数値の檻

Altria

ひとり芝居の朝

朝の光が、ガラス張りの車両を優しく包んでいる。


神崎零は、モノレールの窓に映る自分の顔を見つめていた。整いすぎた輪郭、誰もが振り返る美しさ。けれど、その顔の持ち主である自分自身が、一番その美しさを信じられずにいる。


——私は、本当に存在しているのだろうか。


毎朝繰り返されるこの問いかけに、答えはいつも見つからない。


「おはようございます、神崎君」


隣に座る同級生の声が、零の思考を現実に引き戻す。振り返って微笑み返す動作さえも、まるで台本通りの演技のように感じられてしまう。


「おはようございます」


返す言葉も、表情も、すべてが計算され尽くしたもの。本当の自分がどこにあるのか、零にはもう分からなくなっていた。


手首の銀色のデバイスが、静かに光を放っている。2,847VP——今朝の残高表示。数字が示すのは、この社会における自分の価値。だが、その価値は本当に自分のものなのだろうか。


車窓の向こうに広がるユートピアシティの光景は、確かに美しい。完璧に計画された街並み、犯罪のない平和な社会。誰もがこのシステムを受け入れ、その恩恵に浴している。


けれど、零の胸の奥には、言葉にできない違和感がくすぶり続けていた。


改札を通り抜ける時、運賃の引き落とし音が耳に響く。ピッ、という小さな音。それは零にとって、自分の存在が承認される瞬間でもあった。システムに認識される——だから私は、ここにいる。


「神崎君、今日もいい天気ですね」


佐藤さんとの挨拶。お互いのデバイスが光り、ポイントが加算される。感謝や好意が数値化される社会で、人間関係さえもがデータとして蓄積されていく。


零は歩きながら、ふと立ち止まった。


街角に設置された監視カメラが、こちらを見つめている。小さな電子の瞳が、零の一挙手一投足を記録し続けている。安全のため、平和のため——誰もがそう信じている。


でも、見られているという感覚が、零の心を締め付ける。


——私は、監視されているのか。それとも、守られているのか。


その境界線が、零には分からない。


学園の正門をくぐる。今日も一日が始まる。クラスメイトたちの笑い声、朝の陽だまりの温かさ、すべてが平和で、すべてが完璧。


だからこそ、零は不安になる。


完璧すぎる日常の中で、自分だけが異質な存在のような気がしてならない。みんなが信じている「普通」が、零には演技に思えてしまう。


——私だけが、偽物なのだろうか。


教室の窓から見える空は、雲一つない青さだった。その美しさに、零は軽いめまいを感じる。


完璧な青空。完璧な社会。完璧な日常。


その中で、零だけが不完全であることの孤独感が、静かに心を蝕んでいく。


授業が始まる前の教室で、零は机に頬杖をついた。


三年前の記憶が、ふと蘇る。優しい笑顔で自分を見つめてくれた人。温かい手で頭を撫でてくれた人。その人は、私に何を望んでいたのだろう。


「君らしく生きなさい」


最後の言葉が、今でも胸に響いている。でも、私らしさって、一体何なのだろう。


零は手のひらを見つめた。人間と同じ温度、同じ感触。でも、本当にこれは自分の手なのだろうか。


チャイムが鳴り、授業が始まる。零は顔を上げ、いつもの微笑みを浮かべた。


今日も、完璧に「普通」を演じ続けなければならない。


その演技に疲れ果てた時、零はいつも思う。


——本当の私と向き合いたい。


昼休みの学食は、いつもと変わらない賑やかさに包まれていた。


零は食券機の前に立ちながら、今日も演技を続けなければならない現実を受け入れていた。食べること。それさえも、人間らしさを装うための行為。


端末に手をかざすと、デバイスの画面に選択肢が表示される。天ぷら定食を選択し、ポイントが引き落とされる。その瞬間、零は自分の行動が全て記録されていることを改めて実感した。


