第2話 冥府の門と魔女
エスポワール城に着くなり、クロムは無言で城奥の聖域へと向かった。手には、国花であるガーベラの花束を携えて。
辿り着いた先は、かつての王と王妃――クロムの両親が眠る墓前。
無表情だった彼の顔に、わずかな翳りが差す。悔しさと、悲しみ。その狭間で、彼は口を開いた。
「父様、母様……滅亡から十年、あっという間でした。あの日、誰が裏切ったのか。俺は、まだ探しています」
ふと握った拳に力がこもる。
「必ず、この場所に、その者の首を捧げます。たとえそれが……かつての友であっても」
墓石の前に膝をつき、花束をそっと供えたクロムは、歴代の王たちへと深く頭を垂れた。
涙が一滴、頬を伝い、静かに地へと落ちる。
――そのときだった。庭園の奥から、数人の男たちの声が聞こえた。
(……この城に人が来るはずがない。まさか……帝国の魔導兵が)
クロムはすぐに身を隠し、声のする方へと身を滑らせた。赤い鎧を纏った三人の兵。その中心に、一人の白髪の少女。
少女は怯えもせず、ただ黙って佇んでいた。
「こんな女が黒魔導士の仲間? バカらしい。せっかくだ、遊んでいこうぜ」
「いや、関係者の可能性はある。捕まえて吐かせりゃいい」
兵士たちの下卑た笑い声に、クロムの眉が僅かに動く。
(……助けたい。でも、ここで“王子”としての力を使えば、守るべきものをまた失うかもしれない)
思考が渦巻く中、少女の手首が無理やり掴まれた。
「離してくださいっ!」
振り払おうとするが、鍛えられた男の腕はびくともしない。少女の声に興奮した兵は、さらに距離を詰め――
「黒魔導士を知っていようと、あなた達には絶対に話しません。女性に対して、礼儀の欠片もないような者には」
凛とした声。怯えは微塵もなく、まるで王女のような威厳がそこにあった。
「……はあ? 魔法も使えねぇくせに、偉そうにすんなよ!」
怒声と共に振り上げられた剣。クロムが思わず声を上げ、魔法を構えた、その瞬間だった。
少女の唇が、静かに呪を紡ぐ。
「──闇に呑まれて、死ね」
ぶわりと風が巻き起こり、少女の白髪が舞った。瞳が黒く染まり、空気が凍りつく。
次の瞬間、彼女の背後に“それ”は現れた。
《(《冥界の門》》。
歪んだ顔が無数に浮かぶ黒い門が、軋む音と共に開き始める。その隙間から滲み出すのは、底の見えない暗黒と……呻き声。
「う、うわっ……なんだこれ……!」
「やめろ……来るな……!」
「いやだ、死にたくない!!」
兵士たちの叫びは、やがて掻き消えた。門の中へと、音もなく吸い込まれていく。
闇が全てを飲み込んだ後、世界には静寂だけが残された。
――少女が使ったのは、伝説にのみ語られる魔法。
その名も、死の魔法であった。
あまりに異常な光景だった。
冥界の門が開かれ、漆黒の渦が帝国の魔導兵たちを一瞬で呑み込む。
残されたのは、地面に座り込んだ白髪の少女ただひとり。
──死の魔法。
それは、この世界において“禁忌”とされる術だった。
神話にすら名しか残らぬ冥界の王・ハデスが使ったとされる、視線一つで命を奪う魔法。
何より恐ろしいのは、彼女がそれを“自分の意志で”放っていたという事実だ。
クロムは動けなかった。
女性が魔法を使うことなど、本来あり得ない。
この世界では、女性には“魔法回路”が備わっていないからだ。
それは人類の起源に関わる、根源的な罪──アダムとイヴの物語が原因とされている。
もちろん、例外はある。
魔導石や
だが、今見た“死の魔法”は、そのどれでもなかった。
――彼女は、魔導具など使っていない。
震える手で剣の柄を握りながら、クロムは思わず呟いていた。
「……お前は、何者なんだ……」
気づけば、クロムは駆け出していた。
少女の肩を両手で掴み、声を荒げる。
「なぜ、女であるお前が魔法を使える!? 魔導具の気配もない……魔力の流れも、俺たちと同じだ!」
少女は目を丸くして、ポカンとした顔で彼を見つめる。
「なぜ……女性は魔法が使えないのですか?」
思わず、クロムの思考が止まった。
──質問に質問で返すな。
だが、そんな常識的な怒りすら湧かないほど、彼女の言葉は“無垢”だった。
まるで、本当に知らないと言わんばかりに。
クロムは小さく息を吐き、落ち着こうと一歩下がる。
が──そのときだった。
彼女がこちらを見上げた瞬間、クロムの背に戦慄が走る。
その目。
その“瞳”は、鮮やかな――
「……まさか」
――
それは、クロム自身と同じ、神に選ばれし者だけが持つ“神眼”だった。
