第五章 対面開始

 伊豆史桜が目を覚ましたのは、その日の午前中だった。

 保護されてから数時間。

 意識が戻った直後で、状況を把握し切れていなかったのだろうが、担当医の沙也香に対して最初はわりと普通に話をしていたらしい。

 三朝から楠本京介が面会を求めていることを聞いていた沙也香は、今ならと判断して彼を病室へ通した。

 ところが史桜は、京介の顔を見るなり震えだし、発狂せんばかりに取り乱したのだという。昨夜の出来事を思い出したのだろう。

 沙也香は史桜が取り乱すたびに鎮静剤を投与し、まず彼女の体を休めさせた。何とかまともに話しができるようになったのは3日目のことだった。


   1


「ひとまず整理をしてみようじゃないか」

 腕組みをしてホワイトボードを眺めながら山本が言った。ホワイトボードには宏司が書いた字と被害者たちの写真が並んでいる。これまでの事件の概要について説明したあとだ。

「3月の半ばに1人目、ついで4月半ば、5月半ば、6月半ば。全員が繁華街で消息を絶って、同じ犯行手口で殺されている、と。つまり同型のナイフで刺され、暴行されている現場の写真が残されていた。で? 高校生から社会人までと年齢の幅はあるが、全員が若い独身女性で、背格好は似通っていると……」

 司令室のテーブルについている3隊メンバーと山本へ、秘書官の奈緒が2杯目のコーヒーを入れてそれぞれに差し出した。彼女は各人が好む砂糖とミルクの量を心得ていて実に見事に入れ分けている。そのコーヒーを一口飲むと、幌が話し始めた。

「しかし、今回の伊豆史桜さんの事件に関しては大きく違う点がいくつかあります。まず前回の事件からわずか3日で次の犯行に及んでいること。そして」

 幌は犯行現場など、これまでの事件との犯行の手口の違いについて、聞き込みで得られた証言や現場の状況などの根拠を交えて順序よく説明していった。腕を組んだまま、山本が幌を見つめて真剣に話を聞いている。聞きながら頭の中でその内容を整理しているみたいである。

「人気のない住宅地を1人歩きしていた伊豆さんを狙っているというのは、その……」

 言いにくそうに語尾を濁す。山本も察したようで続きを求めはしない。三朝も宏司も黙っていた。

「いいから、言えよ」

 隼人が促した。そう言われても……とためらっていた幌だが、隼人がうなずくのを見て、意を決したように言った。

「つまり、これは伊豆さん本人を明らかに狙っている事件だと考えていいと思います。伊豆さんが、一連の事件を追っている我々3隊の、椎名主任の関係者であることは偶然だとは思えません。伊豆さんが主任の関係者であるからこそ、襲われた、と見る可能性の方が……」

「……そうだろうな、隼人には辛いことだが」

 山本が低い声でそう言うと、誰も何も言わなくなった。ポットが湯を沸かしているゴボゴボという音が司令室のすみから響いている。

「わからないのは……」

 隼人が口を開いた。全員が隼人を見る。

「今までの事件は何のためだったのかということです。今回、伊豆史桜を狙ったのはおそらく自分に何か恨みとかいった個人的な感情を持っているからでしょう。けれど、だったら初めから彼女を狙ってもいいはずです。なにも4人も若い女ばかり殺さなくても……」

「うむ、そうだな。これまでの事件にも何か意味があるのか、それとも……犯人の本当の目的は隼人ではない、ということなのか」

 山本の言うことを、三朝はじっと聞いていた。

 そうなのだ。史桜が襲われたからと言って、隼人への恨み辛みで犯行を犯しているとは言い切れない。むしろそんな単純な事件ではないという予感の方が強いくらいだ。だとしたら、犯人はいったい何を考えているのだろうか。

