幽けき風鈴の君

熄香(うづか)

幽けき風鈴の君/愛する者へ

 南部鉄器の風鈴に風が撓垂(しなだ)れると細やかな音が処暑の部屋に響いて溶ける。遠くで蝉の声が聞こえる。寝転ぶと井草の匂いが蚊取り線香と共に鼻腔に滲む。薄暗い部屋には嫌味なほどに入道雲と紺碧が眩しかった。

 視線を動かせば大きく育った向日葵達が太陽と見つめあっている。三畳ほどの向日葵畑。おれとは違って立派な葉をのびのびとひろげて、惜しみなく恩恵を全身で受けていた。この向日葵は春に妹である幸子が母と種を埋めていて、如何やら女学校の教師から貰ったらしい。いい歳をして泥をつけて、子供みたくはしゃぐ姿は十数年前の幸子宛(さなが)らであった。毎日水を撒き、時折まだ芽が出ぬと文句を垂れているのはここ最近の日課だった。おれはそれを縁側から眺めていただけに過ぎなかった。

 今日は家にだれもいない。出掛ける気にならない。何故ならば、そこに吊られている風鈴がおれを制しているからだとおもう。去年の今頃、許嫁が病で帰らぬ人となった。名前は小雪だった。この夏と真反対な名前で、黒く艶やかな髪。そして、一つの綿雪がしゅんと溶けるようなわらい方をするのが常である。雪のように静かに見守り、太陽を障子越しに感じるような、緩やかな温かさがあった。おれはそこに惚れていた。何年か前のある夏の日に小雪がくれたのがこの南部鉄器の風鈴だった。紐に吊るされた和紙に、小雪の流水の様な涼やかな文字が書いてある。彼女の存在を証明している唯一のそれは風に煽られて時折くるくると向きを変え、風を受け流していた。鮮やかな想い出の数々。夢だったのではないだろうかと思う日々が、常々影のように纏わりついている。その度にその文字が証明していた。そう、芥川龍之介の蜘蛛の糸の様におれは彼女を求めているのだ。


 南部鉄器の音がまた、水琴鈴のしづかな気配の如く耳に溶け込む。濡れた岩に落ちる青紅葉を思わせる、仄暗さと湿り気を纏った夏がそこにあった。

 「あら、賢太郎さん。お目覚めですか?」

 鈴を転がした声が聞こえてきた。つい、眠ってしまったらしい。気が付けば黄昏時の空にヒグラシの声が虫を連れてきていた。麻の座布団から起き上がると、何処か懐かしい姿が視界を占領していて、その人物は金魚が泳ぐ水団扇をおれに向かってずっと扇いできてくれたようだ。夕涼み着を着たその姿は、紛れもなく小雪の姿だった。

 「お前、なんで」

 「まあ、賢太郎さんたら。まるで幽霊でも見たのかのようですわ。何か夢見が?」

 「いや、そんな筈はない。お前は死んだんじゃ」

 さいごの元気な時の記憶と相変わらぬ姿に、おれは後退りした。水団扇を丁寧に指先で傍に置くと、小雪は薄い紅色の唇を柔らかく弧の字にする。彼女は「私は死んでませんよ。何をおっしゃいますか」と可笑しげにわらう。風鈴を見上げると、幽(かす)かに揺れるだけで音は鳴らない。目の前の小雪には正座をしているが足はあった。匂いも懐かしく感じた。おれは、おれは小雪が死んだ夢をまさかずっと見ていたのか?然し、確かに葬式に出た。確かに出た。それが夢だったのか?あの白い棺桶に献花の中でまるで置物のように静を貫く小雪には、死化粧が施されていた。それを確かに見た。いや、でも……。自信が次第に失われていく。見渡せど庭も家の中も何一つ変わらない。縁側には残り香を漂わせた蚊取り線香入れが佇んでいる。小雪が気を利かせて、茶箪笥の引き戸から新しい蚊取り線香に火をつけた。蛍のような弱々しく淡い火が点く。再び匂いが充満した。

 「賢太郎さん、私はずっと貴方の側にいるではありませんか」

 少しだけ風が吹いた。しかし風鈴は鳴らなかった。そのあいだに、おれは息を少し長めに吐いた。

 「ああそうだな。お前はいつも居たな」

 「悪い夢でもご覧になったのですよ」

 小雪は縁側に降りると、草履を履いて向日葵畑に近づいた。小雪は橙色に変わった大輪に手を添えるとこちらに振り向く。

 「見事な向日葵ですこと。一輪、お飾りくださいな」

 彼女は大きな黒い瞳を細くしてわらう。折柄(おりから)再び風が吹いた。遠くでヒグラシが鳴き続けている。それと共に南部鉄器の風鈴がちょうど良い間隔で断続的に響く。風鈴の音が鳴りやまぬうちに口を開いた。

 「これからも共にいてくれるな?」

 小雪は目を丸くさせた後に穏やかに細めた。

 「——賢太郎さんの幸せが一番ですから」

 すると緩やかに眠気が脳をおそってきた。何故かここで寝ていけない気がしたが、如何しても意識を沈めにくる。反して小雪は眉根を少し寄せて微笑んだ……。


 「兄さん、ここで寝たら駄目よ!」

 聞き慣れた馴染みの声と共に飛び起きた。顔や体に冷たい汗が絣(かすり)の浴衣を濡らしていた。幸子が帰ってきたのだった。醒めきれぬ頭で周りを見渡した。大輪の向日葵畑、炊いたばかりの蚊取り線香。緩やかに尾を揺らす南部鉄器の風鈴はそのままだった。夢か現か。小雪の姿は何処にもなかった。否、夢に違いない。違いないが、この夏の風の温さは確かに小雪だった。重い体を起こすと鎌を手にして縁側に向かった。草履を履いて一輪の向日葵を刈り取った。後ろで幸子が文句を言っていたが、おれにはやるべきことがあるのだった。

 「幸子、花瓶は何処だ。小雪に向日葵を見せたくて」


 緩やかな風が、おれと小雪の間を通って風鈴を鳴らした。どうもその音が、わらったときの小雪を彷彿とさせるのは気の所為か。


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幽けき風鈴の君 熄香(うづか) @RurineAotsuki

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