第10話

さらば、スローライフ


 身体が熱い。アスマの攻撃は俺を生死の境まで追い込んだ。ヘソから下が潰れた感覚があった。自分でも終わりなんだと思った。痛みも激しかったが、何故か今はピンピンしている。俺はイシュタールの近くに跳躍ちょうやくし、子猫を抱き上げスエットにしまいこむ。イシュタールは、信じられないものを見たと目を見開いている。2人の闘争をみて明らかに人外じんがいだと思ってたけど、俺もたいがいだ。


 田上夫妻は母屋おもやの横で身動きがとれないでいる。士郎さんにいくら元気があっても、下手に参戦されて怪我けがされては申し訳ない。目でそのまま、そのまま…と合図した。


 人外2人はまたもや互いの得物えもので争っている。俺のことは後回しにしたようだ。警察の応援が来れば良いのだが、先程までの雪のせいか、まだ到着しない。


 アスマは少しあせっていた。イシュタールは、何度か回復魔法を使っている。しかし、まだ魔力は切れないようだ。魔力量はイシュタールの方が上なのは分かり切っていた。イシュタールの魔力が切れた時が勝負だった。


 この世界は魔素まそが薄い。周囲から集めて己が魔力に変換へんかんするには時間がかるはずなのだ。この世界に来たばかりのイシュタールは、そのための対策たいさくはしていないはずだった。魔力切れのイシュタール相手なら十分勝機はある。


 加えてアスマは回復薬は常に多めに持っている。余分に持つのは、祖父からの教えだった。イシュタールの魔力切れが先か、自分の体力に限界が来るのが先か。我慢がまん比べだがイシュタールの魔力が切れる気配はまだ、ない。



 イシュタールも自分がジリひんに追い込まれつつあることを感じていた。この世界の男は相手にせず、対アスマにのみ魔力を使用した。予想外なのはアスマの回復薬の数だった。もう5回は使用しているだろう。魔素の薄いこの世界で魔力変換をするのは、アスマ相手にしながらでは無理だった。


 イシュタールは、最悪、この場ごとエル=クリジアの輪でゲートへ運ぶのもありかと考えはじめていた。しかし、それはアスマの動きを封じないとむずかしい。



 パトカーの音が近づいている。時期に猟師会りょうしかいの人達も来てくれるだろう。服の中で子猫はふるえている。俺は田上夫妻に近づき士郎さん達を母屋のかげに隠れているように話した。2人の狙いが子猫らしい事もだ。


 見覚えのある軽トラが走ってきた。荷台には犬が3頭。狩猟犬で月の輪熊を相手にしている奴等だ。降りてきた2人は猟銃をかまえた。士郎さんが、危ない奴等で常識が通用しないから、警察が車で引き延ばすことを提案している。


 パトカー3台といかついマイクロバスがサイレンを鳴らしながら到着した。こんなにもパトカーを心待ちにしたことはないだろう、なんて呑気のんきに考えていたけど、先日の事件もあってか重装備じゅうそうびだ。皆、ベストを着込んでいる。他の装備も堅牢けんろうな素材であるのが見てとれた。テレビで見たことのあるシールド付ヘルメットと盾が出てきた時は不謹慎ふきんしんだが、少しワクワクしてしまった。顔には出てなかったと思う、たぶん。


 投降とうこううながす隊長の呼びかけを全く意に介さず2人は消耗戦を続けていた。状況が変わったのは盾を構えた警官達が2人を取り囲んだ時だ。アスマは盾ごと5人の警官を押し倒した。イシュタールは炎の塊を3つ飛ばしたが、盾に阻まれた。イシュタールに警官隊が殺到すると、炎は氷に変わり警官隊は身動き取れなくなってしまった。


 イシュタールが警察官とやり合っている時、アスマが動いた。イシュタールを鉈で殴りつけ、くの字に折れたところに左脚で強烈な蹴りを見舞った。パトカーに激突したイシュタールは動かなくなった。