 もちろん、今の三朝にはわかるはずもない事だった。

「それで、その被害者の女性からは事情を聞けそうなのか?」

 山本の言葉で場の空気が一瞬止まったような気がした。誰もがあえて避けていた質問といってもよかった。

 受けるのは三朝だった。

「体調も精神状態も落ち着くまでは許可は出せないと主治医が言ってますので、もうしばくはかかるのではないかと思います」

「そうか、一刻も早く話を聞きたいものだな。なにしろ……」

 山本が言いかけたところで司令室の電話が鳴った。内線からの呼び出し音だ。応対した奈緒が受話器を置くと、山本に向き直った。

「秘書の方からです。次の会議の時間なのでエレベーターホールへお願いします、とのことです」

「ああ、もうそんな時間か。それじゃあ引き続き、捜査の方は頼んだぞ。三朝は無理しないようにな」

 イスから立ち上がり、山本が部屋を出ていく。メンバーも全員、立ち上がって送り出した。

 パタンと扉が閉まる。部屋の空気が重い。奈緒がコーヒーカップを片づけるカチャカチャという音がやけに空虚に響く。宏司が腰に手を当て、うーんと声に出して伸びをする。隼人は再び座り込み、タバコに火をつけている。幌もイスに腰を下ろし、斜め下に視線を向けたまま黙っていた。

 白々しいくらい、誰も誰かと目を合わせようとしない。うつむいたり、天井を見上げてみたり。三朝だけが部屋にいるメンバーを見渡していた。

「あの」

 声を出してみる。幌も宏司も三朝に目を向けただろう。三朝自身は、灰皿に手を伸ばしてタバコの灰を落としていた隼人と目が合った。

「なんだ?」

「足のケガなんですけど、もうそろそろ通常業務に復帰しても大丈夫だと秋川が言うんですけど」

 三朝から目をそらし、口にくわえたタバコを吸い込む。タバコの先が赤くチリチリと燃える。隼人はまるで都合の悪いことを言われている時のように、故意に三朝に横顔を向けていた。

「いつ?」

「……いつ?」

「いつ言われたんだ?」

「今朝です。楠本さんがいらしてるときに」

 そう言うと、隼人はあきらめたように何度か軽くうなずいた。

「じゃあ、今日の夜の外回りからついて来い」



   2


 伊豆史桜から話を聞く、というのは3隊にとってはある意味で鬼門だった。

 隼人と三朝の関係は全員が知っている。そして隼人と史桜の関係も、わざわざ問いたださなくても明らかなことだ。

 婦女暴行事件の被害者から事情を聞くのは女性捜査官の方が適当だろう。つまり3隊なら三朝が。けれど史桜は隼人の元恋人だ。その元恋人が被害者という弱い立場で現れ、三朝は刑事として接して行かねばならない。その辺の事情を考察すると、幌や宏司はさぞ複雑なモノを感じていると思う。

 だが三朝にとって気がかりなのは自分と史桜との対面ではない。隼人と史桜の対面だった。

 沙也香によると、隼人が病室に駆け込んできたときはすでに史桜の意識はなかったという。本当の意味での史桜と隼人の再会はまだのはずだった。意識がハッキリして目が覚めた時、隼人を間もあたりにした史桜はどんな反応をするのか。隼人はどう答えるのか。

 さっき事情を聞いた楠本京介は『史桜と付き合っているわけではない』と言っていた。史桜と京介の詳しい事情など分かろうはずもないが、ひょっとしてそれは史桜の中に誰か他の人物がいるからではないのか。そして、その人物とは他ならぬ隼人なのではないか……まさか、と否定しきれない自分がいる。

 もしその通りだったとしても何を思うことがある? 隼人が応えるとでも? それこそ、まさか、だ。隼人自身「心配するな」と言っていたし、三朝だって心配はしていないつもりだ。

 そうだ、余計なことは考えなくていい。そもそも隼人の元恋人だろうが何だろうが、刑事なんだから私情を交えずに接しないければいけない。プロなんだから。

 そう思って三朝は苦笑いした。プロなんだから。まだそんなことを心の中で唱えている。そう自分に言い聞かせているうちはプロじゃない。刑事として接しきれないかも知れない、というのが恐いのだ。きっと。

