第3話 沈黙の稜線
その後の記憶は、曖昧だった。
彼女はひとりで下山した。
風が強くなるなか、キャンプ4まで辿り着けることができず、テントも建てられない場所でビバークすることになった。
ビバークとは、ただ生きのびるための夜だ。
テントもない。マットもない。
川合咲は、エベレストの南西稜、雪と岩のすき間に身体を押し込んでいた。
風に打たれるツェルト、
薄い寝袋。崩れかけた岩陰。
視界は雪と夜に閉ざされ、手足の感覚はすでに薄れ、意識は暗闇に吸い込まれていく。
風が遠くで唸っていた。
天と地と、生と死の区別は、もう曖昧だった。
そのなかで、耳がふと、ある音を拾った。
――「……さき……」
柴田の声だった。
低くて、どこか苦しそうで、それでも懐かしい声。
聞こえるはずがない。
柴田は落ちた。雪煙の向こうに。――
まぶたを閉じても、柴田の顔が焼きついていた。
咳き込む柴田。
白い吐息。
雪に沈んでいく巨体。
(私が……殺した……?)
いや、殺意はなかった。
屁を我慢できなかっただけだ。
でも、それが引き金になったのは確かだった。
「柴田さん……ごめんなさい……」
彼女はうわごとのように呟いた。
幻覚だと思った。酸欠と疲労がもたらす、脳のいたずら。
咲は顔を覆った。
涙は凍らず、皮膚の熱に守られてぽたぽたと落ちた。
次の瞬間、彼女の頬を何かが撫でた。
手だった。人の手。
はっと目を開けると、そこには……いた。
柴田が、いた。
顔は血で汚れ、片目に傷。
手袋の指が一本欠けている。
「……まったく、屁ひとつで落ちるとは思わなかったよ」
「……え?」
咲は目を凝らした。
「祠みたいな岩に引っかかって、奇跡的に止まったんだ。
そのまま意識失って、気づいたら
……お前の屁が夢に出てきて目が覚めたよ」
咲は思わず笑ってしまった。
笑って、笑って、涙が止まらなくなった。
柴田は手を差し出した。
「……あれは事故だ。誰も悪くない。
屁ぐらい、俺だってするさ。」
柴田は彼女の肩をぽんと叩いた。
それが、赦しだった。
咲はその手を取った。
そのぬくもりが、現実であることを告げていた。
⸻
夜が明けると、稜線はまぶしく輝いていた。
白い雪の向こうに、キャンプ4が見えた。
ふたりは下山を再開した。
黙々と歩いた。
もう言葉は要らなかった。
その沈黙は重くなかった。
赦しとは、笑えることなのだ。
どんな罪でも、どんな事故でも、笑いにできたなら。そこに生がある。
赦しは、沈黙のなかにこそある。
そしてその沈黙の向こうに、
ヒマラヤの風が吹く。
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