夜鳴き蝉

白銀隼斗

一話

 からんっと氷が鳴く。

「なんやそれ」

 カーテンレールに取り付けた風鈴が、りんりんと激しく鳴く。

「お前、夜更かしするくせに聞いたことないんか」

 垂れ流しにされた番組が盛り上がり、テレビが笑い鳴く。

「聞いたことない」

「一度もか」

「うん。大体、」

 よいしょと立ち上がる。窓際に近づくと暴れ回る風鈴を掴んだ。りりりんっと最後の音が余韻として残る。

「お前のそーゆー話、信ぴょう性ないし」

 そのままカーテンレールから風鈴を外し、強くなってきた風を遮断するように窓を少し閉めた。


 神戸市垂水区。明石海峡大橋の下を通る船を見つめる。

 浜風が水面を撫で、自分の肌も撫でていく。

「はあ」

 肩をおろし、ややあって海から眼を離した。然しその時、一瞬だが強く海が光った気がした。

 ばっと振り向く。何も変わらず、ただ薄曇りの紫外線を受け、きらきらと鈍く光っているだけだ。

「……うーん」

 ごしごしと雑に眼を擦り、駅に向かって歩き出した。夜更かしも程々にしないとダメか……そう欠伸を噛み殺した。

 JRで舞子駅から垂水駅に帰り、コープこうべで適当な惣菜やパンを購入する。最近気に入っているオレンジ味の炭酸水も袋に入れつつ、帰ったら何をしようか考えた。

「あの、山本さん、ですか?」

 不意に声をかけられ、右を見た。そこには同じぐらいの年頃の、大人しそうな女性がいた。

「え、あ、ハイ。山本、ですけど……」

 女の人が自分になんの用だろう……ドギマギしつつも肯くと、彼女はぱっと笑顔になった。可愛らしい人だ。

「よかったあ! あ、あの、高校の別クラスの藤咲 愛美ってゆうんですけど……」

 藤咲は顎に人差し指を当てながら、窺うように自己紹介をした。山本が自分を記憶してくれている、そう信じている眼差しだ。

 山本は少し思い出を巡らせたあと、ああと声を漏らした。

「新学期の時にスマホ落としたーって走り回っとった子!」

 それに藤咲は照れながら、軽く頭をさげた。

「はずかしい……けどあん時はホンマに助かりました! ウチのスマホ、ワガママゆうてハイエンドの買うてもらったんで、なくしたらなに言われるか……」

「ああそりゃ、焦るわな。同学年やろ、タメ語でいこ」

 袋を手に藤咲と歩き出す。さんさんと降り注ぐ太陽光に汗が滲む。

「あの、武蔵くんって趣味とかは……」

 横断歩道の信号が赤く灯り、二人の足を止めた。

「趣味、趣味かあ。これといってないんよなあ。強いて言うなら、絵描くことかな」

 車が行き交う。バイクのエンジン音がよく聞こえた。

「へえ! 立派な趣味やん! どんなん描くん?」

 ややあって車側の信号機が切り替わり、青になった。許された二人は足を出し、タイヤで削られた白線の上をゆく。

「どんなん……んー、実際に見てもらう方が分かりやすいかもしれん。俺んちすぐそこやから」

 反対側まで来ると足を止めて振り返った。だがそこでアッと声を漏らす。ほぼ初対面の女性を招くのは如何なものか……。

 そう思ったものの、彼女の反応は好意的だった。

「いきたい! 武蔵くんの絵、むっちゃ気になる!」

 眼を輝かせて誘いに乗る。ふわっと艶やかな黒髪が広がった。

 山本は想像以上の感触に驚きつつ、心の内側が熱くなるのを感じた。じわっと背中に汗が出てくるものの、不思議と不快感はなかった。

 道中、彼女と色々な事を話した。得意な科目はなにか、兄弟はいるのか、最近ハマっていることはなにか。他愛のないことだが、短時間で彼女の事をよく知れた気がした。