 助手席で考え込む三朝を隼人がうかがう気配がする。

 振り返って、笑ってみせる。隼人は顔色を変えずに前に向き直り「公務に復帰できるのがそんなに嬉しいかねぇ」とため息混じりにつぶやいた。


   3


「じゃあ、今夜は?」

「えー、今夜はって……長野さんは大丈夫なんですか?」

 口元に手を当ててクスクスと含んだように笑う。彼女を追いつめるようにして壁に手をついた幌は「なに言ってんのー」と、息を詰めて強調した。

「大丈夫だよ。今日は早番だったからさ。どうせ今は聞き込みばっかりで交代制だしね。だからさー」

「えー、でもぉ……」

「なに? ごはん食べに行くだけだって。もちろん、それから先もご希望なら、だけど」

「ご希望ですか?」

 おかしそうに笑う。その笑い方がなぜだかイヤらしく見えるのは、やっぱり幌の方が悪いのだろうか。

「いい?」

 幌がそう言って更に事務の女の子に詰め寄りかけたとき、人気のなかった廊下の向こうから誰かの足音がしてきた。幌も彼女もとっさに体を離す。幌はうつむいて歩いて来るその人影を見極めると、「じゃあ考えといて」と彼女の肩を叩いて身を翻した。

 すぐ近くまで近寄ると、その人物ははじめて幌に気づいたように顔を上げた。

「ああ、幌さん」

「どこ行ってた? こっちから来るって事はまた医務か?」

 並んで歩き始める。三朝は首を横に振った。

「いえ、ちょっと通信部に。幌さんは?」

「や、タバコが切れたからさ。そこの自販機にタバコ買いに来ただけ」

歩きながら廊下に置かれた自販機を指さす。さっきまで女の子を追いつめていたあたりだ。三朝はその自販機を振り返りながら、

「へぇ。あの自販機ってマルボロはなかったですよね。けどポケットに入ってるのはマルボロなんだ」

 と意地悪く言って笑う。幌のポケットには封を切って1本吸っただけの新しいパッケージが見えている。

「本部でナンパは控えた方が良いんじゃないですか」

「ナンパだなんて人聞きの悪い」

「女の子を夜に誘うのはナンパって言うんですよ。本部なんて人目が有るんですから。どこから誰が見てるとも知れないのに」

 歩くウチに階段に差しかかった。三方を壁に囲まれているため、声が少し反響する。

「誰に見られたっていいだろ。ただ話ししてるだけなんだから」

「そりゃ本部の中じゃなかったらまだいいかもしれませんけどね、立場ってものがありませんか? いま担当してる事件がナンパを発端とした連続殺人なんですよ。仮にもそのマスターセクションの人間が……」

「仮にもって言うなよ」

「ああ、すみません。そう意味じゃなかったんですけど……」

 司令室のあるフロアまで階段を上かり、また廊下を歩く。でかい建物が職場というのも考え物だ。どこに行くにもいちいち遠い。

「なんかおまえ、イラついてる? ひょっとして」

 言ってすぐ図星だと分かった。三朝がほんの一瞬硬直した。

「大丈夫か?」

「大丈夫ですよ。大丈夫」

 そう言ってうなずく。幌は思わず吐息をついた。

「だから、言い聞かせてるウチは大丈夫じゃないんだって。どうせ主任のことだろ?」

 三朝は答えなかった。黙っているのは肯定したのと同じだ、とよく言うがそれは違うと思う。三朝は図星されたと言うより、答えあぐねている。隼人のことなのか、史桜のことなのか、自分のことなのか。

