第5話『書斎の宝の山』

その日の深夜、俺は家族が寝静まったのを確認し、そっと自室のベッドを抜け出した。

十歳の少年の体は、音もなく廊下を進むのに好都合だった。目指すは、この家の心臓部であり、父サクダーの聖域でもある一階の書斎。このウォンラットという城を攻略するには、まず、敵の懐にある正確な情報が必要不可欠だった。元経営者として、それは当然の思考だ。


重厚なチーク材のドアノブを、慎重に回す。幸い、鍵はかかっていなかった。

書斎に足を踏み入れると、革張りのソファと古い紙、そして微かな洋酒の匂いが混ざり合った、権力の匂いがした。月明かりが、壁一面を埋め尽くす本棚と、部屋の中央に鎮座する巨大なデスクをぼんやりと照らしている。


俺はまず、デスクの引き出しに手をかけた。案の定、いくつかは施錠されている。今は深追いする時ではない。俺はターゲットを本棚に切り替えた。会社関係のファイルは、必ずここにあるはずだ。


数分後、俺はタイ語で書かれた決算書類らしきファイルの束を見つけ出した。

会計の専門用語はまだ完璧には読めない。だが、損益計算書や貸借対照表のフォーマットは万国共通だ。俺は、橘正人として嫌というほど眺めてきた数字の羅列を、貪るように目で追った。


売上、利益、資産、負債……。

数字は嘘をつかない。この会社、「ウォンラット・トレーディング」は、決して赤字ではないが、成長もしていない。


そして、本棚の隅で、俺は一際分厚いファイルを見つけた。

色褪せた背表紙には、「機械設備資料」と書かれている。これだ。


ファイルを開いた瞬間、俺は息を呑んだ。

そこは、俺にとってあまりにも懐かしい世界だったからだ。日本の有名メーカーの旋盤、プレス機、フライス盤……前世で、俺が毎日油にまみれて触れていた機械たちの写真と、詳細な仕様書がそこにはあった。


ページをめくる指が、興奮で微かに震える。

橘正人の魂が、四十五年分の記憶と共に、この十歳の少年の中で完全に覚醒したのを感じた。


「……なるほど。日系の中古機械か」


ビジネスモデルはすぐに理解できた。だが、問題はその中身だ。仕様書の横には、父の字だろうか、仕入れ値と、簡単なメモ書きが残されている。「買い手見つからず」「要修理」。そのほとんどが、不良在庫として扱われているようだった。


「馬鹿か、この親父は……」


思わず声が漏れた。

このプレス機は、ただの鉄くずじゃない。金型さえ設計し直せば、日系の自動車部品工場が喉から手が出るほど欲しがる特殊な部品が作れる。この旋盤は、主軸のベアリングを日本製に交換するだけで、精度が今の倍以上に跳ね上がる。これは、ガラクタの山などではない。磨かれるのを待っている、ダイヤモンドの原石の山だ。


俺の頭の中では、四十五年分の知識と経験がフル回転し、ガラクタ同然に扱われている機械たちが、次々と金のなる木に変わっていく。

もったいない。宝の山を、腐らせているぞ……!


夢中になって資料を読みふけり、次のページをめくろうとした、その時だった。


背後で、静かに、しかし重くドアが開く音がした。

心臓が跳ね上がる。ゆっくりと振り向くと、そこに父サクダーが立っていた。ナイトガウンを羽織ったその姿は、夜の闇の中でもなお、圧倒的な威圧感を放っている。


「ウィン。そこで、何をしている?」


父の低く、冷たい声が、静まり返った書斎に響き渡った。

俺は、手に持った資料を隠す暇もなく、この家の王と、たった二人で対峙していた。

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