体育館で、きみの傷跡を舐めた話

月待ルフラン【第1回Nola原作大賞】

プロローグ『砕け散るガラスの音』

第1話

冷たい指先が、私の膝に残る手術の痕をなぞる。

それは慰めるための優しさではなく、未知の地形を確かめる測量士のような、正確で、無慈悲なほどの探求心に満ちた感触だった。鼻腔をくすぐるのは、油彩とテレピン油の、鋭く乾いた香り。

――私の痛みを、暴く匂い。


不意に、反対側の肩に馴染んだ重みと熱が加わる。

子供の頃からずっと隣にあった、私を私だと記憶している温もり。私たちが中学の頃からずっと使い続けている、甘いシャンプーの香りがした。

――私の過去を、閉じ込める香り。


私の傷を美と呼ぶ視線。

私の傷ごと包み込もうとする腕。

暴こうとする指先と、守ろうとする手のひらの間で、私の身体は呼吸の仕方を忘れていく。


息が止まりそうな、その瞬間、私は目を覚ます。


「……っ」


吸い込んだ空気には、何の匂いもなかった。

絵の具の鋭さも、シャンプーの甘さも、夢の中の濃密な気配が嘘だったかのような、完璧な無臭。耳を澄ましても、遠くで微かに響く冷蔵庫のモーター音以外、何も聞こえない。


それが、今の私の世界のすべてだった。

この無音と無臭の部屋が、私の現実。


三ヶ月前、私はすべてを失った。



耳を劈くような歓声。ボールが床を叩く音。肌を焼くライトの熱。

インターハイ予選決勝、マッチポイント。私の前には、完璧なトスが上がっていた。チームメイトの、観客の、そして瑠璃子の期待を一身に背負って、私は人生で最も高く跳んだ。


視界がスローモーションになる。

ボールの白い革が、私の掌に吸い付く。全身のバネを叩きつけ、相手コートのど真ん中に叩き込む――はずだった。


着地の瞬間、視界の端で何かが崩れた。バランスを崩した相手選手の身体が、なだれ込んでくる。避けられない。私の左膝が、有り得ない方向に捻じ曲がるのが見えた。


ゴキリ、と鈍い音が体育館の熱狂を喰い尽くした。


痛みはなかった。ただ、すべてが遠ざかっていく。薄れていく意識の中、瑠璃子の絶叫だけがやけに鮮明に鼓膜を震わせた。


それが、私の世界の終わりの音だった。



自宅のベッドで目覚める。 色彩のない世界。

窓の外は晴れているらしいのに、私の目に映る空は、薄汚れたコンクリートみたいな灰色をしている。


ゆっくりと身体を起こし、ベッドの脇に置かれた車椅子に目をやる。三ヶ月前までの私なら、もうとっくに朝練で汗を流している時間だ。今は、このベッドから数メートル先のトイレに行くことすら、一つの決意を要する。


車椅子に移る。軋むキャスターの音。自分の身長が、世界の重心が、三十センチ以上も低くなってしまった。 見上げることに慣れてしまった視線は、どこまでも頼りない。


リビングへ向かうと、母が「おはよう、凛」と声をかけてくれる。その声には、痛々しいほどの気遣いが滲んでいる。私は何も答えず、テーブルについた。


これが私の日常。

これが私の、世界のすべてだった。

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