第2話 越後の残光、白椿の幻

風が語る。雪が刻む。私は見ていた。

あの契りの夜を。

小さな手が震えながら結んだ、儚くも強い誓いを。


男は武士たちに支えられながら

雪の中を進んだ

足元はまだ覚束ないが

彼らの献身的な支えに

不思議な安心感を覚える

彼らは

男を「謙信公」と呼び

深く尊敬の念を抱いているのが

その仕草や視線から伝わってくる

自分にその記憶はない

だが彼らにとっては

確かに自分こそが

その名を持つ者なのだ

雪を踏みしめる度に

足元から伝わる冷たさが

わずかながら現実感を呼び覚ます

しかし

自分が何者であるかという

根本的な問いは

いまだ解決されないまま

彼の心を支配していた


やがて雪の中に

屋敷の影が浮かび上がった

それは

質実剛健でありながら

どこか荘厳な雰囲気を漂わせる

大きな屋敷だった

墨絵のような枝が

雪の白さに際立つ庭木が

彼の目に飛び込んでくる

門をくぐると

多くの侍女や家臣たちが

彼らを迎え入れた

彼らもまた

男の姿を見ると

驚きと安堵と

そして喜びの表情を見せる


「謙信公!」


多くの声が彼を呼ぶ

その声一つ一つが

彼の心に

微かながらも

波紋を広げていく

しかしその声に応える言葉は

まだ彼の口からは出ない

彼はただ

彼らの表情を見つめ

その感情を受け止めることしかできなかった

まるで

自分ではない誰かの喜びを

眺めているかのような

奇妙な疎外感に包まれる

しかしその一方で

彼らの歓喜の熱が

ひどく心地よいようにも感じられた

この「謙信公」という名が

彼らにとっていかに大きいものか

言葉はなくとも

その場の空気で理解できた


部屋に通されると

温かい湯が用意されていた

湯気立つ湯に体を浸すと

冷え切っていた身体が

ゆっくりと解き放たれていく

湯の中で

彼は自分の両の腕を見つめた

しなやかで

しかし鍛え上げられたその腕は

とても自分がこれまで知っていた「自分」のそれとは

異なるように感じられた

記憶がないにもかかわらず

この肉体には

強靭な力が宿っていることがわかる

まるでこの身体が

別の誰かのものであるかのように

しかしその感覚は

不快なものではなく

むしろ

深い部分で馴染んでいるような

不思議な一体感があった

指先を湯に浸すと

その水面に自分の顔が映る

見知らぬ顔

しかし

どこか懐かしいような

そんな矛盾した感情が

彼の胸に去来した

一体、自分は誰なのか

この顔は

この体は

誰のものなのか

湯から上がると

疲れはいくらか和らいだが

心に渦巻く疑問は

何一つ晴れていなかった


用意された上質な着物に袖を通す

慣れない手つきながらも

自然と身体が動くことに驚いた

着付けを手伝う侍女たちの

丁寧な手つきが心地よい

その侍女の一人が

静かに顔を上げた

彼女の瞳には

深い悲しみと

そして何かを隠しているような

複雑な感情が宿っていた

彼女の名は

綾姫の侍女であった

彼女の視線が

彼の心を

かすかに揺さぶる

静は

彼の手を取り

まるで何かを確かめるかのように

そっと指先に触れた

その手つきに

彼自身の心臓が

微かに高鳴るのを感じた

しかし静は

すぐにその手を離し

再び顔を伏せた

彼女の伏せた顔の奥に

隠された深い想いが

彼には見えた気がした


夕食の席では

彼は無言のまま

出された料理に口をつけた

どの料理も

素朴でありながら滋味深く

彼の身体に

温かい力が満ちていくのを感じる

しかし彼の心は

満たされないままだった

なぜ自分はここにいるのか

なぜ記憶がないのか

なぜ「謙信公」と呼ばれるのか

そして「綾丸」という名は誰なのか

疑問が渦巻く

目の前の温かい料理を前にしても

彼の内側にある空虚感は

決して満たされることはない

食事を終えても

その空虚感は

ますます膨れ上がっていくようだった


食後

老臣の源左衛門が

彼の前に座った

彼は

白髪交じりの顔に

深い皺を刻んでいるが

その瞳は

どこまでも澄んでいた

源左衛門は

静かに語り始めた

越後の現状

上杉家の歴史

そして「謙信公」が

どのような人物であるか

彼は

謙信が

毘沙門天の化身であると

民に信じられていることを語った

「公のお力こそが

この越後の、そして民の希望にございます」

源左衛門の声は

切実だった

その言葉の一つ一つが

彼の心に

重くのしかかる

自分が神の化身

その言葉は

あまりにも現実離れしている

しかし

彼の内側にある

得体の知れない力や

失われた記憶の感覚は

その言葉を

完全に否定することを許さない

彼は

自分の胸に手を当てた

確かにそこには

強大な力が

静かに脈打っている

その力は

彼の知る限りの「自分」とは

かけ離れたものだった


源左衛門は

彼の困惑を察したように

さらに言葉を続けた

「謙信公は…

我らが越後の希望でございます

公のお力なくしては

この乱世を乗り越えることは叶いません」

彼の言葉には

深い信頼と

そして

重い期待が込められていた

その期待が

鉛のように

男の心にのしかかる

自分は

彼らの期待に応えられるのか

何も覚えていない自分に

果たして

そのような大役が務まるのか

彼は

この広大な屋敷の

重い空気に

押し潰されそうになる

しかし

その一方で

自分を必要とする

彼らの眼差しに

かすかな喜びのようなものを感じた

それは

自分が存在することの

唯一の証明であるかのように


夜が更け

男は一人

部屋の窓辺に立っていた

窓の外には

満月が静かに輝き

雪原を白く染め上げている

冷たい夜風が

開け放たれた窓から吹き込み

彼の頬を撫でる

その時

彼の脳裏に

再び白い椿の幻が鮮明によぎった

それは

雪の中で咲き誇る

ひどく儚くも美しい花だった

その花の中心に

一人の女の影が見えた

その女は

透き通るような白無垢を纏い

彼の名を呼んでいる

しかしその声は

風に掻き消され

届かない


「…契り…」


彼の唇から

無意識にその言葉が漏れる

その言葉が

彼の心に

微かな痛みと

そして

抗いがたいほどの切なさを刻んだ

その女こそが

彼が失った「綾丸」であり

そして

彼が「謙信公」として存在する

理由なのだと

本能的に理解した

彼女は

神との契約によって

彼を戦場に立たせた

自分の魂を削り

彼という「影」を生み出した

その「影」が

今ここに

人として存在している

それが

この過酷な運命の始まりであること

読者は、この過酷な結婚が何を意味するのかを理解する。

彼はまだ知らない

その契りが

どのような形で結ばれ

そして

どれほどの代償を払ったのかを

しかし

彼の胸の奥で

忘れ去られたはずの記憶が

かすかに疼き始める

それはまるで

雪の下で

春の訪れを待つ種のように

静かに

しかし確実に

目覚めの時を待っている

窓の外の白椋の木が

月の光を浴びて

静かに佇んでいる

その姿は

彼の心に

新たな謎と

そして

深い孤独を刻み込んだ

彼はまだ

自分が背負った運命の全てを知らない

しかし

その運命の歯車は

すでに

静かに回り始めていた

遠い過去と

遠い未来が

この雪深い越後の地で

重なり始めたのだった

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