 少し入ったところにあるアパートの二階、そこが山本の家だった。

「汚くてホンマごめん」

 まさか女の子を家にあげるとは思わず、山本は進みながら足で隅に寄せたり、急いでテーブルの上を片付けたりした。

「ぜんぜん、汚くないよ」

 藤咲はざっと部屋中を見回した。男子高校生の一人暮らしにしては綺麗に整理整頓されており、普段から気をつけているのが見て取れた。

「そ、そおかなあ」

 ヘラヘラと笑いながら後頭部をぽりぽりと掻く。あからさまに有頂天な様子に彼女はくすくすと笑った。

 山本は無口な父親に育てられた。母親は幼い頃に他界しており、記憶は朧気だ。だが母親は生前よくアクリル画を描いていたらしく、遺品には多くの絵の具や筆があった。

 父親はいつか武蔵も筆を触る時が来るだろうと思い大切に保管し、彼が小学生になった頃にそれらを見せた。

「最初はホンマに下手くそやった」

 だが何度も描き続け、中学では美術部に入った。

「けどそのあとすぐに父ちゃんが病気で倒れてもうてな」

 余命は一年と少し、そう宣告された。まだ中学一年生だった彼は父親の弟夫婦に引き取られることになり、それまでの時間は父親と過ごした。

 段々弱っていく姿に耐えられず、ストレスで嘔吐した事もあった。然し父親に成長した自分を見せてやりたい……そう筆をとった彼は父親の肖像画を描いた。

 無口で滅多に笑わない父の横顔は、知らない人が見れば不機嫌な初老だと思うだろう。だが眼差しは優しく、息子を想う光があった。

「父ちゃんは絵を見た時に沢山褒めてくれた。けど翌日には……」

 余命より幾らか早く、魂は身体から離れてしまった。ただ息子の描いた肖像画を抱えたままだった。

「特別に絵をそのまんま、抱いてる形にして棺桶に入れてもらってな。多分父ちゃんはあの後母ちゃんと再会して、絵を自慢しとると思う」

 山本はそう言ってはにかんだあと、慌てて「ごめん! こんな重い話!」と背筋を伸ばした。それに藤咲はぶんぶんとかぶりを振り、潤んだ眼で彼を見た。

「すごい素敵な話」

 彼女の大きな眼からぽろりと涙がこぼれ落ちる。山本ははじめての感覚にドギマギしながら、ティッシュケースをそのまま渡した。

「エヘヘ、大号泣しとるみたい」

 笑いながら鼻を啜る藤咲に、「あっ、せやんね! ごめん!」とまた謝る。

「キミは優しいんやね。謝らんでええんよ」

 ふっと微笑みを向ける。可愛らしいそれに山本は顔を赤くし、クーラーをつけているというのに汗が滲んだ。

 彼のアトリエは狭い洋間の中にあった。丸椅子と適当な机。画材や資料を保管する為の棚。そして大量のキャンバスで余計狭く感じた。

「すごい……」

 藤咲は想像以上だったのか、眼を丸くして天井まで見渡した。

 山本の絵は薄暗く、黒の背景にぽつんと何かが描かれているものが多かった。だがそのなかにも風景画や明るいタッチのものもあり、人物画もチラホラとある。

 何枚か視線が行く。然しふっと真っ先に惹かれたのは、机の脚にもたれかかった縦長の絵だった。

「これ」

 指をさす。山本はそちらに視線をやり、「ああこれね」とキャンバスを持ち上げた。

 そこに描かれていたのは、黒い背景に浮かぶ一匹の蝉。ほんのりと背景が滲んでいるように、黒い霧が蝉にかかっていた。

「なんで蝉やねんって思ったでしょ」

 自虐的に笑う。

「前に友達が変な話しよってさ、それがなんでか知らんけど頭から離れんくって……」

