第7話「舞台袖の決意」

夏の夕暮れ。

清水屋の廊下には、舞台のざわめきが少し遠くから響いていた。


今日も昼公演が終わったところで、館内は一瞬の静けさに包まれている。

けれど舞台裏では、異変が起きていた。


「……動かせないな」

舞台袖の座員たちが顔を寄せ合っていた。

若手の花形役者、恭介が足首を押さえたまま、苦い顔で座り込んでいる。

稽古中に足をひねり、そのまま立てなくなってしまったのだ。


「どうする? 夜の部はもうすぐだぞ」

「代役なんて、今から……」


ざわめく声の中、女将――叔母の視線が、ふとこちらを射抜いた。


「……圭人」


名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。


「なに? 僕が……?」


「昔、神楽を舞ってたでしょ。動きも扇も扱える。

 急場をしのぐには、あんたしかいないわ」


「……僕が、舞台に?」


声が震えた。

冗談じゃない。僕はもう舞えないはずだった。

舞うのが怖くて、やめたのだから。


「無理だよ。僕なんかにできるわけ――」


「できる」


静かに、その声が遮った。

振り返ると、そこには瑠璃がいた。

白粉を落とし、稽古着のまま、真剣な目をこちらに向けている。


「……あなたなら、舞える。

 私が知ってる“神谷圭人”は、逃げて終わる人じゃない」


その瞳の奥に、強い光が宿っていた。

僕の胸の奥に、忘れていた痛みのような熱が広がる。


(逃げてばかりじゃ、だめなのかもしれない)


「……やってみる」


気づけば、そう答えていた。

言葉が先に出てしまった。

でも、その瞬間、不思議と心が少し軽くなった。


「圭人くん」


瑠璃が近づき、扇を手渡してくる。

舞台用の、美しい朱塗りの扇だった。


「これを持って、袖に立って。

 あとは……体が覚えてるから」


彼女の声は震えていなかった。

ただまっすぐに、僕を信じていた。


その信じる眼差しに、もう言い訳はできなかった。


夜の舞台が近づいていた。

舞台袖には、熱気と緊張が充満している。

僕は扇を握りしめ、深く息を吸った。


あのとき、怖くて背を向けた舞台。

でも――今は違う。


舞台の奥から聞こえる三味線の音が、僕の胸を震わせた。


(逃げない。今度こそ、最後まで……)


こうして僕の“一夏の舞台”が始まろうとしていた。

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