契約結婚、でもこれは恋じゃないから。

すぎやま よういち

第1話 終わった恋と、始まる契約

東京の空は、鉛色の絵の具を溶かしたように重く垂れ込めていた 。しとしとと降り始めた雨がアスファルトを濡らし、街の喧騒を鈍く吸収していく 。篠原瑞希、28歳 。手元のスマートフォンの画面に表示された「通知不可能」の文字が、彼女の心臓を鷲掴みにする 。7年間、共に歩んできたと思っていた恋人、蓮 。彼のLINEのプロフィール画像は、見知らぬ女と寄り添う笑顔に変わっていた 。指先が震え、画面をスライドさせる 。新しいメッセージはない 。彼の裏切りは、あまりにも唐突で、そしてあまりにも残酷だった 。

「嘘……」

唇から漏れた声は、雨音にかき消された 。胸の奥からせり上がる、鉄錆のような苦い味が、瑞希の口いっぱいに広がる 。7年 。人生の四分の一近くを捧げた相手に、こんなにもあっけなく切り捨てられるなんて 。目の前の高層ビルが、まるで嘲笑うかのようにそびえ立つ 。数日前まで、この街で、この部屋で、蓮と笑い合っていたはずなのに 。

マンションの管理会社からの退去通知もまた、彼女の追い打ちをかけた 。蓮との同棲解消に伴い、連名で借りていた部屋を出ていくしかない 。身一つで放り出されるような感覚に、瑞希は立ち尽くした 。雨は強さを増し、冷たい雫が頬を伝う 。それが雨なのか、涙なのか、もう判別できなかった 。足元からじんわりと冷えが這い上がり、芯まで凍えるような感覚が瑞希を支配する 。傘をさす気力も、立ち止まって雨宿りをする思考も、今の瑞希にはなかった 。ただ、一歩、また一歩と、無意識に足を動かすことしかできなかった 。アスファルトの冷たさが、足の裏からじわじわと伝わり、全身の感覚を麻痺させていく 。まるで、この雨に溶けてしまいたかった 。

どこへ向かっているのか、瑞希自身にも分からなかった 。ただ、この絶望から、この痛む胸の穴から、少しでも遠ざかりたかった 。まるで魂の抜けた人形のように、瑞希はひたすらに歩き続けた 。冷たい雨が降り注ぎ、街の明かりが水たまりにぼやけては消える 。ショーウィンドウに映る自分の姿は、まるで嵐に吹き荒れる枯れ葉のように小さく、そしてみじめだった。自分の居場所がどこにもない 。親を亡くし、唯一の拠り所だと思っていた恋人にも裏切られ、瑞希は今、世界から切り離されたような孤独の中にいた 。この空虚感を埋める何か、この凍える心を温める何かを、無意識に求めていた 。それがどこにあるのかも分からずに、ただ、あてもなく。この道の先に何があるのか、瑞希には見当もつかなかった。それでも、まるで吸い寄せられるように、彼女の足は止まらなかった。

いつしか辿り着いたのは、東京の喧騒から少し離れた、古民家が点在する一角だった 。


雨に煙る路地の奥に、ひっそりと佇む老舗旅館「花邑」 。木造りの門構えは、雨粒に濡れて漆黒の光沢を放ち、その奥からは、伽羅と白檀が混じり合ったような、奥ゆかしくも懐かしい香りが微かに漂ってくる 。吸い寄せられるように門をくぐると、手入れの行き届いた庭には、しっとりと濡れた苔が広がり、蹲の奥からは、ひしゃくを伝う水の音が、ぽつり、ぽつりと響いてくる 。その静謐な空気に、瑞希は一瞬、全てを忘れそうになった 。この空間だけが、今の瑞希を、この痛ましい現実から切り離してくれるようだった 。心の奥底で、ずっと求めていた「静けさ」が、ここにはあった 。まるで、凍えきった心に、柔らかな毛布をそっと掛けてもらったような、そんな温もりが、この旅館全体から滲み出ているように感じられた 。微かな風が木々を揺らし、古い木の柱が深く息をするような微かな軋む音が、静寂の中に響く。それは、瑞希の心臓の音よりも、よほど雄弁だった。

「すみません……」

か細い声が、しかし旅館の静寂を破るには十分だった 。玄関の引き戸を開けると、温かい木の香りがふわりと瑞希の鼻腔をくすぐる 。土間には、磨き上げられた黒光りの床が広がり、その奥から、凛とした声が響いた 。