 その日のうちにざっと描いてしまった。どうしてこんな絵を描いてしまったのか、山本は自身でも不思議だった。

 ただ少なくともこの絵はいつか処分するものだというのは分かった。また机の脚に立てかける。

「でも、いい絵やと思う」

 作者自身の評価に反し、彼女は高評価を押した。えっと振り向く。その表情は真面目だった。

「もうちょっとちっちゃかったら、ウチ買うてたかも」

 山本はいやいやとかぶりを振る。

「黒背景に蝉やで? それに、買うって……」

 不思議な子だ。然し藤咲は終始真面目だった。

「シンプルで分かりやすい。武蔵くん、もっと自信もってええよ」

 ふっと視線が上がり、どきりとした。心臓がきゅっと掴まれたような感覚だ。

「そ、そおかなあ……」

 ぽりぽりとこめかみを掻く。蝉の絵を見下し、彼女にそう言われるのならそうなのかも知れない……と少し思った。

「んで、変な話って? この絵を描く事になったキッカケの」

 現実に引き戻されたような不思議な感覚に、「ああ」と息を漏らしつつ話した。

「真夜中、みんなが寝静まっとる時に蝉の鳴き声が聞こえてくるってゆう話。まあそれ自体は変な話ちゃうんやけど、その蝉の声を聞いた人間は平行世界を知る事になるってゆう……飛ばされるとかじゃなくて? って訊いたら違うって言われてさ。変な話やろ?」

 大体そういう話のオチは異世界に飛ばされたりして、神隠しに遭うのが定番だ。だが蝉の話はあくまでも「平行世界を知る」というだけ、それ以上はないと友人は豪語した。

「なんやそれって感じやろ。Twitterかどっかの嘘をまた仕入れてきたんやろなあって」

 山本は薄く笑いながら言った。

「確かに、変な話やね。それによくそんな事知っとるね」

 藤咲は静かに言った。

「ホンマにな。なんかマイナーな都市伝説系のYouTuberでも見とるんちゃうかな」

「ふうん……でもオモロい話やね。その友達って、武蔵くんと同じクラス?」

「うん。佐々木 信夫ってゆう奴」

 山本の答えに合点がいった。

「あのいつも騒がしい人か」

 くすくすと肩を揺らす。

「あははー、巻き込まれる側はたまったもんじゃないんやけどねー」

 苦笑いを浮かべる。

「ふうん、あの人、そんな名前なんや。今度話しかけてみよっかなあ」

「ええんちゃう。アイツ、友達はおればおるほどええと思っとるから」

 山本はそう言いながらリビングに戻る。その背中を見たあと、蝉の絵に視線を落とした。

「……山本 武蔵と佐々木 信夫」

 ぼそりと呟きながら見つめる。一瞬彼女の瞳孔が歪んだが、彼の呼び声にすぐに戻った。

 藤咲はその後もよく連絡をくれ、遊びに来た。山本の家でモデルをしたり、三宮のセンター街でショッピングを楽しんだり、メリケンパークのポートタワーやポートアイランドのどうぶつ王国など、定番の観光地や施設を楽しんだ。

 ただただのぼせるように暑かった夏休みが、彼女のおかげで涼しく感じた。

「ねえ武蔵くん」

 アイスクリームを片手に神戸港の海を眺める。

「ん?」

 磯の匂いがよく漂ってきた。

「ウチ、もっと武蔵くんの絵見てたい」

 すっとベンチに置いてある手に感触が走った。驚いて見ると彼女の柔らかい手が重なっていた。

「えっ、と」

 眼を丸くして見つめる。焼けた肌に垂れた大きな眼と長いまつ毛。さらさらと風に揺れる髪はハーフアップにされており、ノースリーブのワンピースからは程よく肉のついた二の腕が見えた。

