5章 名を捨てた者たちの詩

第20話 エミリヤ回顧――名を捨てた日

その日、私は嘘でできた家に生まれたことを知った。


“勇者の血を引く”――それが私に与えられた唯一の誇りだった。五代前、この世界を救ったとされる伝説の人物。その末裔として、私は育てられた。名に誇りを持て、志を高く持てと、そう教えられてきた。


だが、それは――


祖父が金で買った、偽造の家系図によって作られた幻想に過ぎなかった。


それを知った瞬間、胸に広がったのは、怒りでも悲しみでもなく、ただ――虚しさだった。


あまりにも滑稽だった。あまりにも空っぽだった。


胸の奥を、冷たい風が吹き抜けたようだった。

そこにあったはずの誇りは、音もなく崩れ、ただの空白だけが残っていた。


もし、勇者の血を引いていないなら、私はいったい何者なのか。


嘘の上に築かれた誇り。誇りだと思い込んでいたその土台が崩れたとき、私は初めて自分が“何もない者”であることを突きつけられた。


誇りを壊したのは他でもない。私自身の手だった。


だが――


それでも、あの人の言葉だけは、今も私の中に、確かに残っている。


「似とらんのう。顔も、声も、背格好も」


その言葉を投げかけたのは、ヨル様だった。王国に仕える現役の宮廷魔導士。先代の勇者と共に戦った、唯一の生き証人。


勇者のことを語る時だけ、彼女の目がどこか遠くを見つめるようになるのを、私は知っている。


私が真実を打ち明けたのは、そんな彼女の前だった。


本当の出自を告げることで、全てを終わらせたかった。


だが、返ってきたのは、意外にも温かな言葉だった。


ヨル様は一度、視線を宙に彷徨わせた。

まるで誰かの面影を追うように、目が遠くを見ていた。


「そうじゃろ、血なんぞ繋がっておらんじゃろ。でも……魂が同じならそれで良いではないかの」


血ではない。魂が同じなら――


その言葉が、不思議と私を救ってくれた。


そうか、私は“勇者の血”を継いでなどいない。


だが、“勇者の魂”を継ぐことはできるかもしれない。


そう思えた瞬間、自分を定義づけていたものが壊れた代わりに、新たな光が差し込んできた気がした。


ならば私は、血ではなく魂で証明してみせよう。


“勇者の魂”を受け継いだ者として、私は誰よりも勇者らしく、正しく、誇り高く生きてみせる。


そのためには、王国騎士になるしかなかった。


剣を執り、正義を掲げる者。力と意志で人々を導く者。


それこそが、勇者に最も近い存在であると、私は信じた。


けれど――


現実は、ただ一つの理由でそれを拒んだ。


私は“女”だった。


王国騎士の選定には、男女の区別が存在していた。建前は“身体的適性”。実際は、“慣例”という名の差別だった。


実力があっても、血筋があっても、それは覆らなかった。


ただ“女”だから、という理由で。


その不条理に、私は絶望した。


それでも、ひとつだけ希望があった。


騎士選抜訓練所――そこでは、一年間の訓練を経て“首席”で卒業した者だけが、性別に関係なく王国騎士として叙勲されるという規定が存在していた。


ただし、歴代において、女で首席を取った者は、ひとりもいない。


だから私は、その可能性に懸けた。


それ以外に道はなかった。


私は、覚悟の証として、名を捨てた。


その名を捨てる瞬間、胸の奥で“エミリヤ”という響きが微かに揺れた。

振り返りたい衝動が一瞬だけよぎる。けれど私は、迷いを噛み殺すように前を見据えた。


エミリヤという名を封印し、“エミリオ”という仮面をかぶった。


男として生きると決めた。


勇者も、騎士も、みな男であるとするなら――


私も、男として立つしかなかった。


私は“エミリオ”として、騎士選抜訓練に身を投じた。


誰にも心を開かず、必要最低限の言葉だけで通す。


すべては、“男”として受け入れられるために。


初日の訓練場――あの光景は、今でも鮮明に思い出せる。


私は誰とも目を合わせず、沈黙のまま整列していた。


その場に集まった訓練生たちは、好奇心と敵意を半々にしたような視線を私に向けていた。“新参者”に対する無言の圧力。だが私は、それに臆するつもりなどなかった。


そして――現れた。


彼は、群れに溶け込むことなく、ぽつんと離れて立っていた。


やる気のなさそうな立ち姿。訓練生たちを一顧だにしない態度。


まるで「相手にする価値もない」と言っているようだった。


その目が、印象的だった。鋭く、醒めていて、同時にどこか――空虚だった。


模擬戦が始まると、彼は一転して牙を剥いた。


すべての試合を、一太刀で終わらせた。


動きは最小限。力は過不足なく、だが容赦なく相手を制圧していく。


その姿に、誰もが言葉を失った。


私もまた、その強さに圧倒されたひとりだった。


だが、同時に思った。


(もし、私が彼と当たっていたら……)


胸の奥が、かすかにざわついた。

冷静な顔を装いながら、私はその強さに怯えていたのかもしれない。


試験後、筆記に取り組む彼の姿勢を見て、私は驚いた。


まるでやる気がない。


いや、やる気が“不要”だと思っている。


模擬戦だけで合格できると、本気でそう思っているのだと――私は、そう決めつけた。


内心、こう思った。


“たかが力に溺れた者。そこが限界だ”


だが――試験結果は、私の誤解を打ち砕いた。


結果表に記された、総合首席の名。


そこに記されていたのは、間違いなく――


ラジェール。


その名を見た瞬間、私は悟った。


恥ずかしさが、頬を内側から刺した。

自分の小ささに気づいたとき、誰にも見せたくない自分がそこにいた。


自分が浅はかだったことを。


そして、同時にこうも思った。


(この人こそが、“倒すべき壁”だ)


私は、己の誇りを取り戻すために。


魂の証明のために。


この“壁”を越えなければならない。


ラジェール。


彼の背が、私の前に立ちはだかる。


あれはただの障害ではない。

私が越えなければならない“運命”そのものだ。

強さ、誇り、勇者の魂――そのすべてが、あの背に集約されていた。

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