笠鷺経済大学物語

万里小路 信房

第01話(全26話) 旅立ち

 昔々、飼い猫がまだ、家の内と外を気ままに行き来していたころのおはなし……。


 和泉ミサキは、段ボール箱に詰まった思い出を眺めていた。一つ、また一つと、七飯ななえ町の自宅の部屋が空っぽになっていく。高校の卒業証書は、すでに一番大きな箱の底に沈んでいる。春から通うのは、北海道を遠く離れた群馬県笠鷺かささぎ市にある笠鷺経済大学。漠然と公務員になりたいと考えていたミサキは、地域政策学部を選んだ。


「公務員は安定しているから」


 それが理由だった。特に学びたいことがある訳でもないし、将来の夢も見つからない。町役場の職員さんたちがどんな仕事をしているか、そのイメージも曖昧なまま、ミサキは「安定」という言葉に背中を押されるように進路を決めたのだった。

 両親はミサキの選択を温かく応援してくれたし、弟も「姉ちゃん、頑張れよ!」と送り出してくれる。その優しさが、旅立ちを目前にひかえたミサキの胸にじんわりと染み渡った。


「ミサキ、それ、いるもの? いらないもの?」


 母の声に、ミサキはハッと顔を上げた。手には、使い古したペンケースが握られている。高校入学の時に買った、ごくありふれたペンケース。それでも、その中には高校三年間の思い出が詰まっているような気がして、どうしても捨てられずにいた。迷いながらもそのペンケースは置いていくことに決めた。使い慣れた文房具一つにも、故郷を離れることへの寂しさが募る。


 足元で「にゃあ」という鳴き声がした。愛猫のイノシン酸が、頭を擦り付けてくる。白と黒の、愛らしいハチワレ猫。ふくよかな体を揺らしながら、ミサキの足元を八の字を描くように通り抜けていく。イノシン酸は、ミサキが小学校に上がる前に、近所の野良猫が産んだ子猫をもらってきた。


「イノシン酸、こっちにおいで」


 ペンケースを脇へ置き、ミサキはイノシン酸を抱き上げた。ずっしりとした重みが腕に伝わる。この温かさと、毛並みの柔らかさ。この子とお別れするのは、ちょっとつらい。


 七飯町は、豊かな自然に抱かれた美しい町だ。大沼公園の四季折々の移ろい、駒ヶ岳の雄大な佇まい。小さな頃から、それらはミサキにとって当たり前の風景だった。その慣れ親しんだ日常から、ミサキは旅立とうとしている。

 大学のパンフレットに載っている楽しそうなサークルの写真。でも別のページには中身のよくわかんない履修科目の名前が並んでいる。それを見るたびにミサキの胃は鉛のように重くなった。新しい生活への淡い期待と、未知への漠然とした不安が、ごちゃ混ぜになって胸を締め付ける。


「ずいぶん片付いたな。ミサキ、大学でも頑張るんだぞ」


 普段はあまり口数の多くない父の言葉に、ミサキは「うん」と力強く頷いた。

 

 夜、ミサキはベッドに入った。隣にはイノシン酸が丸まっている。静かな寝息が聞こえる。来週には、この部屋もすっかり空っぽになる。そして、ミサキは、笠鷺へと旅立つ。自分の選んだ道が、本当に正しかったのかどうか。まだ答えはまだ見つからない。目を閉じると、七飯町での思い出が次々と脳裏をよぎる。友達と笑い合った通学路、部活で汗を流した体育館、そして、家族と過ごした温かい日々。それら全てが、これからなくなってしまうような気がして、ミサキの胸は締め付けられた。




「ミサキ、ミサキってば! 起きてよ」


 荷造りをしながらうつらうつらとまどろんでいたミサキは、意識を一気に現実に引き戻された。耳元で聞こえるのは、愛猫のイノシン酸の声だった。夢とうつつの境目から、徐々に意識が覚醒してゆく。


「んん……イノシン酸? どうしたの?」


 ゆっくり目を開けると、イノシン酸が私の顔のすぐ横に行儀よく座っていた。光沢のある毛並み、琥珀色の瞳はいつもと変わらない穏やかさだ。

 北海道七飯町の三月下旬、夕暮れが迫り、西の空が茜色に染まり始めている。部屋の中はまだ暖房が効いているとはいえ、ひんやりとした空気が漂っていた。


「ミサキに会いたいって方がいるんだ」


 イノシン酸は、急かすようにミサキの腕を前足でトントンと叩く。私は寝ぼけ眼をこすりながら、ゆっくりと身体を起こした。


「え、誰が? なんで?」


 混乱するミサキをよそに、イノシン酸は有無を言わさぬ口調で言う。


「とにかく、来てよ。みんな集まってるんだからさ」


「みんな?」


 イノシン酸は、ミサキの返事を待たつこともなく、さっさとベッドから飛び降り、スタスタと部屋を出て、ドアの前で待っている。その尻尾が、ミサキの心のざわめきを誘うようにゆらゆらと揺れた。ミサキは急いで部屋着からデニムに履き替え、コートを羽織って彼のあとを追った。


