20. アレキシサイミアの存在証明
二人の会話は聞き取れなかった。おおかた今までサボっていたツケを上司に叱れているとばかり。
気のせいだろうか。なんだかこう、いつもの賑やかなアキハでも屋上で出会った天使でもない雰囲気を纏っていた。きっと久しぶりに仲間と会って感化されたのかもしれない。
「一足先にってことは帰るんだ。天界に」
「アキハ」はもう卒業。天界に帰って一人の天使に戻る時がきた。この違和感はアキハの決意の表れだった。
次の会話に進むまでどれだけ風が吹いただろう。初夏の風がびゅうびゅうとテラス席のパラソルを靡かせる。そう急かさないでほしい。わたしにだって会話のテンポがあるんだ。言葉選びだって気をつけないといけない。天使との最後の時間なら殊更、この間合いも堪能したい。
過ぎ去る季節。現実は瞬く間に移りゆく。この世に永遠はない。出会いも別れも必然なのだ。それが世界の摂理なのにどうしてか、これからもずっとそばにいてくれると思ってた。
天界に帰ることは常に頭に入れていた。それなのにいざ現実になると胸に込み上げるナニカがあった。その名前をわたしは知らない。
「あ、そういえばコレ返す」
デッキケースを差し出される。一度は受け取ろうと手を伸ばすも、それはもうわたしには不要だ。
「アキハにあげる。大切にしてね」
「……ありがと」
気取られないように顔を背けてしまった。現実だって遊戯だって弱みを見せたらそれが最後。これ以上、自分の振る舞いと感情が矛盾しているところを見られたくない。
「葵の大切なものをタダで受け取るわけにはいかないね。うん、ここは一肌脱いだげる——きみの望みを一つだけ叶えてあげよう。本当なら三つが様式美らしいけど、あとでボクがこっぴどく叱られちゃうから一つだけ」
「どの程度の望みさ」
「なんでも、さ」
急にいわれても困る。神の力の一端を担う天使なら森羅万象に触れられても不思議ではない。神の御使いが望みを叶えてくれる寓話なんてありきたりだ。だからさして驚きはなかった。
わたしは思案する。「ずっとそばにいてほしい」と答えれば従ってくれるかもしれない。でもわたしは人間でアキハは天使。天界の住民ともあろう存在が楽園を追放された人間につきそうなんて、アキハが良くても天界が絶対に許さない。そもそも家出中だろうが仕事を放棄していいわけが……ない。
——思えば道端の小石程度の違和感は最初からあった。
ふかく、深く息を吸う。吸って、吸って、思い切り息を吐く。
一旦落ち着こう。焦れば仕損じるだけ。この違和感は本物なのだから自ずと正体は見えてくるはずだ。
「葵? 大丈夫?」
アキハの髪が風に靡いて空に溶けていく。いずれこの思い出も泡沫の時間となるのかもしれない。
またいつか、いつの日かわたしが自分の言葉で感情を伝えられるようになった暁には、もう一度アキハとの思い出を振り返りたい。そんな時にこの不快感もついてくるなんて面倒だ。
最後にもう一度息を吸って脳に空気を注ぎ込む。決して質がいいものではないけれど、この混沌とした空気が一番の活力になる。
地上での振る舞いは自由そのもの。それに比べて会場に駆けつけてくれた天使たちはどうだったか。洗練された統率はアキハと正反対じゃないか。わたしにはあの群れの中にアキハがいる光景を想像できない。逆にあの天使たちがわたしの部屋のベッドの上で怠惰を貪っている姿も想像できない。この二つの差はなんなんだ。
鶏が先か卵が先か。本能に怠惰が刻まれていたのか、それとも怠惰を覚えたのか。
面倒くさがりの権化が断言しよう。あのぐうたらぶりは付け焼き刃ではない。認めたくはないけれど休日のわたしと瓜二つだ。
ま、でも似ているところがあっても当然かもしれない。元を辿れば天使も人間も……あ! そういうことか。全部繋がった。
『一見関係ないと思える話も丁寧に繋げていけば真実が見えてくる』
ふふっ、確かにそのとおりだ。あの時のしたり顔も今なら理解できた。
「わざわざ聞く必要もないか。葵のことなら全部お見通しだし」
お得意のしたり顔で得意げに胸を張るアキハ。だけど聞くまでもない。その答えは多分間違っている。