「お客様、どうぞこちらへ」

顔を上げると、そこにいたのは、すらりとした長身の男だった 。黒い作務衣に身を包み、濡れた前髪から覗く瞳は、静かで、どこか冷たい光を宿している 。彼の名は、花邑一真 。旅館「花邑」の若き跡取りだった 。一真は、瑞希の顔を見た途端、微かに眉をひそめた 。瑞希の顔色は青白く、唇は震え、全身から雨水が滴り落ちている 。

「お客様、大丈夫ですか?」

一真の声は、低く、落ち着いていた 。その声に、張り詰めていた瑞希の心がふっと緩む 。安堵と、これまでの疲労が一気に押し寄せ、瑞希の視界は大きく揺らいだ 。足元がぐらつき、立っていられなくなる 。

「あ……」

意識が遠のきかけた瞬間、一真の腕が瑞希の身体をしっかりと支えた 。彼の腕は、意外なほどに強く、そして温かかった 。瑞希の身体は、まるで糸が切れたかのように、彼の胸に倒れ込む 。微かに感じる彼の体温と、伽羅の香りが、瑞希の意識を曖睡へと誘った 。親を亡くして以来、久しく感じることのなかった他者の温もりが、瑞希の凍てついた心を微かに溶かすようだった 。この温もりこそが、瑞希がずっと心のどこかで探し求めていた、確かな居場所の欠片なのかもしれない、と直感的に感じた 。


目が覚めると、瑞希は温かい布団の中にいた 。微かに漂う旅館特有の香りが、ここが夢ではないことを告げている 。身体はまだ重く、頭もぼんやりとするが、全身の冷えは消え失せていた 。障子の向こうからは、雨上がりの澄んだ空気が流れ込んでいる 。

「お目覚めになりましたか?」

静かな声がして、障子がすっと開いた 。そこに立っていたのは、一真だった 。手には、湯気の立つお茶碗を持っている 。

「昨日は、申し訳ありませんでした……」

瑞希は慌てて身体を起こそうとするが、一真が「そのままで」と制した 。

「大丈夫ですか? 熱はありませんね」

額に触れる一真の指先は、ひんやりとしていた 。その微かな温度差が、瑞希の頬に熱を灯す 。これは単なる照れではない 。ずっと孤独だった瑞希にとって、他者からの、それもこの見知らぬ男性からの気遣いは、まるで乾いた大地に染み込む水のように、じんわりと心を潤していく感覚だった 。深く穿たれた心の穴を、温かい雫が満たしていくような、そんな切ない安堵があった 。

「はい……おかげさまで」

差し出されたお茶碗を受け取ると、ふくよかな番茶の香りが湯気とともに立ち上る 。一口飲むと、胃の腑にじんわりと温かさが広がり、身体の芯から力が湧いてくるようだった 。旅館の温かいもてなしが、瑞希の心を深く癒していく 。

「あの、昨日は本当にありがとうございました。宿泊費を……」

瑞希が財布に手を伸ばそうとすると、一真が静かに首を振った 。

「いえ、結構です 。それよりも、あなたに一つ、お願いしたいことがあるのですが」

一真の言葉に、瑞希は訝しげに彼を見上げた 。彼の表情は依然として冷静で、何を考えているのか読み取れない 。その瞳の奥には、どこか割り切ったような、しかし諦めにも似たような陰りが宿っているように見えた 。

「僕と、結婚してくれませんか?」

瑞希は、耳を疑った 。湯呑みが手から滑り落ちそうになるのを、辛うじてこらえた 。

「け、結婚……ですか?」

「ええ。もちろん、契約で構いません 。一年間の期限付きです」

一真は淡々と、しかし真剣な眼差しで瑞希を見つめる 。

「僕には、家の事情があります 。一年以内に結婚している必要がある 。ですが、僕は恋愛に興味がなく、この旅館を継ぐことだけを考えています 。過去に一度、婚約まで交わした相手に、家業の重圧を理由に去られた経験があります 。以来、情に流されることの無意味さを学びました 。恋愛感情が絡むと、人は弱くなる。それは、この旅館『花邑』を、そして代々受け継がれてきたものを守る上で、最大の障害となる 。だから、僕は自分の感情を殺し、ただ義務を果たすためだけに生きてきた 。あの時の喪失は、僕の心臓に氷の楔を打ち込むようだった。愛とは、脆く、儚い。それを知って以来、僕は感情という名の重りを捨て去り、ただ使命という名の船を漕いできた。この旅館を守るためには、情ではなく、確固たる形が必要なのです 。あなたには、住居の提供と、当面生活できるだけの費用を保障します」

