1-3 潮風と屋上

九月二日 昼休み───

 

 転校してから、まだたった一日。

けれど、保護対象である白波美月について、少しずつ見えてきたことがある。


彼女は明るく、誰にでも臆することなく話しかける。クラスでは中心的存在のようで、教室のあちこちに彼女の笑い声が響いていた。人懐っこく、壁を感じさせない。周囲との距離感の取り方にも、自然な柔らかさがある。


教室の隅で、女子たちに囲まれて笑っている美月を、イオリは何気なく目で追った。

そんな彼の様子を、近くの男子がちらりと見やってくる。


「一之瀬くん、飯とか一人がいい系?」


 声をかけてきたのは、隣の席の高橋という男子だった。くせ毛を無造作に整えたような髪型に、少し抜けたような笑みを浮かべている。


「いや……慣れてないだけだ」


そう応じると、高橋はうんうんと頷きながら、机の上に弁当箱を広げた。


「そっか。まあ、あのテンションの中に入るのは勇気いるよな。美月たち、元気すぎるし」


 どこか茶化すような口調だったが、それは悪意のないものだった。イオリは小さく頷き、再び目線を教室の隅へ戻す。


(未来では……誰かと、あんなふうに話すことは滅多になかったな)


机を囲んで笑い合う女子たちの中心にいる彼女を横目に、イオリは静かに席を立つ。


その瞬間、背中にポン、と軽いタッチがあった。


「ねぇ!」


振り返ると、そこには笑顔の白波美月がいた。くるんとした髪が頬にかかり、楽しそうに目を細めている。


「一之瀬君、お昼ってどうするの? お弁当? よかったら、一緒に食べない?」


 突然の誘いに、イオリはわずかに言葉を詰まらせた。


「……弁当? いや、持ってない。別のものがあるから、それを食べるよ。一人で大丈夫だ」


そう返すと、美月は小さく口を尖らせた。


「え〜? 一人で食べるの? それ、楽しい?」


「……別に」


視線を逸らそうとしたときだった。


美月の後ろから、すっと顔を覗かせたのは、彼女と同じグループの一人だった。アイラインがくっきりした、やや大人びた目元の少女──生田ヒナだった。


「美月、連れてっちゃうの? それってもう、アピールじゃん」


「ち、違うし! ただのお昼だよ! ねっ?」


急にこちらへ振られ、イオリは戸惑いながらも答える。


「……そういう意味ではないと思う」


「でしょ〜!」


勝ち誇ったように笑った美月が、イオリの手首を軽く引いた。


「じゃあ、こっち来て! いつまでも教室にいたら落ち着かないでしょ?」


「……どこへ?」


「お楽しみに!」


有無を言わさず手を引かれ、イオリはわずかにたじろぎながらも後を追う。


階段の踊り場を抜け、最後の扉を開け放つと、まばゆい陽光と潮風が押し寄せてきた。


「……ここ、屋上?」


「そう!」


 美月は腕を広げてぐるりと回った。太陽を背にして風を浴び、心地よさそうに目を細めている。


「ここ、私のお気に入りの場所なの。晴れてる日は、キラキラしてて綺麗なんだよ。……ほら、潮の匂い、わかる?」


イオリは無言であたりを見渡した。


 眼下にはグラウンド、さらに遠くに広がる海。潮風が吹き抜け、屋上の柵がわずかに軋む音がした。


「……知らなかった。潮の匂いって、こんな感じなんだな」


美月が振り返る。風に髪が舞い、陽に照らされたその横顔は、どこまでも眩しかった。


「どうして、俺をここに連れてきた?」


問いかけると、美月は肩をすくめて笑った。


「んー、なんでだろ。よく分かんないけど、昨日からずっと気になっててさ。一之瀬君って、転校してきたばっかでしょ? だから、ちょっとお話してみたかったの」


「……迷惑だった?」


その声に、ほんの少しの不安がにじんでいた。


イオリはわずかに目を伏せて首を横に振る。


「……いや。迷惑ではない」


(観察という名目なら、むしろ──都合がいいかもしれない)


「よかった! じゃあ、座ろっか」


 二人は屋上の片隅、壁際の日陰になった場所に腰を下ろした。


美月は鞄から、二段の弁当箱を取り出す。フタを開けた瞬間、だしのいい香りが鼻をくすぐった。


「じゃーん。今日のメニューは、肉じゃがと卵焼き! あと、ウインナーのタコさん! かわいいでしょ」


「……それ、自分で作ったのか?」


「ううん、お母さんが。私、包丁持つと戦闘力ゼロになるタイプでさ」


笑いながら箸を動かす美月。その様子は、どこまでも普通で、どこまでも温かかった。


イオリはポケットから銀色のパックを取り出した。折りたたまれた保存食、いわば未来の栄養ブロックだ。


「……え、それ食べるの? それって非常食みたいなやつじゃない?」


「……まぁ、そんなようなものだ」


「うわー、味気なさそう……。それ、ちゃんと噛むと味するの? あったかくないでしょ? ごはんってね、もっとこう……ふわふわで、あったかくて、甘いの」


美月は肉じゃがを一口頬張りながら、ほっこりと笑う。


その笑い方に、イオリは視線を奪われた。開いた資料写真では感じなかった、“彼女の温度”がそこにあった。


明るく、よく笑い、よくしゃべる。


資料には「保護対象」「高リスク地域住民」「遺伝的有意性あり」といった文字が並んでいたが、今目の前にいる彼女は、ただの“ひとりの少女”だった。


「君は、……毎日ここで食べてるのか?」


「うん、気分がいいとね。あと、今日みたいに“気になる転校生”が来た時も!」


「……そうか」


 そのあとも彼女は、一方的に学校のことを話した。お気に入りの先生、苦手な教科、友達の恋バナ。生田ヒナのことも話題に出て、「あの子、なんか一之瀬君のこと気にしてるっぽいよ?」と茶化すように笑った。


 イオリは相槌を打ちながら、それらを頭の中で記録していった。


気づけば、保存食には手をつけないままだった。ただ、その空間の“温度”を感じることに、意識が向いていた──

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