らず、得意げにジェスチャーを繰り返す浜谷。姿形こそ異なれど、両者は女性に執着して滑稽な醜態を演じている。文音の瞳に映る彼らはとてもよく似ていた。
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