第6話 中原図書館の掟、静かな終わり
17時。
閉館30分前。
館内の空気が徐々に緩み始める。
パソコンをシャットダウンする音、かすかな欠伸、鞄のチャックを閉める音──今日という一日の終わりが近いことを告げていた。
ぼくは、その時間を狙って再び立ち上がった。
午後3時過ぎ、あれだけ詰めに詰めたあの職員。
約束を断言はされなかったが、それでも「必ず対応します」と言い残したあのやり取りを、ぼくは忘れていない。
しかし──
ぼくの手元の記録にある5席。E-14、F-06、G-03、G-12、H-01。
いずれも、白い〈お願いの紙〉が置かれたまま。荷物も、3時からまったく動いていない。
──つまり、撤去はされていない。
この期に及んで、掟が実行されないというのなら、それはもう、掟ではない。
ただの張り紙。紙切れ。形式。
ぼくは静かに息を整え、廊下を歩き、6階カウンターへと向かった。
閉館前の対応で慌ただしくなる時間帯。
しかし、あの職員様は奥からすぐに姿を見せてくれた。
黒縁の眼鏡、変わらぬ整った所作。けれど、ぼくの顔を見るなり、すぐに察したようだった。
「……何かございましたか」
「はい。先ほど申し上げた席、5席。あれから2時間が経過しています。
ですが、撤去されていません。あと30分で閉館です。
「対応します」と職員様はおっしゃいましたが、それが果たされないまま閉館を迎えるということでしょうか?」
職員は目を伏せ、一瞬だけ呼吸を整えた。そして、穏やかな声で応じた。
「……申し訳ありません。ただ、本日は職員の人数が限られておりまして、館内全体の対応を優先した結果、そちらの対応が遅れております。
閉館作業の都合もあり、本日はもう対応が難しい状況です」
「つまり、今日はもう撤去はしない、ということですね?」
「……はい。結果的には、そのようになります。申し訳ございません。
ただ、閉館後にも、まだあれば、お忘れ物として預かる事になると思います」
その言葉に、ぼくは小さく頷いた。
「では、こちらの図書館における「お願いの紙」は、撤去を前提とした警告ではなく、形式的な脅しだったのですか」言葉を少し強めに変えた。
職員は返答に詰まった。そしてようやく、わずかに言葉を絞り出した。
「撤去の実績は確実にございます。ただ……撤去の運用は、あくまで柔軟に対応させていただいており、状況により、判断が異なり、実行に踏み切るかも、異なることがございます。
確かに、今日のように混雑時に対応しきれなかったのは、私どもの不備です。ご意見は、今後の運用の参考にさせていただきます」
──それは、誠実な謝罪ではあった。けれど、明確な掟の発動ではなかった。
淡く、滲むような線引き。
利用者たちの自制と気配りに支えられた、脆くて、それでも機能している、そんな秩序。
ぼくは、頭を下げた。
「……ありがとうございました。失礼します」
17時25分。閉館の音楽が流れ始めた。あと5分で閉館。今日の掟も一旦、幕を下ろす。
思い返してみる。職員も大変なのだろう。撤去予告の紙については、運営上、これが限界か──。
でも…きっと、また明日も誰かの席に紙が置かれ、その人は長時間、席に戻らない。そして、誰かがそれを見て何かを思う。この図書館の沈黙の中で、静かに火花のようなやり取りが交差している。
明文化されぬままの、掟と例外。その狭間にぼくは立っていた。
もやもやを胸に抱えたまま──出口の荷物検査ゲート(無断持ち出し防止のタグ・スキャン)までの、うんざりするくらい長く伸びた行列に並び、ゆっくりと、この超混雑図書館をあとにしたのだった。
川崎市立 中原図書館 の掟(実話) @ft2e
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