第三章 恋人になった夜

「もしよかったら、今度ふたりでごはん行きませんか?」


そう誘われたとき、少しだけ戸惑った。

オフィスアワーの雑談から始まった関係だったけれど、ふたりきりで食事となると、なんだか少し特別な響きがある。

これは……“デート”ってことなのかな?


正直、迷った。

嬉しい気持ちもあったけど、どこかで「やっぱりやめておいた方がいいのかも」と思っていた。

年齢のことも、立場のことも、少し気になっていたし、会う前には一度、断ろうかと本気で考えた。


それでも結局、「Yes」と返した。

するとすぐに、「これはデート?」というメッセージが届いた。

思わず、心臓がふっと跳ねた。

迷いのないその言葉が、まっすぐで、少しだけくすぐったかった。

まさかそんなふうに聞かれるなんて思っていなくて、一瞬どう返せばいいのかわからなかった。


「うん、そうだね」と送ったけれど、指先が少しだけ震えていた。

“デート”と言い切るには、まだ自分の気持ちがどこにあるのか、はっきりとは見えていなかった。

でも、そうかもしれない。

少しずつ、彼への気持ちが輪郭を持ちはじめている——そんな予感だけは、確かにあった。


でもその夜、彼の顔を見た瞬間に思った。

――わたし、この人のことが、好きだ。


気づけば迷わずビールを頼んでいたわたしは、彼がまだお酒を頼める21歳になっていないと知って、少し恥ずかしくなった。


「いいなあ、大人だ」と彼が笑って言ったその声に、わたしは曖昧に笑い返しながら、グラスを両手で包んだ。


何を話したか、正直あまりよく覚えていない。

でもその夜の彼の笑顔だけは、今でも鮮明に思い出せる。ちょっとだけ緊張していて、それでも楽しそうに笑うその顔が、キラキラしていて、「かわいいな」と思った。


食事のあと、彼の家に行った。

彼の部屋で、彼の高校時代のアルバムや、小さい頃の写真を一緒に眺めた。


「これ、10歳のとき」

そう言って見せてくれた写真の中の少年は、今の彼と同じ笑顔をしていた。


すぐ隣に座っているのに、なかなか縮まらない距離に、わたしは少しだけ、やきもきしていた。

わざと手が触れるくらい近づいてみても、彼はぎこちなく笑って、写真の説明を続けた。


そのあとは、一緒にベッドの上で映画を見た。

同じ毛布にくるまりながら、静かに画面を見ていた。

あたたかさを感じたくて、わたしからそっと手を伸ばし、彼の手を握った。

彼は驚いたように一瞬こちらを見て、それから笑って、手を握り返してくれた。


映画が終わったあともおしゃべりは止まらなくて。

寝転びながら、取りとめもない話を続けていた中で、ふとわたしは聞いてみた。


「アメリカって、初めてのデートでキスしないと、興味がないって思われるって聞いたんだけど……それってほんと?」


彼は少し照れたように笑って、

「キスしてもいい?」と、小さな声でわたしに聞いた。


わたしは、うん、とだけ答えた。


気づけば、3年以上誰かとキスなんてしていなかった。

もうやり方なんて忘れてしまっていたはずなのに、彼のキスは不思議なほど自然で、やさしかった。

肩や背中に触れる彼の手も、言葉がなくてもわたしを大切に扱っているのが伝わってきた。


ただ、彼のことが好きだなと思った。

とても幸せな時間だった。


年齢差のことは、心のどこかでずっと気にしていた。

わたしが彼を本気で好きになってしまったら、その先に何が待っているんだろう、という不安もあった。

それでも、「今この人と一緒にいたい」と思った気持ちは、本物だった。


キスのあとも、夜は静かに流れていった。

でもその翌日から、何かがはっきりと変わった。

毎日のやりとりが、少しずつあたたかさを帯びていった。


そして次の夜、彼は少し照れながら言った。


「昨日、日本のデーティング文化について調べてみたんだけど……。日本では、ちゃんと“付き合ってください”って聞くって知って。だから……僕の彼女になってくれますか?」


その言葉に、わたしは思わず笑って、うなずいた。


その瞬間から、わたしたちは恋人になった。


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