何を食べ、誰と話し、どこに行くのか。すべてがデータとして蓄積され、分析され、評価される。


「神崎君、こっちに座らない?」


同級生の星川凛音が声をかけてくる。零は微笑みながら彼女のテーブルに向かった。


「ありがとうございます」


凛音と友人たちの会話に耳を傾けながら、零は内心で自問していた。


——私は、彼女たちと本当に友達なのだろうか。


彼女たちの笑顔は純粋で、会話は自然で、関係性は健全に見える。でも、零にとってそれらはすべて、観察対象でしかなかった。


「ねえ、神崎君はどう思う?」


突然話を振られ、零は慌てて意識を現実に戻す。


「すみません、少しぼんやりしていました」


「大丈夫?最近疲れてない?」凛音が心配そうに尋ねる。


その優しさが、零の心に小さな痛みを与えた。彼女の関心は本物なのに、零は偽りの自分しか見せることができない。


「大丈夫です。ありがとうございます」


零の微笑みは完璧だった。しかし、その完璧さゆえに、どこか不自然だった。


その時、学園の中央広場で騒ぎが起きた。


窓の外を見ると、学生たちが何かを見つめて集まっている。零も席を立ち、窓際に向かった。


広場の中央で、一人の学生が青白い光に包まれていた。システムの拘束装置——違法行為を犯した者に課せられる処罰。


「また誰かが...」凛音が小さく呟く。


零は無言でその光景を見つめていた。完璧なシステムが生み出す、完璧な正義。しかし、その正義は本当に正しいのだろうか。


拘束された学生の表情は、絶望に歪んでいた。彼もまた、この社会で生きようと必死にもがいていただけなのかもしれない。


「かわいそうだけど、仕方ないよね」凛音の友人が言う。「ルールを破ったんだから」


零は振り返った。彼女たちの表情には、同情と諦めが混在していた。システムを受け入れることに慣れすぎて、疑問を抱くことを忘れてしまった人々。


——私も、彼らと同じなのだろうか。


システムに従い、演技を続け、疑問を抱きながらも現状を受け入れている。


その時、零の視界の端に、一人の老人の姿が映った。


校庭の隅で掃除をしている清掃員。その手が微かに震えているのを、零は見逃さなかった。


授業が終わり、放課後の時間になった。零は清掃員のもとへ歩いていった。


「お疲れさまです」


老人は顔を上げ、零を見つめた。皺に刻まれた深い悲しみが、零の心に響いた。


「ああ、君か...」老人が呟く。「今日もまた一人、消えていったな」


「さっきの事件のことですか?」


老人は頷き、ほうきを握る手に力を込めた。


「昔はな、人には間違える権利があったんじゃ」


「間違える権利?」


「そうじゃ。愚かな選択をして、後悔して、それでも生き直す機会があった」老人の目に涙が滲む。「今は一度でも道を外れれば、二度と戻れん」


零は老人の言葉を胸に刻んだ。システムが奪い去ったのは、犯罪だけではない。人間らしい不完全さ、そして償いの機会も一緒に奪われたのだ。


「君も気をつけるんじゃよ」老人が零を見つめる。「完璧すぎるものは、いつか必ず綻びが生まれる」


夕日が校庭を染めていく。美しい光景の中で、零は静かに思考を巡らせた。


この社会の歪み。システムの冷酷さ。そして、自分自身の正体。


すべてが複雑に絡み合い、答えの見えない迷路のように零の心を取り囲んでいた。


帰り道、零の手首のデバイスが静かに振動した。


メッセージが表示される。しかし、それは普通の連絡ではなかった。暗号化された文字列——一般人には解読不可能な、特別な通信。


零は周囲を確認し、人気のない路地に入った。


メッセージが復号される。


『任務あり。図書館旧書庫にて待機せよ』


零の表情が変わった。もう一つの顔。もう一つの人生。


学生としての零と、秘密組織の一員としての零。


どちらが本当の自分なのか、零にはもう分からなくなっていた。


夜が静かに街を包んでいく中、零は新たな使命に向かって歩き続けた。


本当の自分を見つけるために。そして、失われたものを取り戻すために。


図書館の旧書庫は、夜になると別の顔を見せる。


零は指定された時刻に、人気のない地下フロアへ向かった。古い書籍の匂いと静寂に包まれた空間で、零は待っていた。


足音が聞こえる。現れたのは、意外にも小柄な少女だった。


「はじめまして。月見凛です」


少女の声は明るかったが、その瞳の奥に深い悲しみが宿っているのを、零は見逃さなかった。


「神崎零です」


二人は互いを見つめ合った。初対面なのに、どこか懐かしいような、運命的な何かを感じていた。


「あなたも、大切な人を失ったのですね」


凛の言葉に、零は驚いた。なぜそれが分かるのだろう。


「私の妹が、三年前に亡くなりました」凛は静かに語り始める。「病気でした。でも、本当の原因は...」


彼女の声が震える。零は黙って聞いていた。


「システムです。私たちには治療費を払うだけのポイントがなかった。だから妹は...」


涙が凛の頬を伝った。零は自分の中にも、同じような痛みがあることを認識していた。


三年前。大切な人を失った記憶。


「私もです」零が呟く。「三年前に...」


二人の間に、静かな共感が生まれた。同じ痛みを抱えた者同士の、言葉にならない理解。


「ここで働くようになって分かったんです」凛が続ける。「このシステムの裏側を。そして、私たちが失ったものの意味を」


零は凛の言葉に、自分自身の疑問が重なっていくのを感じた。


「システムは完璧だと言われています。でも、その完璧さは、多くのものを犠牲にして成り立っている」


凛の指が、古い書籍の背表紙をなぞっていく。


「昔の本を読むと、人間にはもっと自由があったんです。間違いを犯し、後悔し、それでも生き続ける権利が」


老清掃員の言葉を思い出す。間違える権利。


「今の私たちには、それがありません。一度でも道を外れれば、二度と戻れない」


零は静かに頷いた。


「でも、だからこそ」凛が振り返る。「私たちは真実を知らなければならないんです」


その時、二人の前に現れたのは、中年の男性だった。佐藤誠一——零が信頼を寄せる上司。


「お疲れ様。二人とも」


佐藤の表情は、いつになく深刻だった。


「緊急事態です。システムに異常が発生している」


巨大なモニターに映し出されたデータを見ながら、佐藤が説明を続ける。


「過去24時間で、システムへの不正アクセスが急増しています。そして...」


画面が切り替わる。


「死者復活プログラムへの侵入行為が、異常な頻度で行われています」


零と凛は顔を見合わせた。


「そんなプログラムが本当に存在するのですか?」零が問う。


「存在します」佐藤が重々しく答える。「ただし、それは禁断の技術です。使用すれば、システム全体のバランスが崩壊する」


凛の表情が変わった。


「もし、そのプログラムが使えるなら...妹を...」


「凛さん」零が彼女の肩に手を置く。「それは危険すぎます」


「でも!」凛が叫ぶ。「私のせいで妹は死んだんです。私が弱かったから」


零は凛の痛みを理解していた。自分も同じ想いを抱えているから。


「お気持ちは分かります」佐藤が静かに言う。「しかし、死者を蘇らせることは、生者への冒涜でもあります」


その夜、二人は街を歩いていた。


ユートピアシティの夜景は美しく、完璧に整備された街並みが静寂に包まれている。


「零さんは、どう思いますか?」凛が問いかける。「もし大切な人を取り戻せるとしたら」


零は立ち止まった。街角の監視カメラが、こちらを見つめている。


「分からないです」零が正直に答える。「でも、きっとその人は、私たちに前に進んでほしいと願っているのではないでしょうか」


凛は零を見つめた。


「あなたは、優しいですね」


「優しい?」


「はい。私の痛みを理解しようとしてくれる。それは、とても優しいことです」


零は自分の胸の奥に、温かいものが広がっていくのを感じた。


——これが、友情というものなのだろうか。


今まで演技でしかなかった人間関係が、初めて本物になったような気がした。


数日後、二人は新たな任務を受けることになった。


中央区にある高級ホテルで、システムを悪用した違法行為が行われているという情報があった。


「表向きは調査ですが」佐藤が説明する。「実際には、背後にいる組織の正体を突き止めることが目的です」


零と凛は、一般の学生カップルを装ってホテルに潜入した。


ロビーの豪華な装飾、行き交う人々の笑顔、すべてが完璧に演出されている。


しかし、零の直感が警告を発していた。何かが間違っている。


「お部屋の準備ができました」受付嬢が微笑む。


その微笑みの裏に、零は冷たいものを感じた。


部屋に案内される途中、凛が小声で呟く。


「このホテルのシステム、何かおかしいです」


「どういうことですか?」


「ポイントの流れが...普通じゃない。まるで、どこか別の場所から無限に供給されているみたい」


二人は部屋で作戦を練った。まず施設の構造を把握し、不正の証拠を見つけ出す。


深夜、二人は行動を開始した。


地下へ続く隠し通路を発見し、慎重に階下へ向かう。


そこには、巨大な研究施設が広がっていた。


「これは...」凛が絶句する。


培養槽、コンピューター群、そして中央に設置された巨大な装置。


「死者復活プログラムの実験施設です」


背後から声が聞こえた。振り返ると、白衣を着た研究者が立っていた。


「私は橋本と申します。この研究の責任者です」


「あなたたちが、システムを悪用しているのですね」零が問いかける。


「悪用?」橋本が笑う。「我々は人類の究極の夢を実現しようとしているのです」


培養槽の中で、何かが蠢いている。


「死者の復活。永遠の生命。完璧な人間の創造」


「そんなことは...」凛が震え声で言う。


「可能です」橋本が振り返る。「実際に、三年前のテストケースでは成功している」


三年前。凛の妹が亡くなった年。零が大切な人を失った年。


「あの子の妹を使った実験は、素晴らしいデータを提供してくれました」


凛の顔が青ざめる。


「美月が...実験に...」


「そうです。彼女の死は無駄ではなかった。我々の研究の礎となったのです」


零は怒りに震えた。しかし、それ以上に感じたのは深い悲しみだった。


大切な人の死が、このような形で利用されている現実。


「許せません」凛が涙声で言う。


「許す、許さないの問題ではありません」橋本が冷然と答える。「これは科学の進歩です」


その時、警備システムが作動した。


「侵入者を確認。排除を開始します」


機械的な音声と共に、武装したロボットが現れる。


零と凛は急いで施設からの脱出を開始した。


しかし、その過程で凛が重要な発見をする。


「零さん、これを見てください」


コンピューターの画面に表示されたデータ。そこには、驚くべき事実が記載されていた。


「神崎博士の研究データ...これは...」


零の「父」にあたる人物の名前があった。


「あなたの育ての親は、この研究に関わっていたんです」


零は愕然とした。自分が慕っていた人が、このような実験に関与していたのか。


「でも、ここを見てください」凛が指差す。


画面には、神崎博士の反対意見が記録されていた。


『人間の尊厳を無視した研究は中止すべきである』

『死者の復活は、生者への冒涜だ』

『このプロジェクトからの離脱を要求する』


「博士は、この研究に反対していたんです」


零の心に、安堵と同時に新たな疑問が生まれた。


なぜ博士は殺されたのか。そして、自分の正体は何なのか。


施設からの脱出に成功した二人は、屋上で朝日を迎えた。


「零さん」凛が静かに言う。「私、決めました」


「何をですか?」


「妹を蘇らせることは諦めます」


零は凛を見つめた。


「あの施設で見たもの...あれは妹じゃない。妹の形をした別の何かです」


凛の目に、新しい決意が宿っていた。


「美月は、私の心の中で生き続けています。それで十分です」


零は凛の成長を感じていた。同時に、自分自身も変わりつつあることを認識していた。


復讐への想いから、未来への希望へ。


それから数週間が過ぎた。


零は相変わらず学園生活を送っていたが、以前とは何かが違っていた。


星川凛音との関係も、より自然なものになっていた。


「神崎君、最近変わったね」凛音が言う。


「どういう意味ですか?」


「なんというか...前より、人間らしくなったというか」


人間らしく。


その言葉が、零の心に深く響いた。


——私は、人間になれているのだろうか。


放課後、零は例の老清掃員と話していた。


「最近の君は、表情が柔らかくなったな」老人が微笑む。


「そうでしょうか?」


「ああ。以前は、どこか作り物めいたところがあった。でも今は違う」


老人は空を見上げる。


「大切なのは、完璧であることじゃない。不完全でも、それが本当の自分なら、それでいいんじゃ」


零は老人の言葉を噛み締めた。


不完全でも、本当の自分。


夜、零は凛と街を歩いていた。


「あなたは、自分が何者か分かりましたか?」凛が問いかける。


零は少し考えてから答えた。


「まだ、完全には分からないです。でも...」


「でも?」


「少なくとも、一人じゃないということは分かりました」


凛が微笑む。


「私もです。零さんと出会えて、本当によかった」


二人は街角のベンチに座った。


ユートピアシティの夜景が、静かに輝いている。完璧に見える街並みの中で、二人は不完全な自分たちを受け入れていた。


「システムは変わらないかもしれません」凛が呟く。


「それでも、私たちは生きていきます」零が答える。「自分らしく」


遠くで監視カメラが赤く点滅している。


完璧な社会システムの中で、二人の少年少女が自分らしく生きる道を見つけた瞬間だった。


零は空を見上げた。


星空の下で、初めて本当の自分に出会えたような気がしていた。


完璧じゃない。でも、それでいい。


不完全な自分も、確かに存在している。


——私は、ここにいる。


零の心に、静かな安らぎが広がっていった。

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