第5話 妙蓮寺の改札を出ると
台所シリーズ 第3部 「台所がせかいをかえる」
――妙蓮寺―― 第4話 妙蓮寺の改札を出ると
1 そろばん
孫たちを連れて飛行機に乗り、母の住む横浜で一泊したのは、ほんの一週間前のことだった。
変わらぬ母の明るい表情を見て安心し、岩見沢の自宅に戻ってからは、ようやく落ち着いた時間を過ごしていた。
そんなある日──ヒロにいちゃんから電話がかかってきた。
「電話じゃ、わからないよ」
――真剣な声だった。
いとこのヒロにいちゃんから、北海道に住む響香に電話があった。
母とは先週会ったばかりだと伝えると、ヒロにいちゃんは、ますます驚いたようだった。
――突然だけど、横浜の実家に行くことにした。
せっかくだから──
伸子さんと話した“妙蓮寺の井戸”の場所を、もう一度、たずねてみたいと思った。
当たり前のことだけど、もう妙蓮寺駅に伝言板はなかった。
かつてその風景を知っていた人は、いまこの駅を行き交う中には、もうきっといないはず。
線路のすぐそばに、ぎりぎりで並ぶ小さな商店と、細い路地。
人がひとり、ようやく通れるだけの道幅が、なぜか胸をしめつけるように、郷愁をさそう。
駅前には──「おでんの具専門店」。
そんな珍しいお店が、いまもちゃんとある。
──50年前も、たしかにあった。
でも、子どもの頃の私は、妙蓮寺しか知らなかったから、
どこの町にも「駅前におでんの具専門店」があるものだと思っていた。
白いポリ袋に詰められた800円のおでん。
わりとたっぷり入っていそうな袋が、棚の前に3,4個並んでいた。
哲郎が先を歩いていくのに気づいたけれど、私は店の人にたずねてみた。
「すぐ売り切れちゃうけど、3時にはまた出来立てが出ますよ」と。
10歳の頃、ガラス棚の上なんて遠くて見えなかった。
あそこは“想像の世界”だった。
その棚を、今はこうして見下ろしている。
そこには、100年ものの大きなそろばん。いまも現役らしい。
ランドセルに小さなそろばんを入れて通っていた私には、
この見たこともないサイズのそろばんは、ちょっとした“衝撃”だった。
ダイヤモンドのように削られた木の珠。
深い黒で、光沢があり、まるで毎日磨かれているかのよう。
心棒で規則正しくつながれ、棒にはめ込まれている。
木枠には釘が使われていない。
きっと木組みで作られているのだろう。
まるで、古来から受け継がれた職人技のような──芸術品だった。
子どもの頃に見た視線の高さでもう一度見たい、と思ったが、
振り返ると、哲郎はもうずいぶん先へ行ってしまっていた。
店番をしていたのは、40代くらいの女性。
まだ若いのに、あの100年そろばんが、すごく似合っていた。
この人ともっと話したかったけれど──
哲郎は遠く先にいて、私はあわてて小走りで追いつく。
2 ラーメン店と妙蓮寺ニューキャッスル
哲郎はスマホ片手に、昼ごはんによさそうな店を探していた。
「変にガイドブックに載ってる店より、ふらっと入ったほうが、きっといいよ」
そう言ったとおりだった。
ふたりで、ラーメン屋の赤い暖簾をくぐる。
かなり前の“B級グルメ”のポスターが貼られた壁に、7席のカウンターと、テーブルがふたつ。
ひとりで店を切り盛りする店主の手際もよく、
店内には昭和の空気がそのままコーディネートされていた。
ラーメンを食べ終え、井戸のある駅側には戻らず、少し菊名寄りに歩く。
やがて、鉄道の高架下をくぐり、かつて住んでいた“妙蓮寺ニューキャッスル”へ向かった。
高架の上を走る東急電鉄。
近代資本主義の礎を築いた渋沢栄一──
新しいお札の顔にもなったその名を、この沿線でふと思い出す。
彼の偉業に比べれば、この鉄道などほんの一端にすぎないのだろう。
けれども、その精神は今も、この地域の暮らしを確かに支えている──
そんな気がした。
高架を見上げながら、ふたりで歩いた。
目指す“妙蓮寺ニューキャッスル”は、7階建ての大きな建物のはずなのに、
その10分の道のり、一度もその姿が見えなかった。
記憶に鮮明な、あの信号機が視界に入る。
そうして、ようやく、その建物が姿をあらわす。
響香の住む岩見沢では、6階建て以上の建物なんて、まず見かけない。
だから、50年前に建てられた“コの字型”のマンション──妙蓮寺ニューキャッスルは、
まるで──要塞のように見えた。
3 信号機と三角公園
記憶に鮮明な、あの信号機。
その横断歩道でわたる道こそが、綱島街道。
もともとは、江戸時代の大動脈「旧道」。
それが昭和以降に直線化・拡幅され、「新道」として整備されたのだという。
──そんなことも、伸子さんとの話のあと、スマホで調べて、はじめて知った。
そして、要塞のようにそびえる妙蓮寺ニューキャッスルの前には、
今もあのときのように、小さな三角公園がある。
よくあんな場所で、20人近い子どもがラジオ体操を同時にできたものだと、首をかしげるほどの狭さ。
遊ぶと叱られた駐車場。
警察と泥棒ごっこに夢中になった、あの長い廊下。
響香は、そういう“怒られる遊び”の常習犯にはなれなかった。
疎外感と、一度混ざってしまったときの罪悪感。
忘れていたはずのその両方が、ふすふすと胸の奥で思い返した。
妙蓮寺ニューキャッスルを背にふりかえると、そこに見えるのが──あの信号機。
