無表情バリスタと奇妙な客たち

高坂あおい

第1話 喫茶「虚無」の日常

「いらっしゃいませ」


 自動ドアが開く鈍い音に続き、感情の欠片もない声が響く。

 都心の一角にある喫茶「虚無」。その名の通り、内装は徹底してミニマムで、BGMは常に無音。唯一、店主兼バリスタの静馬だけが、微動だにせずカウンターに立っていた。彼の表情筋は、もしかしたら化石になっているのかもしれない。


 今日最初の客は、常連である細身の男。名を珍野という。しかし、彼は決して普通の、一般の客などではない。

 それは、身分などではなく、その注文内容を理由とする。


「やあ、静馬くん。今日はね、『隣の芝生は青いラテ』を頼むよ。できれば、少しだけ隣の芝生を齧ったような、ほろ苦い後味で頼む」


 静馬は無言でエスプレッソマシンに向き合った。豆を挽く音だけが静寂を破る。珍野はカウンターの椅子に座り、まるで普通の注文をしたかのようにスマホをいじり始めた。


 数分後、静馬がスッとカップを差し出した。そこに描かれたラテアートは、なぜか見慣れない、わずかに色褪せた緑色の芝生だった。


「お待たせしました。隣の芝生は青いラテです」


 静馬の声はいつも通り平坦だ。珍野は一口飲むと、眉間に深い皺を寄せる。


「ん? ……ああ、これか。この微妙な土っぽさと、遠くから聞こえる他人の幸せな笑い声みたいな味が。完璧だ」


 完璧なのか、と静馬は心の中で思ったが、表情を変えることはなかった。


「しかし静馬くん、この芝生、少し枯れてないか? もしかして、隣の芝生じゃなくて、もう誰も手入れしていない空き地の芝生じゃないのかい?」


 静馬は普段よりほんの少しだけ、ほんの少しだけ眉を動かした。


「失礼いたしました。隣の家の芝生、昨日、息子さんがうっかり除草剤を撒いてしまったそうで」


「そんなプライベートな情報まで仕入れているのかい⁉」


 珍野が驚愕の声を上げたが、静馬はすでに次の客を迎えるべく、無表情で遠くを見つめていた。

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