まだ授業は始まっていない
物狂響響
第一章 最初の欠席
四月の空は、どこかぎこちなく青かった。
春の匂いが混じる風が、まだ冬の名残を引きずる空気をかき回している。桜はとっくに満開を終え、昇降口の脇に植えられた木からは、もうほとんど花びらが落ちていた。
その朝、如月透真(きさらぎ・とうま)は、少しだけ目を細めて校門を見上げていた。
新しい学年、新しいクラス、そして何かが変わってしまいそうな気配——春という季節には、いつもそんな不穏さがまとわりついている。
「おはよ、透真」
肩を叩かれて振り返ると、そこに立っていたのは柊莉央(ひいらぎ・りお)だった。制服のスカートを春風に揺らしながら、彼女は明るい笑顔を向けてくる。
「……早いな、莉央」
「今日はクラス発表じゃん?そりゃ早く来るでしょ」
幼馴染。家も隣同士。透真が物心ついたときから、いつも隣にいた。
明るくて、真っ直ぐで、少しだけおせっかいな彼女の存在が、透真にとっては何よりも“日常”だった。
「で、何組だった?」
「二年三組。透真は?」
「俺も……ってことは」
「三馬鹿のうち二馬鹿が揃ったな」
莉央がククッと笑う。
もう一人の“馬鹿”、蒼井蓮(あおい・れん)の名前が自然に浮かんだ。
蓮は、一年の夏休みに仲良くなった友人だった。
爽やかな笑顔で男女問わず人気があり、ノリが良くて、でも時折どこか冷めた視線を見せるやつ。
「蓮も三組だったら、これは運命ってやつかもな」
「いや、それはないでしょ。あいつ運悪いし」
そう言いながら、二人で並んで南校舎へと歩き出す。新しいクラスに向かう足取りは、ほんの少しだけ軽かった。
二年三組は、旧校舎と新校舎のちょうど境界にある。
廊下には古びたロッカーと、少し黄ばんだ蛍光灯が並び、床は新校舎に比べて微かに軋む音を立てた。
扉を開けると、まだほとんど誰もいなかった。教室の空気は冷たく、窓から差し込む朝日が長く床を照らしている。
そのとき。
「あ、透真ー!」
教室の奥、窓際三番目の席。
椅子にふんぞり返りながら、片手でひらひらと手を振っていたのは——蒼井蓮だった。
「……マジでお前も三組かよ」
「な?運命だっただろ?」
蓮は、にやにやと笑いながら席を立ち、近づいてくる。
「三馬鹿、完成だな」
「うわ、ほんとに最悪の組み合わせ」
「ひでぇな莉央」
三人で顔を見合わせて笑った。
窓の外では、校庭の向こうで野球部が声を張り上げていた。何でもない春の一幕。けれどそれは、今振り返れば、奇跡のように平和な瞬間だった。
透真はミステリーマニアだ。物心ついた頃から推理小説に耽り、特に古典を好む。
アガサ・クリスティ、江戸川乱歩、綾辻行人、殊能将之、米澤穂信——好きな作家を挙げればキリがない。
読書ノートをつけ、あらゆるトリックを暗記し、妄想の中で何度も“名探偵”になった。
「また妄想してたでしょ」
「うっ……ばれたか」
「そりゃね。顔に書いてあるもん」
莉央は透真の趣味に呆れつつも、完全に否定することはなかった。
一方で、蓮は徹底して現実主義。
「小説の中だけで人が死ぬならいいけど、現実はゴミみたいに人が死ぬんだぞ」
「それ言いすぎ」
そんな三人のやり取りは、教室のあちこちに自然と馴染んでいた。
放課後、コンビニに寄って雑誌を買い食いしたり、空き教室で歌の練習をしたり、時には誰かの家で夜通しゲームをしたり。高校二年の春は、そうやって始まった。
……しかし、それはあまりに脆く、そして突然に終わりを迎えることになる。
事件が起きたのは、四月の第三月曜日だった。
いつものように透真が登校し、昇降口の前で靴を履き替えていると、妙な緊張感が校舎中を包んでいた。
ざわざわと落ち着かない空気。