 玄関のドアを開けると、まだ雪解けの匂いの混じる、ピンと張りつめた冷気が肌を刺した。西の空は茜色から藍色へと表情を変えてゆく。あたりは急速に闇に包まれつつあった。


 イノシン酸はミサキの足元をすり抜け、慣れた様子で住宅街の細い道を駆け出す。ミサキはその後を追うように小走りで進んだ。いつも散歩に行くのとは違う方向だ。向かう先は、この辺りの産土様を祀る小さな神社。普段は人もまばらで、夕方にはほとんど誰もいないはずの場所だ。


 神社の鳥居が見えてきたところで、ミサキは思わず足を止めた。雪の残る夕闇に溶け込む境内の奥、古びた拝殿の前に、ぼんやりとした影がいくつも揺れている。


「あれって……」


 近づくにつれて、その影の正体がはっきりと見えてきた。影は次々に形を変え、立ち上がったり座り込んだり、しっぽを振ったりしている。猫たちだった。


 イノシン酸はミサキを先導するように、猫たちの輪の中に入っていく。境内に足を踏み入れると、ざっと数えて二十匹はいるだろうか、毛並みも色も様々な猫たちが、一斉にこちらを振り返った。どの猫も、ミサキを一瞥すると、すぐにイノシン酸の方に視線を移す。彼らの琥珀色や瑠璃色の瞳はどこか思慮深い光を宿していて、まるでミサキを値踏みしているかのように感じられた。その視線に、ミサキは思わず息をのんだ。




 茜色の空が、古びた神社の杜を朱色に染め上げていく。毛並みも年齢も様々な猫たちの中で、ひときわ目を引く一匹の老猫がいた。その堂々とした体躯と、どこか人間めいた泰然自若とした雰囲気は、他の猫たちに畏敬の念を起こさせるようだった。彼らはみな、その老猫を囲むように静かに座り、その一挙手一投足を見守っているようだった。


将殿しょうでん様、ミサキを連れてきました」


 イノシン酸が、その老猫に近づいて言った。将殿と呼ばれたキジトラの猫は、大儀そうにゆっくりとまぶたを持ち上げた。その琥珀色の瞳は、西の空と同じ色を映しだし、遥か遠くを見据えているかのようだった。


「君がミサキか」 


 将殿の声は、まるで枯れた木の葉が風に揺れるような、しかし確かな響きを持っていた。


「上州の笠鷺に行くんだってな」


「上州?」


「群馬県のことだ」


 将殿の側にいた、すらりとした黒猫が説明してくれた。


「わしは上州で生まれ、この土地にやってきて長くなる」


 将殿が静かに語り続ける。


「ミサキ。君に一つ、頼みがあるのだ」


 その口調に、ミサキは無意識に居住まいを正した。なにか不思議なことが起きている感じがしている。


「なんですか?」


「君が行く土地に、織衛おりえという猫がいないか、探してはくれんか」


「織衛さん、ですか?」


 ミサキは首を傾げた。まさか猫から人探し、いや猫探しを依頼されるとは。思いもよらない依頼に、ミサキの思考は追いつかない。


「ああ、織衛だ。彼女はわしの幼なじみの猫だ」


 将殿の瞳には、遠い日の思い出が浮かんでいるようだった。黄昏の光が、彼の白いひげを金色に染め上げ、どこか切なげな表情を浮かび上がらせる。


「もうずいぶん昔のことになるがな。訳あって、離れ離れになってしまった。あの頃は、人間たちの世界も騒がしかったからのう……。もう一度彼女に会いたい。それがわしの唯一の心残りなんだ」


 将殿の声は、深く、そして重かった。その言葉の端々から、織衛への尽きせぬ愛情が感じられた。


「織衛さんは、どんな猫なんですか?」


「そうだな……、まるで雪のように真っ白い猫だった。右の耳の先だけが少し黒かった。性格は……、そうだな、気まぐれで、それでいてとても情に厚い、芯の強い少女だった」


 将殿は、愛おしむように、そして少し寂しそうに語った。ミサキはその言葉一つ一つを心に刻み込む。織衛さんは将殿さんにとって、とてもとても大切な存在なんだろう。この依頼の重さを、ミサキはひしひしと感じた。


「わかりました。むこうに行ったら、必ず探してみます」


 ミサキが力強く答えると、将殿はゆっくりと、そして深々と頭を下げた。猫がここまで丁寧に礼を言う姿を初めて見たミサキは、その真剣さに胸を打たれた。この老猫の願いを、自分がかなえたいと、強く思った。




 午前八時。七飯駅の小さなホームには、ミサキと見送りに来てくれた友人たちの話し声が、寒さに震える空気の中に響いていた。吐く息は白く、北海道の春は、まだ冬の気配を残している。みんな手袋をはいている。シンとした冷気が、旅立ちの寂しさを募らせる。


