第25話 なんだかもう、疲れちゃった……
耐えがたい不快感に、そしてその裏に潜む快感に、悲鳴とも嬌声ともつかぬ声を上げてしまう。悠里にしがみついて、白い肌に爪を立てる。
「気持ち良い?」
訊かれて思わず、大きく頭を横に振った。
「気持ちいいでしょ? こんなにエッチな声が出てるんだから」
口の端を歪め、悠里は内蔵を鷲掴みにする。思わず身体をのけぞらせて悲鳴をあげる。腹の中を揉みしだかれるたびに、こらえきれずに声が漏れる。
胃を掴まれたのだろうか。激しい吐き気に襲われて嘔吐する。あまりの苦しさに涙が流れた。鼻からも吐瀉物が溢れ出して息ができない。口中に酸っぱい味が広がる。
以前にも、同じ事を経験した気がして、既視感に身震いする。いつの事だっただろうか、思い出そうとしたのだけれど苦しみと快楽に翻弄されて思考なんて回るはずがなかった。ただ、されるがままに身を任せることしか出来ない。
苦痛と快感に目を閉じて耐えていると、再び内臓を撫でるリズムが変わる。
驚きに目を開けてみれば、美咲が私の体の中を愛撫していた。
肋の下へと差し込まれた美咲の手が肺を圧迫して、息ができなくなってしまう。息苦しさに、更に視界が霞む。痛みなんて無い。身体の内側をまさぐる不快感と快感が在るだけだ。美咲の指先が、私の鼓動を捉える。徐々に私の心臓を包みこんでいく。美咲の手の中で、私の心臓は力強く脈打っている。
美咲が優しい眼差しで私を見詰めている。
美咲を見詰めて、やめてくれと頭を横に振る。
静かに目を閉じると、美咲は私の心臓をゆっくりと握り潰した。
「百瀬! どうした‼︎」
先生が駆け込んで来た時、私はまだ心臓を握り潰される恐怖に悲鳴を上げ続けていた。先生の声に我を取り戻し、慌てて状況を把握する。
カーテンを締め切った生徒会室で、パイプ椅子に座ってタブレットに向かっている。さっきまで会議机に寝そべり、内臓をまさぐられていたはずなのに……。
「どうした! 何があった⁉︎」
先生が詰め寄ってくるけれど、応えることが出来なかった。
深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
「大丈夫。大丈夫ですから……」
私が話をできる状態になるまで、先生は待ってくれた。
そして落ち着きを取り戻した頃合いを見計らって言った。
「頬の所、何か付いてるぞ」
言われて頬の傷痕に指先を伸ばす。
サージカルテープの感触をなぞっていくと、粘着質な感触に行き当たった。
眼前に掲げてみれば、指先が黒い絵の具に汚れていた。
◇
学園祭を翌週に控えた土曜日。美咲と私は学校の屋上に居た。
本来ならば土日は休みなのだけれど、学園祭準備が間に合っていないクラスやクラブは、登校が許されている。慌ただしい一日が終わり、下校前に美咲と落ち合ったという訳だ。
日は既に西に傾き、ひぐらしの声に混じって遠くに虫の音が聞こえる。休みの日にまで学校に出てきて遅くまで残る生徒は少ないようで、既に大半の生徒が下校済みだ。
「九月も終わりだってのに暑いね」
「そうだね。温暖化の影響かな」
柵にもたれかかりながら、他人行儀な会話が続く。学園祭の準備が始まってから、会えない日々が続いていた。もちろんメッセージのやり取りはしているし、週末にはバンドの練習で顔を合わせているけど、二人きりでゆっくりと話をするのは久しぶりだ。
「元気そうで良かった」
「……元気そうに見える?」
「元気はないけど、少し可愛くなったかな」
美咲の指先が、傷痕のあった頬を撫でる。
数日前からサージカルテープを外すようになった。頬の傷痕はもう、目を凝らして見なければ判らないほどに目立たなくなっている。
「茶化さないで。噂、色々と聞いてるんでしょ?」
目を細めながら、美咲が遠くの空を見遣る。
「聞いてるよ。でも噂だろ? 気にする必要なくない?」
「……まぁ、そうなんだけどね」
自嘲気味に微笑んだ。
十日程前、生徒会室に独り残って作業をしていた時、幻覚を見て錯乱した。その噂が学園内に流れたのが始まりだった。