 そして僅かに見える脇とその下の僅かな曲線に意識が向く。

「武蔵くん、溶けてまうよ」

 くすくすと笑って指摘すると、山本は慌ててアイスクリームに意識を戻した。既にコーンの上で溶け始めており、白く滲んでいる。

「あわわわ」

 慌てた結果大口でアイスクリームを頬張り、そのままの勢いでコーンまで食べ尽くした。そして藤咲に向き直り、もぐもぐさせながら気持ちを返した。

「ぼくのほおこほ」

 然しコーンでいっぱいの彼の言葉はほごほごとしており、藤咲はけたけたと肩を揺らして「アホやなあ」と軽く叩いた。山本はえへへと笑いつつ飲み込む。

「えっと、愛美ちゃん、改めて、」

 彼女に向き直り、背筋を伸ばした。

 そうして山本が自分の想いを伝えた日の三日前。いつもより暑く、湿度も高く過ごしにくい日だった。

 暑すぎると蝉は鳴かなくなる、その話を聞いた通り、喧しい鳴き声は響いていなかった。ただ大きな入道雲が宇宙を求めた結果、地球のバリアに阻まれ押しつぶされ、広がっていくのが見えるだけだった。

 佐々木からLINEがあったのは十三時半。遅めの昼食を食べ終えた頃だった。

 内容は都市伝説系の話。とりあえず聞いてくれるのと、小学生からの付き合いという事もあり、仕入れた新ネタは真っ先に披露してくる。鬱陶しいと感じる時もあるが、なんだかんだで佐々木の話はいつも面白い。

 今度は定番のUFOにまつわる話だった。アメリカ軍がUFOの残骸を見つけただとか、フランスの方でキャトルミューティレーションされている牛が目撃されただとか……そんな感じの話ばかりだった。

『ところでお前、相変わらず夜の蝉は聞いてないんか』

 一通り話し終えたあと、そうメッセージが来た。

『聞いてない』

『えー、つまらんなあ。平行世界の話聞きたいのに』

『ならお前が頑張って夜更かしかオールでもして聞けばええやん』

 佐々木からは怒ったようなスタンプが返され、少し笑った。

『お前絵描いてるし、平行世界知ったらいいもん描けそう』

 ふっと送られてきたその文章に眉毛をあげる。画面から眼を離し、窓の外にやった。

 隣の建物から伸びるように入道雲が生えており、先程よりもてっぺんが薄く引き伸ばされていた。

「たしかになあ」

 だがそんな簡単に異界を知れるなら、プロの芸術家達がとっくに試しているはずだ。山本は鼻から息を吐き、ややあって画面に視線を戻した。

 その日の海も、相変わらずだった。根元から淡路島へ一直線に続く大橋の真下で、山本は海のきらめきと行き交う船を見つめた。

 わざわざ舞子駅に行かずとも海は見られる。だがこの大橋の足元が好きだ。程よい圧迫感が胸中を鎮めてくれる。

 欠伸を噛み殺し、腕時計を見た。そろそろ帰るか、そう海に背中を向けた。

 山本が駅に向かって歩き出した時、大橋の影が落ちているところに一瞬、人影のようなものが見えた。然しすぐに掻き消え、浜風と共に流れていった。

 夜中の二時頃、彼はうーんと唸っていた。寝汗をかき、苦しそうに顔をしかめている。

 そうして夢から弾き出されたのか、ふっと眼が覚めた。見慣れた天井にはあと息を吐く。身体中から緊張の糸が抜けていった。

 安心したのか眠気がすぐに襲ってくる。ぼやぼやとする頭に瞼を閉じた。


みーんみんみんみんみん―――――


 僅かに聞こえてくるのは、蝉の声か。だが彼は半分夢の中にいた。現実だとは思わず、そのまま夢へと転落していった。


みーーーーんみんみんみんみん―――――――


 山本が眠っている部屋の窓枠に、一匹のミンミンゼミが張り付いていた。パッと見は普通のミンミンゼミと変わらない。然しその蝉は一切動かず、まるで玩具のように同じ音を繰り返した。