✳︎✳︎✳︎
――遠い昔。
この世界にまだ“アダム”と“イヴ”しか存在しなかった頃、
神は二人を
飢えも渇きも争いもない、すべてが満ち足りた祝福の地。
生と死の概念すら曖昧な、神の掌の中の世界。
その中心には、二本の木が立っていた。
一つは生命の樹。
その実を口にした者は、神に等しい永遠の命を得るといわれている。
そして、もう一つ――知恵の樹。
善と悪を知る“神の知恵”をもたらす禁断の果実を実らせる木。
神はアダムとイヴにこう命じた。
「生命の実は与えよう。だが、知恵の実には触れてはならぬ」と。
だが、禁忌は破られた。
ある日、アダムが不在の間に──
イヴはエデンに棲む一匹の蛇に唆され、禁断の知恵の実を口にしてしまった。
神は怒り、アダムとイヴをエデンから追放する。
同時に蛇にも罰を与えた。
そして神は、こう定めたのだ。
――「アダムに魔法を授けよう。だが、イヴにはその生涯を通じて魔法を禁ずる」と。
その掟は呪いとなり、
以後、女の身には魔力を宿す器官が備わらなくなった。
それが、いまに続く“女は魔法を使えない”という世界の原理だ。
語り終えたクロムは、視線を少女へ戻す。
少女はしばらく考え込んだあと、目を伏せたまま口を開いた。
「……理不尽、ですね」
「……そうかもな」
「なぜイヴだけが罰を受けるんですか? 唆したのは蛇でしょう? アダムも結局、実を食べたじゃないですか……」
少女の目には、はっきりと怒りの色が宿っていた。
クロムはわずかに苦笑しながら、肩をすくめる。
「蛇も罰は受けたよ。姿を奪われ、人に変えられた。その末裔は“セルパン”と呼ばれている。魔法を一切使えない民族さ」
「セルパン……」
「彼らは、自分たちが“罰された血族”だと理解してる。だからこそ、その“呪い”を誇りに変えた。
今でも、体に蛇の刺青を刻む文化が残ってるよ」
少女はその話を静かに聞きながら、拳をぎゅっと握った。
「セルパン」――その名を口にした瞬間、少女の表情が変わった。
それまでどこか無垢だった顔が、影を落とす。
不審に思ったクロムは、もう一度その目を覗き込む。
鮮やかすぎるほどの黄色。まぎれもなく、自分と同じ“鮮黄色の瞳”。
女性で、魔法を使え、その瞳を持つ。
クロムの脳裏に、ひとりの人物の面影が過った。
――先代国王、ルシェル・エスポワール。
だが違う。彼女は神の力に触れた“代償”としてその目を持っていた。
目の前の少女は、そうではない。
神の力の気配はない。ただ、それでも――何かが引っかかる。
クロムが黙って少女の顔を見つめていると、少女の方が口を開いた。
「……私、セルパンの生まれです」
「……は?」
一瞬、何を言われたのか理解できず、間の抜けた声が出る。
「セルパンから来ました。私は、あの国の人間です」
セルパン。
魔法を持たぬ者たちの国。
魔法具すら使えないその民は、自分たちがかつて“蛇”だったという出自を受け入れ、誇りとするかのように身体に刺青を刻みながら、外の世界との関係を絶った。
「……いや、おかしい。セルパンは鎖国国家だ。出入りは一切できないはずだろ。なんでお前がここに――」
少女は目を伏せ、苦しげに言った。
「……追放されたんです。私のこの目と……魔法が原因で」
クロムは言葉を失った。
セルパンは“魔法”を忌み嫌う。
それは呪いであり、神への反逆であり、自分たちの存在意義を否定する象徴だ。
そんな中で、魔法が使える者が生まれたとしたら――たとえ国民であっても。
「……そう、か」
沈黙の中で、クロムは少女を見つめ返した。
悲しげにうつむくその姿に、自分を重ねてしまったのかもしれない。
「……俺もさ、大切なものは全部、もう無くした身だ。帰る場所がないのは、少しは分かる」
クロムはそう言って、膝をついた。
少女の小さな手を、そっと取る。
「だから……もし、邪魔じゃなければ。俺と来い。一人でいれば……さっきみたいなことが、また起きるかもしれないから」
その仕草はまるで、
荒野に咲いた一輪の花に手を差し伸べる王子のようだった。
少女は少し驚いた顔をして、けれどすぐに――微笑んだ。
「……お邪魔じゃ、なければ。お願いします」
「よし、じゃあさっさとこんなとこ出ようか」
彼女の手は、ひどく冷たかった。
けれど、その指がぎゅっとクロムの手を握り返した瞬間――
確かに“生きようとする意志”だけが、そこに宿っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます