危ないことは怪我のうち

朝乃行灯

危ないことは怪我のうち

 午後の講義が終わり、講義室から学生たちが散っていく。

 その中で、僕だけ斉藤教授に「ちょっといいかね、堀くん、堀くん!」と、手招きをされた。

「なんでしょうか?」

「この前の課題、再提出ね」

「はい?」

 社会倫理学概論の小レポートのことだ。この斉藤教授は度々、講義内容について小レポートを要求してくる。どこの大学にも一人は存在する、ちょっと面倒くさい教授なのだ。

 だが僕は、それに関しては、今まで要求にしっかり対応してきた。

 ――はずである。

「再提出ですか?」

 自分でも体のどこから音が出ているのか分からないような、浮ついた声を斉藤教授に投げ返した。すると、

「ああ。さもなければ、君に単位は出せないからね」

「……ええっ?」

 僕は一瞬、頭の中が真っ白になった。

「ど、どういうことでしょうか」

「ちょっと、今のままじゃあ、厳しいよ」

「えっ、あっ、あの、具体的にどのあたりに問題があったでしょうか?」

「……はあ?」

「ぜひご指導いただきたいのですが……」

 斉藤教授は眉間に深いしわを寄せた。

「それを考えるのが君ら学生の本分なんじゃないの?」

「はあ……」

「これだから最近の学生はねぇ」

 と、教授はわざとらしいくらい大きくため息をついてみせた。

「とにかくそういうことだから。私もね、これからゼミで忙しいんだよ、まったく」

「……すみません」

 そう僕は言うしかなかった。

 斉藤教授は再び大きなため息をついてみせると、足早に講義室から去っていった。


 誰もいなくなった講義室に、しばらく僕だけ一人、ぽつんと残された。

 ――何かが、おかしい。

 僕は少しの間、考えた。

 しかし、結論など出るはずもない。

 仕方なく、仕方なく講義室を出る。

 ちょっと歩く。ほんの数メートル先は学生掲示板の前だった。すると、その掲示板の前まで行こうとしたところで、ちょうど森保先輩が現れた。

「おう、お疲れさんやな!」

「あ、先輩、……あれ?」

 ひょい、と片手を挙げる森保先輩の腕が、いきなり千手観音のように増える。

後ろから現れたのは、留学生のボブと、同学年のチャラい木崎だった。

「イエーイ! アイラブユー!」

「おーい、木崎だよぉー、ピース!」

 できれば僕は、イカれたパーティーピープル、いわゆるパリピ、の一味と思われたくない。木崎の「ピース!」もかなりダサいが、それよりもすぐに奇声を発するボブのほうが危険だ。

「おう堀、どないしたん、こないなところでぼけーっとして」

 その森保先輩の問いに、僕は事の顛末をささっと説明する。

「なんや災難やったな」

 そう森保先輩が優しく声を掛けてくれた。

「はい。もうあの斉藤とかいう教授、ホントにムカつきます。最悪です!」

 思わず声を荒らげてしまう。

 しかし僕は、ちょっと話を聞いてもらえただけで、だいぶ気が晴れた。

 社会倫理学概論の単位は捨てて、もう別の単位で穴埋めしても良いかな、とさえ思えてきた。

「まあ世の中、どうしょうもない嫌な事もある。しゃあない。ほなら気晴らしや。みんなで今夜、アレやろか?」

 と、森保先輩が何かを提案する。すると横にいた木崎も、

「良いっすねー、やりましょう。久しぶりっすねー!」

 と、明るい表情で盛り上がった。

「決まりやな! よっしゃあ、今夜ヒデキやろうや~!」

「イエース!」

 僕にはさっぱりわからない。その木崎に小声で、

「……なあ、『ヒデキ』って、なんだ?」

 と尋ねてみる。

「えっ、お前知らねーのか? 今話題のオンライン対戦ゲーム『History of Deadly Kings』じゃんかー」

「へっ?」

「単語の頭文字をとって『ヒデキ(HiDeKi)』だよ。今どき男子学生で知らねー奴いねーぞ。ボブも結構プレイしてんだぞ」

 なんとなく聞いたことのあるゲーム。興味が無いわけではない。

「なんや、お前まだやったっけ。一緒にどや?」

 森脇先輩は、意外そうな目を僕に向けた。

「あ、いえ、僕まだ……」

「ん、まだヒデキ落としてへんのか?」

「……あ、はい」

「大丈夫や、まかしとき! ソフトの入れかた教えたるわっ!」

 森保先輩のテンションがさらに上がった。いやいや先輩、落ち着いてください。だが、そんなツッコミが間に合わないくらい、ボブにも変なスイッチが入る。

「イエ~、ニューカマー、ホリィ~! イエ~イ!」

 奇声を上げ始めたボブ。僕が恐れていたことだ。

「ヘイ、ボブ、声が大きいって」

「オー、ゴメンナサ~イ!」

「よーし、今夜やったるぞヒデキ~! いてこましたるわ~!」

「ちょ、ちょっと、先輩も」

 僕は冷や汗をかきながら彼らを促して、とりあえずその場を離れることにした。

 しかし、そんな僕は思った。今日に限って、こんなパリピも悪くないな、と。

 彼らの明るさと思いやりに、僕は心の中で密やかに感謝した。




「とにかくそういうことだから。私もね、これからゼミで忙しいんだよ、まったく」

「……すみません」

 斉藤教授は、食い下がる堀という学生を相手にせず、講義室を足早に出た。

すると、そこで高崎教授とばったり出くわした。

「斉藤さん、お疲れさんですな」

 退官まであと数年の年齢にしてはボリュームのある白髪を、きっちり七・三に分けている。その高崎教授は、黒縁メガネの奥から眼光鋭く、背で勝る斉藤教授の顔を下から舐めこするようにじっとり眺めていた。