あの日の生徒会室で、悠里が目の前に現れ、美咲が助けに来てくれた。美咲に聞いてみたけど、生徒会室になんか行っていないと言っていた。それではあの後、情を交わしたのは誰だったのか。悠里? 美咲? それとも本当に錯乱していただけ……。
その後も学園で悠里を見かけることが何度もあった。追いかけてみたり、呼びかけてみたりしたのだけれど、すぐに消えてしまったり、振り返れば別の人だったり……。
そんな事を繰り返している内に「生徒会長が元カノの霊に憑かれている」などという噂が流れ始めた。
悠里にまつわる私の言動を振り返ってみれば、噂の元になっているのは身に憶えのある行動だと言わざるを得ない。けれども悪意に満ちた誇張が、私を追い詰めていく。私は美術室で暴れて絵画を斬り裂いてないし、私は保健室で高橋先生を殴ってないし、私は生徒会室で自分を慰めたりしていない。これだけ根も葉も無い噂がまことしやかに流れると、噂の方が正しいんじゃないかという気持ちにすらなってくる。
頬に傷を負った事件や自殺未遂と、既に大きな噂のネタをいくつも抱えている。そこに一つや二つのネタが増えたところで、今更大したダメージではない。とは言うものの、そこまで達観してなお好奇の視線に晒されることはストレスでしかない。誰を信じれば良いのかすら、解らなくなってしまった。唯一、無条件に信じる事ができるのは美咲だけだ。
「なんだかもう、疲れちゃった……」
「だから、気にすんなって」
「噂は良いんだけどね、悠里がね……」
「それだって、綾乃しか見てないんだろ?」
そんな、悠里なんて居ないみたいな言い方をしてほしくない。彼女は確かに居たし、私の彼女だったし、今でも私の前に姿を現し続けている。
「私にしか見えないのはね、きっと皆が見ようとしてないからだと思うんだ」
「……疲れてるんだよ。学園祭の準備、頑張りすぎだって」
「もう一週間を切ったからね。やり切ってみせるよ……」
その言葉に、美咲は肩をすくめて見せた。
「もうすぐここに、ステージが組み上がるって?」
屋上に運び込まれたばかりの、鉄パイプやクランプの山を見て美咲が言った。
「そうだよ。美咲と私が歌うステージだからね!」
「前夜祭では使わないんだっけ?」
「そうだね。中庭のメインステージしか使わないかな」
「じゃ、屋上に忍び込んで、ゲリラライブでも演るかい?」
悪戯っ子のように美咲が笑う。
「駄目だよ。また変な噂が増えちゃう……」
「勲章みたいなもんだろ。増やしとけ、増やしとけ」
美咲と話していると、やっぱり安心する。小さなことで悩み続けていたのが、馬鹿みたいに思える。夕陽に照らされる美咲の横顔を見ていると、たまらなくなって彼女に縋り付いた。
「どうした? 甘えたさん?」
「違うし。来て、膝枕してあげる」
「して欲しい、じゃなくて?」
「今日は私がしてあげる」
屋上に備え付けられたベンチに座ると、木製の座面が日中に蓄えた熱がスカート越しに伝わってきた。
「なんか温くねぇ?」
ベンチに横たわって美咲が言った。
彼女の頭を膝の上に導いて髪を撫でる。髪を掻き上げるようにして、襟足に指を這わせる。美咲のウルフカットの内側は刈り込まれていて、指先を這わせるとまるで砂を撫でているようで気持ちが良い。
「好きだね、そこ触るの」
「うん、なんか癖になる心地よさ……」
例えば二人で抱き合った時、背中に回した私の腕の先は彼女の首筋に在り、指先はいつも襟足を撫でている。最初の頃はくすぐったいと言って嫌がっていたけど、最近では諦めたのかされるがままだ。
心地の良い時間が流れる。
こんな風に、美咲と二人の時間を過ごすだけで、私は満ち足りるのだ。要らない物が多すぎる。好奇の視線、過度な期待、心無い噂話……私に勝手にラベルを貼らないで欲しい。私の価値を勝手に値踏みしないで欲しい。
要らない物を全部脱ぎ捨てられたら、どんなに楽だろうか。美咲と二人きりのこの瞬間だけが永遠に続けば、どんなに素敵だろうか。
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