「あの人はちゃんと話してくれたのか?」

「はい、っていうか自分から言っちゃったんですけど。そしたら『大学の時のな』って言ってました」

 そうか、と幌はうなずいた。三朝もうなずく。

「これはすごい言いにくいけど」

 幌がそう言うと、三朝が自分に視線を向けたのを感じた。

「けっこう深い気がするぞ、あの2人は。そりゃ今は付き合いないかも知れないけど」

 三朝は目をそらし、ため息をついた。「そうなんですよね」とつぶやく。

「もともと恋愛体質じゃない人ですからね、あの人は。好きになったらそれこそ、って気はするんですよね」

「だろうな」

「ああ、アタシの事を言ってるんじゃないんですよ。今までの事を言ってるわけで」

「おまえが一番あてはまってる気がするぞ」

 三朝は一瞬言葉をなくし、「そりゃー、そうだったら嬉しいですけどね……」と口の中でモゴモゴと言った。

「どっちかって言うと、自分が恐いんでしょうね」

「なんで?」

「もし本当にあの2人が深かったとして、それを目の当たりにするのが恐いんです。多分。再確認しちゃうから。隼人のことは信じているつもりですけど」

「ああ、隼人って呼ぶんだな。普段も主任って呼ぶのかと思った」

 三朝はしまったと幌を見た。幌はまさかな、と笑ってみせる。

「まあここだけの秘密って事にしといてやるよ」

「……そろそろ事情が聞けそうなんですよね。沙也香によると」

 気が重いな、とでも言いたげにため息をつく。

「普通にしてればいいよ」

「はい」

 三朝は一応うなずくと、やっとたどり着いた司令室の扉に手をかけた。



   4


「ああ、帰ってきた」

 司令室に入ると沙也香が真正面に立って三朝を見ていた。あとは奈緒が書き仕事をしているだけで、隼人も宏司もいなかった。

「行こう」

 それだけ言うと三朝と並んで戸口に立つ。どこへ何しに行くのか、聞かなくてもわかってしまう。

 三朝は短く息を吐くと、黙ってうなずいた。

 幌と歩いてきた廊下を逆戻りする。沙也香は白衣のポケットに両手を突っ込んで、うつむき加減に数歩前を歩く。

「椎名さんは先に行ってるよ」

 思わず顔を上げ、立ち止まってしまった。


 ベッドに座ったまま、史桜は側にいた看護婦を見上げた。

「あの、担当の刑事さんて、やっぱり男の方ですか?」

「ええ、女性の方もいらっしゃいますけど。もうすぐお見えになると思いますよ」

 看護婦は一瞬だけ怪訝な顔をして笑った。そしてまた仕事に戻る。史桜はうつむき、思わずシーツを握りしめた。

 意識が戻ってしばらくしてから、ここがJPOだという事を担当医から聞いて知った。よりにもよって。彼がここで働いている事は知っている。もし、万が一自分の事件の担当が彼だったら……いや、そうでなくとも、きっともう自分のことは耳に届いている。あんな、あんなひどい目に遭った自分のこと。

 この数年どんなに会いたかったか知れない。けれど、こんな状況で再会したくない。自分とは無関係なぜんぜん見知らぬ刑事が訪ねてきてくれればいい。

 ある意味で予想通りというべく、その願いは聞き届けられなかった。ドアをノックして入ってきたのは隼人だった。

「椎名くん……」

 看護婦がそっと仕切りのカーテンを開けて出て行った。言うべき言葉が見つからないのか、隼人はうなずいただけでベッド脇の丸イスに腰を下ろした。


 史桜はおびえたようにシーツをたくし上げてうつむいていた。心なしか隼人から目を反らそうとして壁の方を向いている。昔はもう少し長かった毛先に少しだけクセのある黒い髪を、今は首筋のあたりで不揃いに切ってある。よくよく見てみると、その首筋にも赤黒いアザが転々としていた。

「俺でも恐いか?」

 隼人がそう言うと、史桜はゆっくり顔を上げた。はじめてきちんと目が合う。しかし、史桜は辛そうな顔をしてすぐに目をそらした。

「……そうか」

「ちがう」

 史桜がかすれた声でそう言った。

「こんな、こんな形で会いたくなかったから……」

 声を震わせながら完全に体を背けた。胸の内に刺すような痛みを覚え、隼人もうつむいた。

 そこにドアが開く音がした。

「主任」

「入れ」

 隼人は立ち上がって三朝を見た。険しいでもなく、穏やかでもなく、無表情でもない、複雑な表情をしたまま、三朝はドアを閉めてベッド脇に立った。

「後は任せる」

 隼人は低い声でそう言い残し、三朝と入れ替わりで部屋を出た。


「担当の立樹といいます」

 名刺を差し出すと、史桜はそれを受け取って頭を下げた。

「そんなに警戒しないでください」

 三朝が笑って見せると、史桜もなんとか笑い返した。

「伊豆さんの事件は我々マスターセクション第3隊が担当することになりました。先ほどの椎名主任が陣頭指揮を取ります」

「そうですか」

「主任とは学生時代にご一緒だったそうですね」

「ええ」

「主任から伺いました。ほかに男性捜査員が2名ほどおりますが、伊豆さんから直接お話を伺うのは私の役目になってます。女性は私しかいませんから。困ったことがあったり、相談したいことがあれば言ってくださいね」