ここですごした時間、いったいどれだけ、あそこに立っていただろう。
ランドセルを背負って、ぼんやり眺めていた信号機。
ニューキャッスル、小学校、おばあちゃんの家──
どれも、この信号を渡ることのない場所にあった。
信号を渡れば、駅へと続く、長くのびる“学区外”の世界。
私は、放課後の“かぎっ子”。
あの信号の前で、いろんなことを考えた。
三角公園には、あの子がいる──
グラウンドには、あのいじめっ子がいるかもしれない。
「どうしたの?」と叔母に聞かれても、うまく答えが見つからない。
そんなふうに思いながら、幼い響香は信号を渡った。
母が帰ってくる駅へと、歩いていった。
……あの信号機を見ていたら、ことばがひとつ、生まれた。
「ぐるぐるぽんちき」
そう。
この日から、妙蓮寺ニューキャッスルの前の信号機を、
響香は「ぐるぐるぽんちき」と呼ぶことにしたのだった。
そして、時おり──
こころの中で、その「ぐるぐるぽんちき」にそっと灯をともして、
くすっ、と笑う。
4「帰り道、わかるの?」
哲郎は、もちろん妙蓮寺に土地勘なんてない。
でも、いつも通り、先導役をしてくれる。
もし哲郎がいなかったら、私はきっと、駅前のおでん屋と唐揚げ屋だけ見て、
満足して帰ってしまっただろう。
優秀なタイムキーパーに感謝。
まだ、たったひとつの信号機。
「帰り道、わかるの?」
その言葉で、意識が過去から現在に戻る。
哲郎はちらっと時計を見て、スマホのナビをセットした。
駅から妙蓮寺コーポラスへの
唯一の信号機。
妙蓮寺コーポラスの信号機をわたる。
なぜ、もっと早くこの「ぐるぐるぽんちき」を認識しなかったのか。
そんなことを思いながら、
今はただ、懐かしい風景の中を帰っていった。
5「かえりみちわかるの?」パート2
「かえりみち、わかるの」
哲郎の声で、われにかえった。
信号機を渡る。
行きとはちがう道を通る。
「妙蓮寺への道は、100通りあって、どれを選んでも迷わない」
「ぐるぐるぽんちきの信号」を渡って、響香はそう言った。
自分の中から出た言葉なのに、不思議だった。
──100通りあって、どれを選んでも、まよわない。
「それって、どういうこと?」
自分でも、なんでそんなふうに言ったのか、ちょっとだけ首をかしげた。
哲郎のあとを、小走りに数歩すすむ。
細いコンクリートの、ゆるやかな階段に向かって。
「こっちでいいの?」
「大丈夫。そっちでも」
──六つ、七つの自分が、この中にいるのだから。
そう言いきかせるように、哲郎にこたえた。
信号の先の、小さな階段をわたりきらないうちに、気づいた。
響香が「まよわない」と言った理由。
この、方向音痴の響香でも、妙蓮寺へは絶対まよわない。
妙蓮寺への行き方も、100通り。
それも、わりと本当。あみだくじのような細い道。
そのどれを選んでも、最後は妙蓮寺。
だいじょうぶだ。
足のつま先を見る。大丈夫とわかって、あたりを見まわす。
──過不足なくという、美しさ。
ここには、ずっとそんな美しさが息づいていた。
50年前は、どこもみんな、こんな風景だったと思っていた。
でもちがった。
この美しさは、ここにしかなかったんだ。
「こっちを、ひだり?」とまた哲郎。
「だいじょうぶ。この道は、ひとりでよく歩いた道」
もしかしたら、誰かと歩くのは、響香ははじめてかもしれない。
母とは、ちがう道を通って帰ってきたから。
足に少しだけ、力が入る。
それで、自分たちが最短コースから少し外れているのがわかる。
──そう、くだればいいのだ。
石ころのように、くだればいい。
一番下にあるのが、妙蓮寺。
水の流れに身をまかせれば、最後は妙蓮寺に引きこまれる。
あっちに行けば、犬に会える。
こっちに行けば、○○印のコンクリート。
今日も、みかんがみずみずしく色づき、光を受けている。
木々の緑も正直だ。南側だけ、どれも青緑の葉をつけている。
独身者向けの2階だてアパート。
三世代が肩を寄せ合って暮らしていそうな、庭の広い一軒家。
田園調布にありそうな、立派なガレージつきの邸宅。
まるでテレビのセットのように、現役のまま肩を並べている。
その隙間には、世話の行き届いた鉢植えの花。
──50年前にも、あそこにあった気がする。
外階段のかたちは、そのまま。
それだけでも胸に飛びこんでくるのに、
そのすべてが、まるで築2、3年に見える。
錯覚だ。
壁だけを知らん顔で塗りかえて、「新築よ」とでも言いたげに、
静かに立っている。
いろんな人が、この狭い空間で、
帯広の農家一軒分くらいの広さで、寄り添って暮らしている。
誰もが、あの鉢や、あの庭で、
四季を感じて、ちゃんと暮らしている。
──この道は、住んでいる人たちの道。
本当は、通るのも、少しあつかましいのかもしれない。
でも、50年前のよしみで。
少しだけ、たのしませてもらってた。
ふたりは、妙蓮寺にたどり着いた。
井戸は、今もなお、水をたたえていた。
そこには、もう言葉はいらなかった。
境内の静けさを抜けたその瞬間、
遮断機が下り、カンカンと警報が鳴りはじめた。
ふたりを乗せた電車は、おでんとともに、
ゆっくりと菊名を過ぎていった。
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