「ミサキ、あっちに行っても私たちのこと忘れないでよ!」


 ユリがいつものように冗談めかして言うと、ミサキは「忘れるわけないでしょ!」と笑い飛ばした。けれど、胸の中にはかけがえのない思い出と、別れのつらさが渦巻いている。


 地元の高校を卒業し、ミサキは群馬県笠鷺市の大学に進学する。地元を離れるのはこれが初めてで、期待と不安が複雑に入り混じり、ミサキの心は落ち着かない。


 それまで黙って話を聞いていた、ひときわ背の高いナナミが、ミサキに小さな包みを差し出した。


「これ、餞別。向こうで困ったことがあったら連絡しなね」


 ナナミは、ぶっきらぼうな口調ながらも、その瞳には優しい光が宿っていた。ミサキは包みを受け取り、ナナミの温かい心遣いに胸が熱くなるのを感じた。包みの中には、七飯のキャラクターである「ポントちゃん」のキーホルダーが入っていた。地元民は誰も持っていないゆるキャラのキーホルダー。手の中でナナミの優しさを感じる。


「ユリ、ナナミ、本当にありがとう」


 ミサキは感謝の気持ちを込めて深々と頭を下げた。


 やがて、遠くから列車の接近を知らせるアナウンスが聞こえてきた。


「あ、電車来た!」


 ユリの声に、ホームにいる全員が改札の方を見た。ゆっくりと入ってくる北斗行きの列車は、ミサキを乗せて旅立つ列車だ。レールと車輪のこすれる音が、別れの刻を告げている。


 ユリとナナミは「頑張ってね!」「体に気を付けて!」「寂しくなったらメールしてね!」と何度も声をかけてくれた。ミサキは涙で潤む目を擦りながら、二人の顔をしっかりと見つめ、別れの言葉を交わした。


 列車に乗り込み、窓際の席に座ると、二人が手を振っているのが見えた。ミサキも窓を開け、精一杯手を振り返した。列車がゆっくりと動き出し、友人たちの姿が小さくなっていく。ついに別れの時が来たのだと実感し、ミサキの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。故郷の景色が、見る見るうちに遠ざかっていく。


 しかし、感傷に浸っている時間はなかった。ここからが長い旅の始まりなのだ。


 列車は北の大地を順調に進み、約二時間後、ミサキは新千歳空港に到着した。新千歳空港は、たくさんの旅行客で賑わっていた。ターミナルビル特有のざわめきと、活気に満ちた人々の動きに、ミサキは少し圧倒される。搭乗手続きを済ませ、手荷物検査を終えると、ゲートへ向かった。この前は合格が決まってアパートを探すために母と二人で来たけど、今日は一人だ。これから始まる新生活への期待が膨らむ。


 搭乗時刻のアナウンスが流れ、いよいよ羽田へのフライトが始まった。飛行機は滑走路を加速し、ぐんぐんと高度を上げていく。眼下には、北海道の広大な大地が広がり、やがて雲の中に消えていった。


 約一時間半のフライトで、飛行機は羽田空港に到着した。空港内は人でごった返しており、人の波が押し寄せる。


 羽田空港からは、乗り換えの連続だった。モノレール、山手線、上信越新幹線……。慣れない人混みにもまれ、まるで巨大な渦に吸い込まれるような感覚に、体力の限界を感じ始めたころ、ようやく笠鷺行きの新幹線にたどり着いた。座席に深く身を沈めると、「ふう」と、身体中の力が抜けていくのを感じた。ようやく、ようやく目的地へ迎える。張りつめていた気持ちが、ゆっくりと弛緩していくのをミサキは感じた。

 新幹線は東京を出ると、あっという間に景色は田園風景へと変わっていった。遠くに見える山々は、これから住む群馬の山々だろうか。ミサキは窓の外の景色を眺めながら、新しい生活への期待に胸を膨らませた。


 隣に座った上品なおばあさんに「あら、学生さん? どちらまで?」と話しかけられた。「群馬の笠鷺市です」と答えると、「まあ、良いところよ。風は強いけど、人も温かいから」と優しく微笑んでくれた。その一言で、旅の疲れと不安が、少しだけ和らぐのを感じた。


 約一時間後、列車は笠鷺駅に到着した。ドアから出ると、吹き抜ける冷たい風がミサキの頬を撫でた。


「強い風……」


 ミサキは思わず呟いた。北海道の湿り気を含んだ冷気とは違う、乾いた冷たい風。風は強く、時折体を押し戻されるような感覚に陥る。しかし、それはどこか新天地の洗礼のようにも感じられた。将殿との約束、そして新しい大学生活。不安もあるけれど、それ以上に笠鷺に到着した喜びが、今は勝っていた。


「よし、ここからがスタートだ!」


 ミサキは改めて決意を固め、大きな荷物を引きずりながら改札へと向かった。

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