 時は戻り、彼が藤咲に想いを伝えた日、人生ではじめてのキスを経験した。場所は彼の家、窓の外にはまた、宇宙を目指して押しつぶされた入道雲が広がっていた。

 暖かく、柔らかく、甘い味がする。身体が火照って仕方がない。

 鼻先が触れ合うほどの至近距離で見つめ合う。彼女の眼はよく見ると不思議な形をしていた。

「綺麗だね」

 山本はそう言って、彼女の眼球に直接触れた。

「うれしい」

 彼女は笑う。触られている方の眼は開いたままだ。

 入道雲は潰れておらず、もくもくと膨れ上がった頭は霞みがかっていた。無事に念願の宇宙へと身体を伸ばせたようだ。

 街は静かだった。ただ蝉の声が聞こえ、木々のざわめく音が響くだけだ。

「君は知れたね」

 時計の針は左回りに回転し続け、熱湯は沸騰しながら水になり、ひっくり返った蝉は永遠と鳴き続けた。

「うん。愛美ちゃんのおかげだよ」

 海には波が立たず、船は水面の裏に浮き、大橋は蛇のように波打った。

「きちんと寝なければいけないよ」

 寝室の窓辺には一匹のミンミンゼミが張り付いていた。

「でないと壊れてしまうからね」

 然しミンミンゼミは鳴く事もせず、そのままの状態で後ろに倒れた。ぽとりと灰色の地面の上に落ち、ひっくり返ったまま微動だにせず、ただただ宇宙へ伸びていく入道雲を見つめた。




 山本 武蔵が行方不明になってから一週間が経過した。同時に藤咲 愛美という少女も行方が分からなくなっており、何人かの友達が手製のチラシを配った事もあった。

 彼の家には貴重品の類も全て置かれてあり、靴も全て揃っていた。だが鍵はかかっていた。

 まるで家の中で姿だけが消えたかのように、不自然な状態だった。

「武蔵……」

 佐々木は何か見落としているものがあるのではと、再度彼の住むアパートにやってきた。既に合鍵は持っている。キーホルダーのついた鍵を差し込み、中に入った。

 あの日から何も変わっていない。ただ埃がほんのり積もっており、陰鬱な空気が漂っていた。

 一先ず鞄を置き、換気の為にカーテンを開けた。入道雲が成長を繰り返し、また頭を横に伸ばしていた。

 窓を開けて湿気のこもった風を通す。寝室に行き、同じようにした。

「ん?」

 然し窓枠に茶色い何かがくっついていた。よくよく見るとそれは蝉の抜け殻だった。背中の部分に突き破ったあとがあり、光が入り込んで薄茶色に見えた。

「なんでこんなとこに……」

 彼が蝉の抜け殻を拾ってきてここにくっつけたのだろうか……虫捕りもした事がなさそうな男がやるとは思えず、それに最初から蝉がここを選んだようにかぎ爪が引っかかっていた。人為的に後から引っかける事は至難の業だ。

 抜け殻の近くには大抵穴が空いている。だがそれは地面が土の場合に限る。ありもしないのに佐々木は床を見た。

 なんの変哲もない、少年時代によくお世話になった抜け殻が、今や気味の悪いなにかに見えた。顔にシワを刻んだまま、佐々木は数歩さがった。それから逃避するように眼を逸らし、何かないか調査を始めた。

 結果として抜け殻以外の変化もなく、突然消息不明になった理由となるものも見つからなかった。ただ、一つだけ抜け殻同様に気味が悪いと思ったものがある。それは例の蝉の絵だ。