一真の声には、微かな疲労感と、過去への諦観が滲んでいた 。彼の瞳の奥に宿る「諦め」は、瑞希の孤独とは異なる種類の、しかしどこか通じる「重さ」を秘めているように感じられた 。それは、瑞希が蓮に裏切られ、居場所を失った絶望とはまた違う、彼なりの「失ったもの」の影だった 。

「でも、どうして私が……」

「あなたは、帰る場所を失い、途方に暮れている 。そして、他人に頼ることを知らない 。そんなあなたを見て、僕の事情に合致すると思いました」

一真の言葉は、瑞希の心の奥底を見透かすようだった 。図星だった 。親が他界し、これまで頼れる存在はいなかった 。蓮を失った今、本当に独りぼっちだった 。どこか“帰る場所”を求めている自分自身が、そこにはいた 。瑞希の心は、まるで荒野を彷徨う旅人のようだった 。荒れ果てた大地に、一滴の水を求めて。

瑞希の脳裏に、蓮の裏切りの光景がフラッシュバックする 。人を信じることに臆病になっている自分 。もう、誰も信じたくない 。傷つきたくない 。心は凍てついた湖面のように、閉ざされきっていた 。しかし、この提案は、そんな瑞希にとって、あまりにも都合が良すぎた 。愛がないからこそ、傷つくこともない 。これは、互いの必要を満たすための、ビジネスライクな関係 。

そして何より、この旅館の温かさ、そして一真の不器用ながらも差し伸べられた「助け」が、瑞希の心に微かな希望の光を灯した 。この人の瞳の奥に宿る諦めと覚悟 。それは、自分の孤独とは異なる種類の、しかしどこか通じる「重さ」を秘めているように感じられた 。この「契約」が、今の瑞希にとって、傷つかずに生きるための唯一の「逃げ場」であり、同時に、失われた「帰る場所」を与えてくれる、かすかな「救い」なのかもしれない 。

この老舗旅館「花邑」の女将である良子は、一真の祖母として、そして旅館の「顔」として、今後、この契約結婚の「偽り」を見抜き、二人の関係を陰ながら見守り、導く存在となるだろう 。彼女の眼差しは、きっと、瑞希と一真の間に芽生える微かな感情の動きを、誰よりも早く察知するに違いない 。静かに、しかし確かな慈愛をたたえた眼差しで。

「……考える時間をください」

瑞希の声は、震えていた 。一真は、その言葉に微かに表情を緩めた 。

「構いません 。ですが、あまり時間は残されていません 。もし、契約を受け入れていただけるのなら、明朝、改めてお話ししましょう」

一真は立ち上がり、静かに部屋を出て行った 。残された瑞希は、温かい布団の中で、冷え切った自分の指先を見つめる 。結婚 。契約 。瑞希の心の中では、理性と感情が激しくせめぎ合っていた 。この契約は、本当に自分にとって最善なのか? しかし、今の瑞希には、他に選択肢がなかった 。東京のどこかで、蓮とあの女が笑い合っている 。その現実から逃れるには、この「花邑」という場所と、この「契約」という形が、もしかしたら唯一の救いになるのかもしれない 。この契約こそが、瑞希にとっての、最後の希望 。

翌朝。障子から差し込む光が部屋を明るく照らす中、瑞希は静かに布団から出た 。冷たい床板が足の裏に触れる 。決断は、もう下していた 。カーテンを開けると、柔らかな朝の光が部屋いっぱいに差し込み、瑞希の身体を優しく包む。昨日までの重く澱んだ空気が、少しずつ、しかし確かに軽くなっていくのを感じた。

これが、新しい自分の始まりになるのなら、私はこの荒波に身を投じよう。過去の鎖を断ち切り、私はこの契約に身を委ねる。この傷だらけの魂が、再び温もりを取り戻せるのなら、どんな形でも構わない。私は、ここからもう一度、生き直す。私だけの、新しい「始まり」を、この「花邑」で見つけるために。心に微かな、しかし確かな心の躍動を感じた。昨日までの重かった肩が、ほんの少し、軽くなったような気がした。

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