8章 語られない物語
第32.5話 名もなき男の回想――ある酒場での出来事
俺たちは、船乗りだった。
ガラは悪いが、それなりにマジメで、腕もそれなりに立つ船乗りだった。
それが、あの日いきなり解雇された。
理由はわからない。
故郷から遠く離れた西の端の港で、いきなりの通告だった。
文句を言う相手はとっくに出港していた。つまり、俺たちは置いて行かれたんだ。
お偉いさんだか、重要な荷物だかを運ぶためにな。
いくらかの退職金とともに、俺たちは東の故郷から遠く離れたこの街に置き去りにされた。
この街の風には、潮の匂いがしない。海から切り離された港町。そんな場所だった。
⸻
いくら腕がいい船乗りでも、見知らぬ街で仕事なんかすぐには見つからない。
やけになった俺たちは、退職金を使って飲んだくれていた。
――飛竜の翼亭。
たまたま入った酒場だったが、値段も安く、飯もうまい。
けれど、俺たちの苛立ちを鎮めるには足りなかった。
仲間の一人が入り口を指差す。
そこには三人の女。神官、ガキ、そして大柄な女。
俺たちが遊ぶにはちょうどいい。注意すべきは大女だけ。
人数はこちらは七人。しかも、腕っぷしには自信がある。
念には念を入れて、三人で正面から、残りは後ろに回って囲めばどうにでもなる。
――それが、運の尽きだった。
正面から因縁をつけた仲間は、エミリオとかいう騎士にあっさりぶちのめされた。
そして後ろに回り込んだ俺たちは、動けなかった。
神官の後ろに立つ“よくわからないやつ”のせいで。
そいつはただ立っているだけだった。けれど、その目が――動けば死ぬと告げていた。
背筋を氷の刃でなぞられたようだった。息が止まった。足が地面に縫い付けられたみたいだった。
仲間が倒れ、沈黙が戻る。
その“よくわからないやつ”は、俺たちの前に歩み寄り、金を差し出した。
「怪我をさせた詫びだ。とっておいてくれ」
そして、もう一言。
「もしやることがないなら、明日の朝、貧民街の広場に来い」
それだけ言って、去っていった。
――これが、ラジェールの旦那との初めての出会いだった。
⸻
その夜、眠れなかった。
あの目が、夢の中まで追ってきた。冷たくて、どこか寂しそうな目だった。
翌朝、広場に向かうと、炊き出しの列ができていた。
俺たちは、哀れみをかけられるような惨めな存在になっていた。
そのとき、背中から声がした。
「よく来てくれたな。お前らは先にこっちだ。力とヒマ、持て余してるだろう?」
振り向くと、笑顔の旦那が立っていた。
文句を言う間もなく、俺たちは荷運びや力仕事をさせられていた。
「ここじゃ、出来るやつが出来ることを出来る範囲でやるルールだからな」
仕事終わりに遅めの朝飯を食いながら、旦那がそう言った。
不思議なことに、俺たちはその言葉に誰も逆らえなかった。
「お前らも大変だな。いきなり解雇された上に、知らない街に置き去りにされるなんて」
そんな話をしてないのに、旦那は知っていた。
「ここにはいろんなもんが流れてくるんだよ。人も、噂も、祈りもな」
⸻
旦那は、不思議な人だ。
別に哀れんだわけでも、助けたつもりもない。
それでも俺たちは、確かに助けられた。
礼を言おうとしたら、旦那は笑って言った。
「礼なんかしてるヒマがあるなら、さっさと故郷へ帰れ」
――その声が、今も耳に残ってる。
巷では、神託の勇者がどうのこうのと話題になってる。
でも、俺はそんな勇者より、あの旦那の方に感謝してる。
名前なんて聞かれなかった。
きっと覚える気もなかったんだろう。
でも、俺はあの人の顔を今でも覚えてる。
あの湯気の向こうに立っていた姿を、な。
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