「ありがとうございます」

 三朝はうなずき、史桜から目をそらした。

「実は最初にお話しておかないといけない事があるんです」

 史桜が顔を上げる気配がした。

「私たち3隊は今、ある大きな事件の捜査を担当しているのですが」

「知ってます。ニュースでよく流れてるあの事件ですね」

「そうです。ご存知のとおり、まだ解決には至っていませんし、お恥ずかしながら犯人に関して大きな手がかりというものも掴めていません。現在も数十人体制で捜査を進めているところです」

 史桜はうなずき、また目をそらした。

「その我々が伊豆さんの事件を担当する、というのは……はっきり申し上げます。3隊では、この事件もあの連続事件の一端だと判断しているんです」

 史桜が意外そうな顔をした。

「でも、」

「はい。被害に遭われたといっても、伊豆さんはこうして保護されていますよね。ほかの被害者の方は全員、無残にも殺害されて発見されました。それでも、この事件と今までの事件には関わりがあるはずなんです。おそらく主犯は同一人物でしょう。その詳しい理由は言えないのですが……ということはです。伊豆さんは犯人を見た唯一の証人になりうる、ということなんです」

 うつむいたまま、史桜は何も言おうとしなかった。

「伊豆さんには非常につらい事だというのは我々も十分承知していますが、解決を急ぐために、この事件について詳細に証言していただきたいんです。覚えている限りの事を、それも早急に。ご自身が辛いような、ひどい目に遭われたその体験について克明に証言していただく必要はありません。ただ、犯人の人相や体格、事件に遭われた時の状況、犯人が交わしていた会話など、覚えている限り教えていただきたいんです」

 三朝はじっと史桜を見つめた。三朝を見ようとせず、うつむいて手にシーツを握っている。きっと頭の中では事件当夜に目にした光景が甦っているのだろう。思い出す、それがどんなに苦しいことか少しは分かるつもりだ。少なくとも辛そうに歯噛みする彼女の顔を見れば。いきなりすべてを話せと言われても、今日すぐにできる話ではないと思う。そう思って諦めかけた時だった。

「あの晩は……」

 三朝はそらしかけた目をわずかに見開き、再び史桜を見た。

 楠本京介と駅で別れてからの自分の行動、その夜あったことを、順を追って語った。うつむいたまま、ぽつりぽつりと。顔色を変えず、淡々と、まるで本でも朗読するような口調。