 アスマは母屋の横にいた俺に目をつけた。猟師会の人達の銃が火を吹いたが、アスマは止まらなかった。


 猟銃りょうじゅうの2撃目もほぼ命中していたが、こちらへノシノシと歩いてきた。犬達が飛び出したが左手ですくうようにしてまとめて畑の方へぶん投げてしまった。アスマはふところから小瓶を出し、猟銃で撃たれた傷に降りかけた。傷の範囲が広いからもう1人瓶探していたが、使い切ってしまったようだった。アスマが再びこちらに歩んでくる。


 俺は田上夫妻を巻き込まないように、離れの方に逃れようとした。見逃すはずもなく、アスマは鉈を俺に叩きつけた。また、離れまで飛ばされる。離れの壁には大きな穴が開いた。俺はスエットの中の子猫に声をかけた。無事のようだ。


 ノロノロと立ち上がった時、俺が見たのは、アスマの背後から跳躍して身を投げるようにして剣を突き刺すイシュタールの姿だった。アスマの背中から突き通った切先が月の光を反射してギラリと光った。


「イシュタール、回復に使わぬのか、死ぬぞ。」


「アスマよ、最期の魔力は貴様にくれてやるわ。」


 イシュタールの剣からアスマの体内に魔力が注入される。何かエネルギーが剣に集まってゆくのが俺にも分かった。


 アスマの身体が崩壊を始めた。


 イシュタールが何かをコチラに投げた。アスマも何かをコチラに投げた。


 イシュタールの投げたそれは、エル=クリジアの輪だった。最期の魔力はイシュタールの嘘だった。本当の最期の魔力は輪に込めた。輪から黒い球体が現れてイシュタールの魔力を喰らい尽くすと、球体は俺と子猫だけでなく、離れとにわとり小屋、果樹かじゅの辺りまでを飲み込んだ。


 崩れゆくアスマがニヤリ、と笑い、投げたのは鉈だった。一直線にそれは俺の胸とスウェットの中にいる子猫を貫いた。両膝両膝を地面についたまま、俺は動けないでいた。子猫を守り切れなかった。アスマの声が響く…


「イシュタール、これで、おあいこ、だ…。」


 ゆっくりと球体は浮かび上がる。大きな風船に閉じ込められたようだった。俺たちを見上げて士郎さんが必死の顔で追いかけている。瑠璃子さんもうようにして立ちあがった。警官隊の人達の顔は段々と小さくなってゆく。今日はたくさん痛い目にあったなぁ…。酷く疲れた…。俺の意識は暗く深い所へ沈んでいった。


 ――セーレ=ノクシス 西の園――


 俺は胸に鉈が突き刺さったまま大の字に倒れている。


(鉈、抜けないなぁ…、かわいそうに守れなかった…)頭の中ではそんな想いがぐるぐると回っている。目の前が何だか暗い…。ほっぺたを熱いものがつたって流れるのが分かった。


 髪の長い端正たんせいな顔立ちの男が俺の顔を覗き込んでいる。男の背後にはクマのぬいぐるみがフワフワと浮かんでいる。

 

「ネクロスよ、このワタリ…」

 

左様さよう、混じっておるな。…興味きょうみ深い。」


 ぬいぐるみがしゃべったような気がした。子供の夢じゃないんだから。いつの間にか黒っぽい大きなネコが側にいた。猫は俺のスエットを器用に引き裂き子猫の亡骸なきがらを舐めた。さらに、俺の顔を舐め、一声、鳴いた。


「バルナ、お前もそう思うか。」


 髪の長い男はそう言うと俺の胸から鉈を抜いた。


「ネクロス、紫だ。やはり、混じっておる。」


 男がほんの少しだけ興奮しているように俺は思った。男が自ら手首を切り、子猫と俺に血を降りかけた。ホント、おかしな夢だな…。俺の意識は再び沈んでいった。

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