第3章:赤の女王、黒の騎士

第21話:褪せない傷跡

タワーマンションでの最初の朝は、静寂に満ちていた。

昨日までの喧騒が嘘のように、世界から切り離された空間。窓の外では、朝日が巨大なビル群を照らし始めているが、その光はこの部屋の隅々までは届かない。


凛火は、まだベッドで眠っていた。

私が夜通し行った応急処置のおかげか、呼吸は安定している。しかし、その顔色は青白く、眉間には深い苦悩の皺が刻まれていた。眠っていてもなお、彼女は悪夢と戦っているのだ。


私は、昨夜凛火が着ていた、血に濡れた衣装を洗面所で手洗いしていた。

冷たい水が、布に染み込んだ赤黒い血を、少しずつ溶かしていく。それはまるで、私たちの犯した罪を洗い流そうとする、無駄で、虚しい儀式のようだった。

自分の腕に残る、ガラスで切った傷がズキリと痛む。この傷と、凛火の傷。それが、私たちの新しい絆の証だった。


「……しろい…」


背後から、凛火のかすれたうわ言が聞こえた。

振り返ると、彼女がベッドから半身を起こし、虚空を見つめている。


「……仮面が…、音が…、する…」

「凛火?」

「やめ…、折れる…。ああ……」


その言葉は、意味の通じない、ただの音の羅列。しかし、その断片の一つ一つが、彼女の魂に深く刻まれたトラウマを、生々しく抉り出していた。


「大丈夫だよ。もう、昔のことだから」


私がそう言って微笑んでも、凛火は聞こえていないようだった。やがて、糸が切れたように再びベッドに倒れ込み、荒い寝息を立て始める。

私は、彼女の額の汗を拭うことしかできなかった。


リビングに戻り、ノートパソコンを開く。

そこには、昨夜の狂乱の残骸が、デジタルタトゥーとなって刻まれていた。

ランキングを独占している切り抜き動画のタイトルは、もはや陳腐な煽り文句ではなかった。


『聖詩凪の血の賛美歌(アンセム)と神獣凛火の覚醒』

『【考察】騎士の涙は血の味か? #かのゆび考察班』

『巡礼用:脇腹の聖痕(スティグマータ)シーン10分耐久』


視聴者たちは、もはや単なる観客ではなかった。

彼らは、私たちの物語の熱心な研究者であり、歪んだ神話の編纂者(へんさんしゃ)となっていた。


私は、泣きじゃくる凛火の幻影を振り払うように、その文字の羅列を睨みつけた。

罪悪感が、胸を焼く。

しかし、それ以上に、冷たい闘志が、心の底から湧き上がってくるのを感じていた。


――足りない。

これでは、まだ足りない。


信者たちの考察は、まだ真実に届いていない。彼らが作り上げた神話は、まだ私の構想の足元にも及ばない。

VERMILIONの朱里が作り物の芸術なら、私は本物の神話を創り上げる。

凛火の過去、痛み、その全てを、私が完璧な脚本に昇華させる。

観客が、考察する隙もないほどの、絶対的な悲劇と救済の物語を。


私は、新規のテキストファイルを開いた。

そして、指先がキーボードを叩き始める。

それは、次のステージのための、新しい「聖書」の第一章だった。


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