「……気色悪い」

 山本の絵をこう評価したのは初めてだった。佐々木ははっと口元に手をやって、「なにゆーてんねん俺……」と後悔を呟いた。

 だが何度見ても蝉の絵は気味が悪い。どうしてこんな感想を抱くのか、彼には解らなかった。というより、解りたくもなかった。

「……かえろ」

 若干震えた声で荷物を纏めると、佐々木はどすどすと足早に玄関に行った。スニーカーを慌てて引っかけたせいで、片方は踵を踏んでしまっていた。

 外に飛び出すと汗ばむ熱気が出迎えてくれた。鍵を出し、差し込む。がちゃん。

 佐々木は表札を見た。見慣れた苗字に冷や汗が伝う。

 彼は、武蔵は、もしかしたら、平行世界を知ってしまったのかもしれない………。

 いや、自分が聞いた話では、平行世界を“知る”だけだったはずだ。どこかに行ってしまう、所謂神隠しの類ではないはずだ。

 佐々木は心臓の鼓動を聞きながら足早にその場を立ち去り、気づいた時には走っていた。そのまま自宅に帰り、母親の「おかえりー」という言葉を無視して二階に上がった。

「ちょっとアンタあ! ただいまぐらいゆわんかあ!」

 下から響いてくる叱責の声は耳に入らず、鞄を投げ出すと座りもせずにノートパソコンを付けた。

「蝉……夜……平行世界……」

 かたかたと必死に打ち込み、検索をかける。

「あった」

 よく見ている都市伝説系のサイトがヒットし、ページを開いた。夜に鳴く蝉、“夜鳴き蝉”に関する研究と題した記事だ。

 文字を読み進めながら、小さく「そうやんな」と呟く。夜鳴き蝉は平行世界を知るだけであり、都市伝説としての脅威はそこまでではない。

 勿論、記事にはそう書かれてあった。佐々木は一旦安堵のため息を吐いた。

 然し、続きがあった。ページの下の方に赤い文字があり、【注意すべき事】とあった。それを見つけた彼は再び鼓動の音を聴いた。

 リンクが埋め込まれているらしく、カーソルを合わせると色が変わった。唾を飲み込み、クリックする。

 すると限定公開に設定されている別記事に飛んだ。

「夜鳴き蝉の、本当の、凶暴性……?」

 タイトルを読み上げたあと、ゆっくりと文字を追った。つらつらと不安を煽るような文章が続き、どくんどくんと鼓動が近くで鳴る。

 そして強調された一文を眼にした。


【夜鳴き蝉の話を聞いたあとに蝉をモチーフにした絵やアクセサリー等を作る、もしくは蝉をモチーフにした物を購入した者は、夜鳴き蝉に気に入られる。】


 はっと大きく息を吸い込んだ。

「ノブ!!!」

 その時、ばしんっと頭を引っぱたかれ現実に引き戻された。振り向くと般若の顔をした母親がいた。

「さっきから呼んどんのに! シカトしよって!!! そんなに母ちゃん蔑ろにするんやったら今晩のご飯減らすで!!」

 ふんっと鼻を鳴らす母に、佐々木は「ああ、うん」と気のない返事をした。息子の様子に眉毛をあげ、組んでいた腕を解く。

「……武蔵くんのことが、心配なんか」

 それに肯き、視線をやった。

「もしかしたら、俺のせいかもしれんくって……」

 安易に話したから、感受性の高い彼は絵を描いてしまったのかもしれない。もっとちゃんと記事を読んでいれば、こうはならなかったかもしれない。

 そもそも、都市伝説やオカルトなんかに安易に触れ回っていたのが…………。

「俺が、あいつを」

 視界が歪み、大粒の涙がぽろぽろと零れ出した。母は驚きつつもティッシュを取り、「どないしたんや……」と優しく背中をさすった。

「おれが」

 佐々木は溢れ出してくる涙と共に、山本のアトリエで見た気味の悪い蝉の絵を何度も思い出した。


【夜鳴き蝉】

 八十年代頃から都市伝説として広まり、口裂け女やトイレの花子さん程ではないが知る人ぞ知る怪異の一つ。本来昼行性である蝉が真夜中に鳴き、それを聞いた者に平行世界を夢という形で教える。

