第二章 心が動き出す音
社会人として日本を離れ、アメリカでの留学生活が始まってしばらく。
日々の生活は英語ばかりで、日本語を話す機会はほとんどなかった。
そんな中、週に数時間だけアルバイトをしていた大学の日本語学科は、わたしにとって小さな心の拠りどころだった。
学生たちが拙いながらも一生懸命日本語を話そうとする姿に、どこか勇気をもらっていた。
彼と出会ったのは、その日本語学科のイベントだった。
彼は、とにかくよく喋る人だった。
慣れない日本語で一生懸命話そうとするその姿が、どこか愛らしく、見ていて飽きなかった。
「日本の音楽が好きなんです」と、目を輝かせながら好きなバンドの名前をいくつも挙げていた。その姿からは、日本の文化に対するまっすぐな興味と、アメリカ育ちならではの自由さが伝わってきた。
そのときは、まさか13歳も年下の彼と、こんな関係になるなんて想像もしていなかった。どこか放っておけないような、不思議な人懐こさがあって、それが静かに心に残った。
数ヶ月後、新学期の教室で偶然再会した。
わたしがチューターとして見学に入っていた授業で、教室の奥の席から手を振る学生がいた。
最初は誰だかわからなかった。髪が伸びて雰囲気が変わっていたから。
でも、その笑顔には見覚えがあった。
あの日から、何かが少しずつ動き始めた。
彼はよくオフィスアワーに来るようになった。
「授業でわからなかったところを聞きたい」と言いながら、いつの間にか話題は、日本の音楽やお互いの文化、日々のささいなことへと移っていった。
「Akiの好きなアーティストは誰?」
ある日そう聞かれて、「宇多田ヒカル」と答えると、彼はその場で何曲も検索して、目を輝かせながら聴いていた。
わたしが「First Loveが好き」と伝えると、次に来たときには、その感想をノートにびっしり書いて持ってきてくれた。
嬉しかった。
こんなふうに、わたしの話をまっすぐに聞いてくれる人がいることが。
「この人は、もしかしてわたしに興味があるのかもしれない」――そう思い始めたのは、その頃だった。
でも同時に、心の中では何度も線を引こうとしていた。
年齢差、立場の違い、そしてこれからの人生。
それでも、彼とのやりとりは日ごとに自然になっていき、LINEでの会話は、もはや毎晩の習慣のようになっていた。
ある日、気分を変えてオフィスアワーを外で開こうという話になり、公園のベンチに並んで座った。
彼は空を見つめながら、ふいに言った。
「Akiは、神さまって信じる?」
少し迷ってから、わたしは答えた。
「うーん、“神さま”って言うとちょっと違うけど……母が亡くなってから、自然の中に何か大きなものを感じるようになったの。
たとえば風や光とか、ふとしたときに、見えないけど“いる”って思えるもの。
ご先祖さまたちに見守られてる感覚、っていうのかな」
彼はうつむいて落ち葉をいじりながら、小さく話し始めた。
「俺はね、昔はすごく信心深かったんだ。
毎週教会に通ってたし、神さまのことを本気で信じてた。
でも、ある時期から、信じることがちょっと苦しくなった」
それ以上、詳しいことは言わなかったけれど、長いあいだ胸の中にしまってきたものがあるんだろうと思った。
「でも今日、Akiの考え方を聞いて、すごく素敵だなって思った」
そう言って、彼は少し照れたように笑った。
「わたしは、そう思ってるよ」
わたしも静かに返した。
「どんな背景や悩みがあっても、誰かの存在を否定するようなものは、“本当の大きな力”じゃないと思う」
風が木々を揺らし、落ち葉が地面をすべる音だけが、ふたりの間を通り過ぎていった。
そのときわたしたちは、国籍でも年齢でもなく、もっと深いところでつながった気がした。
優しい人だな、話していて落ち着くな。
でも、それはまだ、“恋”と呼ぶには遠いものだった。
わたしの心が、ほんの少し揺れたのは――
ある日、自分の英語力に落ち込んでいたとき、彼がそっと言ってくれた。
「Be kind to yourself(自分にやさしくしてね)」
その言葉は、肩の力がふっと抜けるように、まっすぐに胸に届いた。
それからしばらくして、
わたしが苦手な英語のフレーズを何度も発音できずにいたとき、彼はそれを録音して送ってくれた。
何度もやり直して吹き込まれたその声が、スマートフォンのスピーカーから流れたとき、胸の奥がすこし温かくなったのを覚えている。
たぶんあの頃からだった。
彼のことを、「だいぶ歳下の男の子」ではなく、
ひとりの男性として、ちゃんと見るようになっていたのは。
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