2-4 名と血と、繋がる線

 九月九日──


 家の門扉が開いた瞬間、ふわりと漂う煮物の香りに、イオリは思わず足を止めた。

 秋の気配が混じる風に、温かな出汁の匂いが溶け合い、胸の奥がふっと和らぐ。

 夕暮れの住宅街は静かで、遠くの街路樹からかすかに聞こえる虫の声が、どこか懐かしい記憶を呼び起こすようだった。


 放課後、彼は再び白波美月の家へと向かっていた。

 数日前、夏の終わりの花火大会で彼女たちと過ごした夜以来、グループLINEでの軽いやり取りが増え、「また遊びに来て」と誘われたのだ。

 任務として始まったこの「観察」が、いつの間にか日常の一部になりつつある──その感覚に、イオリは薄く眉をひそめた。


 インターホンを押すと、すぐにドアが開く。


「おかえり、美月。そちらが……一之瀬くん?」


 玄関で出迎えたのは、美月の母だった。柔らかな笑顔と落ち着いた声。

 エプロンをしたまま、タオルで手を拭きながら丁寧に会釈する姿は、家庭の温もりをそのまま映しているようだった。


「はじめまして。一之瀬イオリです。おじゃまします」


 イオリは軽く頭を下げ、丁寧に答える。


「いらっしゃい。娘がいつもお世話になってるわ」


 その言葉に、美月が頬を赤らめて振り返る。


「や、やめてってば、お母さん……! そういうの、恥ずかしいから!」


「ふふ、ごめんなさいね。せっかくのお客さんなんだから、ちゃんと挨拶しないと」


 母娘のやりとりに、イオリはどこか懐かしさのようなものを覚えた。

 未来の訓練施設では味わえなかった、家庭の温もり。

 気取らない笑い声、日常のささやかな空気──それは、彼の心に静かな波を立てる。


 そこへ、弟のタケルが勢いよく顔を出す。


「お姉ちゃん、今日ゲームしていい? イオリにぃちゃんと!」


 タケルの目はキラキラと輝き、子供らしい無邪気さが弾ける。


「うーん、どうしようかな〜」

 美月はわざと考えるふりをして、くすっと笑う。


「ま、いいか。負けたらジュースね!」


「よっしゃー!」


 タケルは飛び跳ねながら、イオリの腕を軽く引っ張り、リビングへと誘導する。

 イオリは小さく微笑み、その勢いに流されるように足を進めた。


 家の中に一歩踏み入れると、白を基調とした内装に、木目の家具が並ぶ落ち着いた空間が広がる。

 窓から差し込む夕陽が、部屋を柔らかく染めていた。

 壁には家族写真が飾られ、幼い美月や両親、タケルの笑顔が並んでいる。


(……これが、家庭というものか)


 彼の育った施設にはなかった景色。無機質な部屋と任務の指示だけが日常だったイオリにとって、この温かさはまるで別の世界のようだった。


 ふと、視線がリビングの隅のガラス棚に止まる。そこには、古びた和紙に包まれた文書が、大切に飾られていた。


「それね、ひいおばあちゃんが書いた家系図なんだって」


 美月が横から何気なく説明する。彼女は棚に近づき、軽く指でガラスをなぞる。


「私の曽祖母、遠野ナギって言うんだけど……けっこう昔の人で、なんか記録とか大事にしてたみたい」


 ──遠野ナギ。


 その名前を聞いた瞬間、イオリの指先がぴたりと止まった。


(……遠野、ナギ……?)


 時空庁の記録データで、一度だけ見た名。自分の高祖母。

 つまり──美月の家が、彼自身のルーツと繋がっている可能性がある。


(白波家と、遠野家が……)


 任務当初は、白波家が時空間移動技術の開発者・宗像博士に繋がる可能性を探っていた。

 だが、自身の高祖母の名前がここで浮上するとは、まったくの想定外だった。


 呼吸が一瞬浅くなり、心臓が小さく跳ねる。だが、表情には出さないよう努める。


「……君の曽祖母、遠野って名字なんだな」


 それが、精一杯の言葉だった。


「うん。遠野ナギ。名前、ちょっとかっこいいよね」


 美月の屈託ない笑顔が、胸に鋭く刺さる。

 彼女は知らない。この家系図が、どれほど重大な意味を持つ可能性があるかを。


 その瞬間、脳内に微弱な信号が走る。


【時空犯罪抑制法 第8条:感情の記録と制御──違反兆候を検出】


 イオリは目を伏せ、時計型デバイスからの信号に心を引き締める。

 そのデバイスの震えが、冷静さを取り戻させようとする。


(冷静に。これはただの偶然かもしれない。まだ断定は──)


「ねえ、イオリ君。夕飯、一緒に食べていかない?」


 美月の声が、ふいに優しく差し込む。


 ──イオリ君。


 自然に名前で呼ばれたことに、一瞬、息を止める。

 彼女の声は、夕陽の柔らかさに溶け込むようだった。


「……あ、そういえばまだちゃんと呼んでなかったよね。わたし、これから『イオリ君』って呼ぶね!」


 美月は少し照れながら、だがはっきりと笑う。

 その笑顔に、イオリの心のどこかがふわりと緩む。


「……そうか」


 その甘さが、任務の境界線を曖昧にする。


「お母さん、イオリ君も晩御飯一緒にいいかな?」


 美月が振り返り、母に確認する。


「もちろんよ。お父さんが単身赴任で、女ばかりだから賑やかで嬉しいわ。遠慮なく食べてってね」


 母の温かな声が、部屋に響く。


「じゃあ……お言葉に甘えて」


 イオリは静かに頷き、言葉に迷いを隠す。

 その日の夕食は、イオリにとって初めての「家庭の食卓」だった。


 食前の「いただきます」の声が揃い、タケルの箸の持ち方を母が優しく指導する。

 美月はタケルとじゃれ合いながら、母と他愛もない会話を交わす。

 食卓には煮物の香りが漂い、湯気が立ち上る。

 そのすべてが、温かかった。

 まるで、ずっと前からこの家の、家族の一員だったかのように感じてしまう。


 だが、その安らぎの裏で、イオリの頭には警鐘が鳴り続けていた。


(白波美月の家系図が、遠野家に繋がっている──)


 その記録は、来たる震災で消失する。今この瞬間だけが、失われる前の真実を記録できる貴重な時間だ。


 彼の任務は単なる監視ではない。おそらく、それは“自分自身”の存在を守るためのものでもある。


(これは任務だ。私情を挟むな)


 そう何度も自分に言い聞かせる。

 だが、美月の何気ない笑顔──箸を手にしながらタケルに笑いかける姿、母と目を合わせて微笑む瞬間──が、その決意を静かに揺らがせる。


 彼女を守ることは、未来の自分の存在と記憶を守ることにつながるかもしれない。

 それでも、歴史を歪めるわけにはいかない。


 食卓の向こうで、美月がふと顔を上げる。


「イオリ君、煮物どう? お母さんの得意料理なんだから!」


 その声に、イオリは小さく笑みを返す。


「美味しい…」


 その一瞬、任務の重みが遠のき、ただ目の前の温もりに浸っていたいという思いが、胸の奥で膨らむ。

 だが、左手のデバイスが再び微かに震える。


【感情干渉レベル上昇中。制御を推奨】


 イオリは目を伏せ、深く息を吸う。

 任務か、感情か。

 その境界線は、静かに、だが確実に揺らぎ始めていた。


 夕陽が窓から差し込み、食卓を柔らかく照らす。

 美月の笑顔が、その光に溶け込む。

 その一瞬が、まるで永遠のように、静かに続いた。

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