「斉藤さん、聞いていたよ」

「何がですか?」

 黒縁メガネが光る。

「今年もまた、やっていたのかね?」

「何のことです?」

 歩き始めると、高崎教授も後に続いた。

 二人の研究室は、それぞれこの先の学生掲示板を過ぎたところにある。

「私は長いから、わかるよ。めぼしい学生から切っていこうってことぐらい」

「おっしゃってる意味が分かりませんな」

 そう返事をする斉藤教授の顔が、少しこわばる。

「まあ最終考査の採点負担を減らしたい気持ちも、分からんではない。でもね、あんまり露骨にはやらんほうがいい。学生達から恨まれでもしたら、今の学生連中は何をするか分からんからね。一応、心配しとるんだよ」

「ははは、杞憂が過ぎますよ」

 そう言うと、学生掲示板を過ぎたあたりで斉藤教授は止まる。研究室の前だった。

「危ないことは怪我のうち、という言葉もある。まあ慎重にな」

「はは、どうも」

 高崎教授は斉藤教授を残し、そのまま真っすぐ歩いて去っていった。


 やれやれ、とばかりに、斉藤教授は研究室へ入った。

「やあ、お待たせ、お待たせ」

 ドアを開けると、八畳ほどの部屋の奥に四人掛けの机と椅子があり、教授の帰りを待ちわびた女子学生が三人座っていた。

「えーと、じゃあゼミを始めましょう」

 この日は斉藤ゼミの初回だった。

「まず初めに、改めまして、私がこのゼミを担当する斉藤典樹です。名前、珍しいでしょう? 『典樹』と書いて『ひでき』と読みます。よくみんなから『のりき』と読み間違えられちゃってね。『乗り気のひでき先生』、なんて呼ばれて『乗り気』になってたりして、ははは……」

 女子学生たちは誰ひとり、クスリともしない。

 さすがの斉藤教授も、この気まずい空気に耐えられなくなって、

「で、では、ゼミの資料を……」

 と、始めようとした、まさにその時だった。


「イエーイ! アイラブユー!」

「おーい、木崎だよぉー、ピース!」


 研究室の外で奇声を発して騒ぐ輩がいるようだ。

 しばらくして斉藤教授は三人の女子学生に、

「ちょっと待ってて」

 と言ってゼミを一時中断し、注意しようと研究室の入口へ近づいてドアノブに手を掛けた。

 そのタイミングで、こんな言葉が聞こえてきた。


「はい。もうあの斉藤とかいう教授、ホントにムカつきます。最悪です!」


 ――ちっ、私の悪口か、まったく。

 しかし、事態は風雲急を告げる。


「決まりやな! よっしゃあ、今夜ヒデキやろうや~!」


 ――なに?

 教授は反射的にドアノブから手を離した。

それと同時に、先ほどの高崎教授の忠告を思い出した。学生に恨まれている?

斉藤教授は耳をそばだてた。


「なんや、お前まだやったっけ。一緒にどや?」

「あ、いえ、僕まだ……」

「ん、まだヒデキ落としてへんのか?」


 ――ひできをオトす? はあっ?


「……あ、はい」

「大丈夫や、まかしとき! ソフトの入れかた教えたるわっ!」


 ――なっ、ソ、ソフトな入れ方だとぉ?

 斉藤教授の脳裏に、数十年前のおぞましい体験がよみがえる。

 何も知らなかった無垢の学生・斉藤典樹の身に起こったあの悲劇。留学先のサンフランシスコの下宿先で、同室のアメリカ人男子学生がある夜、突然オオカミに変わった悪夢。以来、お尻が反応する言葉を徹底的に排除し続けてきた、今までの人生。

 しかし無情にも、鋭い奇声が教授のナイーブな精神とお尻を急襲する。


「イエ~、ニューカマー、ホリィ~! イエ~イ!」


 ――か、か、かま掘り?

 教授の額から、玉のような汗が噴き出る。その顔は完全に色を失っているようだった。

 と、背中に忘れていた視線を感じて、少しだけ振り返る。ゼミの女子学生三人がそれぞれ手で口元を覆い、狼狽する斉藤教授を険しい眼で見ていた。


「よーし、今夜やったるぞヒデキ~! いてこましたるわ~!」


 ――はうっ!

 とどめを刺す奇声だった。斉藤教授はその声に腰を折られ、開けようとしていたドアに思わず突っ伏す。

 そして、高らかな笑い声とともに、その謎の集団は去っていった。

 教授はそのまま膝から崩れ落ちそうになる。しかし、すぐにその前かがみの姿勢に妙な抵抗感と拒否反応が起こり、腰をびくんとのけ反らせた。

 教授は再び、後ろを振り返った。

 女子学生たちの視線が、とても冷たかった。

「……今日のゼミは、これで終わりにします」

 消え入りそうな声で、斉藤教授は終了を宣言した。

 その後、教授は部屋の外に怯えながらもいたたまれない様子で、女子学生たちの冷たい眼を残し部屋から退出していった。


 なお、斉藤ゼミの女子学生の一人が、この騒動をSNSで拡散。夜に襲われたんじゃないかと噂の立った斉藤教授がその後、陰で「乗り気のひでき先生」ならぬ「掘られのひでき先生」と呼ばれるようになり、教授会でも高崎教授に皮肉られる悲劇は、また別の話である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

危ないことは怪我のうち 朝乃行灯 @in_memory_of_suzukaze

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