生徒たちのヒソヒソ声。
「ねえ、知ってる?」「マジで?」「嘘でしょ……?」
声が交差する。その内容は掴めない。だが、ただならぬ何かが起こったことだけは明らかだった。
莉央と合流し、二人で三組の教室へ向かうと、すぐに担任の安藤が駆け込んできた。
その顔は蒼白で、額には汗が滲んでいた。
「……全校生徒は教室で待機。絶対に廊下に出るな」
低く、震えるような声だった。
直後、校内放送が流れる。
『全校生徒は教室で静かに待機してください。外に出ることは絶対に控えてください。』
放送室の教師の声も、明らかに動揺していた。
透真の背中に、冷たいものが走った。
何かが——起こった。
そして昼過ぎ。
報道が流れた。
【高校二年男子生徒、校内で死亡。喉を切られた状態で保健室にて発見。】
遺体の発見者は教員。室内には争った形跡はなく、現場は異様なまでに整頓されていたという。
さらに詳細が明らかになるにつれ、事件は一層の猟奇性を帯びていく。
・被害者の目は刃物でくり抜かれていた
・黒板には「3 - 11 / ???」という文字列
・足元には開かれた文庫本——江戸川乱歩『D坂の殺人事件』
そして、犠牲者は松永優翔(まつなが・ゆうと)。
生徒会副会長。学年一の秀才であり、生活態度も極めて真面目だった人物だった。
放課後、三人は無言のまま並んで歩いていた。
校門を抜け、駅前のカフェに入り、やっと口を開く。
「……マジかよ、って感じだよな」蓮がつぶやく。
「松永くん、昨日まで普通に……」莉央は眉をひそめた。
透真は、何も言えなかった。
事件現場の写真は、報道されていない。
けれど、何かがおかしいと確信していた。
乱歩の文庫本、黒板の文字列……そしてあのトリック。
「まさか、模倣犯……?」
彼の頭の中で、過去に読んだ“あるスレッド”がよみがえる。
——“本当に恐ろしいと思った推理小説10選”——
それは、かつて透真が匿名で投稿したものだった。
その第一位が、まさに『D坂の殺人事件』だったのだ。
その夜、透真の机に一枚のメモが置かれていた。
《次はどこまで解けるかな? 探偵クン》
筆跡は見覚えがない。だが、それが自分に向けられたものであることは直感でわかった。
誰かが、自分を見ている。
誰かが、自分を“選んだ”。
物語は始まった。
推理は、まだ幕を開けたばかり。
だが、授業は——まだ始まっていない。
■あとがきという名の“もう一つの開幕”
──君はまだ、気づいていない。
たとえば、あの朝の教室。
黒板のチョーク跡。誰も気づかないように、白ではなく、薄灰色のチョークを使ったのは、単なる趣味じゃない。光が差した時だけ、見える“線”を選んだ。
そして、透真くんが最初に入ってきたとき。
あの「蓮が遅刻してくる」会話の直前、席の机にうっすら書かれていた“数字の羅列”。
消したように見えて、まだ残っていたはずだよね?
あれは“授業”の一部。君たち三人の観察記録なんだよ。
**
莉央さんが屋上で話していた「二年前の転校の理由」、
蓮くんが話した「小説より奇なり」の台詞、
透真くんがふと見た「赤い表紙の小説本」。
全部、関係ある。いや、関係しかない。
**
わたしは知ってるよ。
あの三人が、“過去に一度だけ”交差した瞬間を。
それが、いま始業チャイムの鳴らない教室でゆっくりほどけていく。
彼らの無邪気な笑いは、痛々しかった。
でも美しかった。
だからこそ、記録する価値がある。
これは、ただの殺人事件じゃない。
再現実験だよ。
あの日、止まってしまった「授業」を
もう一度、“最初から”始めるために。
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