 全く害はなく、また平行世界を知る事ができるということで、【夜鳴き蝉の呼び方】が考案された。その方法に則ってやれば自由に聞く事ができ、平行世界を散歩できる。

 自分の寝ている場所の近くにミンミンゼミかアブラゼミが羽化していれば、彼らがやって来た証拠である、そう言ってらしき画像やGIFがアップされる程だった。

 然し、全く同じ名前と性質を持った存在がもう一つある。


【夜無き蝉】


 そう、平安時代後期の文献の一つに書き残されているものがある。夜鳴き蝉の前身であり、ここから漢字が変更され今の姿になったのでは、という説が有力視されている。

 だが実際は【夜鳴き蝉】と【夜無き蝉】は別の存在である。前者は人工の明かりが増えたことにより出現した怪異であり、後者は蝉という姿かたちをとっているだけの別の“なにか”だ。

 そしてその“なにか”は人間、特に若い人間を取り込み精力を奪って腹を満たしている。明かりもない真夜中の都で蝉の声を聞いた者が、次の日には神隠しに遭ったという報告が数件、文献に残されている。

 明るい時に鳴くはずの蝉が夜に鳴く。彼らには夜が存在しない。そのため、【夜無き蝉】と名付けられた。

 然し名を付けたのは逆効果だった。誰かが神隠しに遭った時に「夜無き蝉の仕業か?」と誰かが呟けば、知らない誰かが「それはなんだ」と問う。

「知らないのか。夜無き蝉というのはな……」

 彼ら“なにか”は認知された時、彼ら側も人間を認知する。そうして蜘蛛の巣のように張り巡らせた認知のなかから、若く精力に溢れた人間を探す。

 目星をつけた人間に“なにか”は念を送る。こちらを更に認知できるように、脳に“なにか”をこびりつかせる為に。

 話を聞いた若い人間は後日、蝉という単語を使った和歌を詠んだ。その後、神隠しに遭った。

 夜鳴き蝉が現れてから、インターネットの普及もあり無きではなく鳴きと明記されるようになった。文字を見て書くだけでも認知されていた彼らの巣は規模が小さくなり、また夜鳴き蝉の善性に圧されていた。

 餌が少ない。腹が減る。腹が減ってしようがない…………。

 腹を満たさねばならぬ。腹を満たさねばしようがない。

 彼らは空いた腹の音と夜鳴き蝉への怒りや怨みに苛まれ、一人、十代後半の女子を肉体ごと食った。最初は拒絶反応やら何やらで大変だったが、彼女の身体は彼らに馴染んでいった。

 彼ら“なにか”は蝉の姿かたちを真似していただけの存在だ。それに人間の身体が入り込めば、後は単純である。

「武蔵くん」

「ん?」

「お腹が空いた」

「そうだね。じゃあ、僕の右腕をあげるよ」

 宇宙の果てまで伸びた入道雲。地面を転げ回る蝉。川は下流から上流へ流れていき、海峡大橋は海の底へと沈んだ。

 藤咲 愛美の瞳孔が蛇のように細くなり白眼を剥き、口が大きく開かれた。裂ける程に大きく開かれた口の奥から、真っ黒い“なにか”が顔を覗かせた。


 夏休みが終わり、新学期がスタートした。佐々木は窓際に置かれた花瓶を見つめた。

 結局、山本 武蔵は帰って来なかった。既に両親すらいない彼を必死に捜してくれる大人は、近くにはいない。

 掲示板に貼り出されたポスターも汚れ、一部が外れて風に靡いていた。

「ねー! 佐々木ー!」

 女子の甲高い声にびくっと震え、廊下のある方に振り向く。

「別クラスの子が呼んどるよー」

 クラスメイトの女子生徒がそう言い、廊下に出る。

「ガールフレンド待たせんなー!」

 ニヤニヤとそれだけ大声で言うと彼女らは去って行った。残された別クラスの女子生徒は佐々木に微笑みかけ、口を開いた。







 開かれた口は真っ黒く、だが何かを求めるような、見慣れた手が一瞬見えた。


きがした。


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夜鳴き蝉 白銀隼斗 @nekomaru16

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