思考を読むのはアキハだけの十八番じゃないってことを教えてあげないといけないようだ。
「アレキシサイミアを治したい、でしょう?」
今は肯定も否定もしなかった。なぜその考えに至ったのか知りたい。
「はっきり云おう。葵の矛盾は地上の科学では治せない。不可能には不可思議を。今こそ特権の使い道だ」
「ぶっぶー、残念、不正解」
「…………ひゃい?」
間抜けな声をあげ、何度も目をぱちくりするアキハ。
一体、わたしのどこを見ていたのだろう。アレキシサイミアを治す? とんでもない。むしろアキハと出会えたおかげで今の自分に自信が持てるようになったのに。
「自分がダメだなって反省することは今でもあるよ。この前、廊下で日奈子とすれ違った時も咄嗟に感情を作れなくて挙動不審になっちゃって。でもね、これがわたしなの。周りよりちょっとゲームが得意で、人付き合いが苦手で、ほんの少し面倒くさがりで、自分の気持ちがよくわからないだけ。アレキシサイミアはわたしの存在証明なの。これを治しちゃたら普通の人間になっちゃう」
世界大会が終わってもなんの感情も湧かなくて、だんだんと『もんもん』と疎遠になって暇になった時間を使って自分の身体のことを調べてみた。それで辿り着いたのがアレキシサイミアという病だった。
その病気を知ったその日からわたしは感情を取りにいくことを諦めた。感情がいらないと判断したわけではない。あくまでも忌むべき印ではなく個性なのだと受け入れるようになった。おかげでその日から楽に呼吸できるようになった。ポジティブになれたのも『もんもん』のおかげ。世界王者以上の喜びはないと思って走り続け、結果その先になにもなかったから無意味だと悟れたのだ。
「ほんと、すごいね。ボクの予想を簡単に上回ってくるんだから。だったら教えてよ、葵の望み」
「わたしの、望みはね」
なんだろう。身体がおかしい。うまく声が出ない。勝手に身体が震える。
それにアキハもおかしい。俯いて何度も何度も目を擦って鼻をすすって……それだと泣いてるみたいじゃないか。
震える声を無理やり正して、わたしの望みを打ち明けた。
「言伝を頼みたい」
「こ、言伝? ちょっと拍子抜けだ。てっきり無理難題を押し付けてくるかと思ってた」
「本当は手紙を書きたかったんだけど時間がないみたいだから」
「しょーがない。葵のお願いならなんでもいいよ。で、誰に?」
「『あなたの暇つぶしに、いつでも付き合います』って、待ちぼうけを食らってる誰かさんに」
「……きみ、まさか!?」
「ん、わたしの望みは伝えたよ。返事はどうかな?」
いきなり確信に踏み込みすぎただろうか。驚きの臨界点を超えたせいか、鯉のように口をぱくぱくしながら地団駄を踏んだり顔を掻きむしったりと大変面白い有様である。
イエスかノーか、わたしの望みが叶ったのか問いただそうとしたところ、先にアキハが胸元目掛けて飛び込んできた。
「『家に帰ったらすぐ』だって!」
「ん、りょーかい。でも帰る前に会場に戻って店長たちに挨拶するから。席を用意してくれたお礼と……謝罪」
「うん! 今夜は寝かさないからっ」
ごめん。「いつでも」は誤りで「明日以降」に訂正できないかな。今日は散々歩いて移動して登板して肉体はへとへとなんだ。精神の疲弊はいうまでもなく、本音をいえば早く家に帰って寝たいんだ。
けどわたしの隣でおもちゃを買ってもらった子供みたいにはしゃぐアキハを見てしまうと、今更言葉を引っ込めるわけにもいかなかった。数年前までは『もんもん』の常連たちに我儘を貫いていた自分が譲る立場になったと思うと、一歩大人に近づいたのかもしれない。
◇
待てども歩けど探せど、わたしの世界に色彩が宿ることはなかった。モノクロな世界からは生気を感じず、緑も海も意味をなさないオブジェクト。一向に終焉が訪れないツマラナイ世界でひとりで生きていくつもりだった。
けど最近、この世界に来訪者がやってきた。賑やかな来訪者にわたしの苦労は積もるばかり。なのに気づけばそんな生活を受け入れていた。存外に誰かといる時間は飽きはしなかった。
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