 三朝は彼女を見つめたまま、じっと聞いていた。カーテンの向こうに待機させた警官がこの証言の記録を取っているはずだ。

「気がついたらここで寝ていたんです」

 史桜はそう締めくくり、ひとつため息をついた。彼女の証言は、聞き込みや楠本京介からの聴取で3隊が得ていた情報と一致していた。

「犯人の顔は覚えていますか?」

「うろ覚えです。見ればわかる人もいると思いますけど」

「見てもわからない人もいますか」

「運転していた人と、それと」

「?」

「もう1人は分からないかも知れません」

「全部で4人でしたね。その『もう1人』というのは、あの……何をしてましたか」

 三朝がそう聞くと、史桜は一点を見つめるようにして動きを止め、首を横に振った。心なしか唇が震えているように見えた。

「じゃあ、犯人、とくにその『もう1人』が口にしていたことを覚えていませんか」

 その質問にも史桜は首を横に振った。三朝はうなずき、最初に見せたような笑顔を浮かべた。

「わかりました。この辺にしておきましょう。また、お話をうかがうことになると思いますけど」

「あの……」

 三朝が立ち上がりかけると、史桜は突然顔を上げた。少しの間、史桜は何か言いたげに三朝を見上げていた。けれどまたうつむいて、いえ、と短く言っただけだった。

「……椎名主任、お呼びしましょうか」

「いえ、いいんです」

 三朝はまたうなずき、そして部屋を出た。


 医務の廊下に出ると、記録を取っていた警官と沙也香が待っていた。三朝は警官に声をかけ、3隊司令室へ聴取の報告に行くように指示をした。

「なに、最後の一言は」

 警官が去っていくと、怒ったように三朝を見つめて沙也香が言った。

「別に他意はないよ?」

「まさか、とは思うけど。また同じ事しようとしてない?」

「してないよ」

「本当?」

「今度は出来ないと思うから」

「それならいいけど」

 沙也香はふっと笑うと、白衣のポケットからタバコを出した。

「まだ吸ってるの? マルボロのメンソール」

「本数はだいぶん減ったわよ」

 『職業柄ね』と付け足し、ジッとライターの火をつける。三朝は『だったらやめれば』と言いながら脇を通り抜け、また司令室へ戻った。



   5


 三朝がこの種の事件の被害者と対面するのはこれが初めてではない。これまでに担当した婦女暴行事件の被害者との面談はもちろん、女であるだけに他の部署の刑事に呼ばれて被害者から話を聞いたこともあった。たいがい史桜のように自分とそう歳の離れていない女性がほとんどだったが、多少年輩の女性もいたし、まだ生理が始まったばかりくらいの少女もいた。

 はじめに事情聴取をしたときの彼女たちの反応はだいたい似通っていて、男の刑事ほど警戒はしないものの、心を閉ざして事件のこと、その前後の出来事には触れまいとする。経緯を聞き出すのには時間がかかるものだ。

 しかし史桜は違った。突端から、静かに事の次第を語ってみせた。

 自分が世間を騒がせている事件についての重要な証人であることを告げられて、その責任感もあったかもしれない。しかし、そう片付けてしまうには彼女はあまりにも平然としすぎていた。それほどに心に受けたダメージが大きかったからなのか。麻痺して、まるで他人事として受け取ってしまっているから、単調に話せる。

 事件のことを他人事のように捕らえ、ショックを感じてないのだとすると返ってそれは問題だ。心に受けた傷は確かにある。誰よりも彼女の心自体がその傷を覚えている。今はあまりの深手に感覚が麻痺して痛みを受け止めてないかも知れない。そのままずっと痛みを感じないままで過ごせたら問題はないのかも知れないが、その状態がいつまでも続くわけはない。いずれ麻酔は切れ、心が痛みを思い出す。その時こそ恐い。ヘタをすると壊れてしまうおそれだってある。

 その時が来たら、どうなるだろう。誰が彼女を支えるのか。誰が、彼女の支えになり得るのか。


司令室に隼人の姿はなかった。駐車場には車がある。もしやと思い、三朝は例の場所へ行ってみた。

「隼人」

 背後から声をかけると、隼人はわずかに顔を向けた。踊り場の手すりにもたれてコーヒーの空き缶片手にたたずんでいる。

「人のマネをしないように」

「……悪い」

 そう言って笑う。

「どうだった? 話は聞けたか?」

「話してくれたよ、全部。成り行きは一致してた」

「そうか」

「幌さんと宏司さんは外回りに行ったけど、こっちはどうするの?」

 隼人は答えず、また海の方に目を向けた。ひたいに手を当てて遠くを見ている。

「外そうか?」

「え?」

「ひとりがいいでしょ、しばらく」

 三朝はいま昇ってきた階段を下りようと足を踏み出した。

「待てよ」

「はい」

「指示も受けずにどこに行くんだ?」

「……そーだなー」

「いいからここにいろ」

 低い声で言って、隼人はタバコのパッケージを出した。ここに来ておそらく3本目くらいのタバコ。

「そんなに吸うなら、せめてもっと軽いのにしなよ。17でしょ? これ」

「これじゃないとダメなんだって言ってるだろ」

 三朝は肩をすくめ、隼人の隣に並んだ。海へ向く隼人とは反対方向に、海へ背を向ける。ライターで火を付け、最初の煙を吐き出す。

「おまえ、俺のこと避けたい? ひょっとして」

「そんなつもりじゃないんだけど」

「だっておまえ、史桜のことが絡むと明らかに態度が違うだろ。変に部下に徹してみたり」

「徹するって、部下じゃないの。公私は分けないと」

「じゃあ本部でこんなコトすると、怒る?」

 隼人はそう言うなり三朝に顔を近づけ、アッという間にキスをした。

「あの」

「誰も見てないって。怒るなよ」

「だって、辛そうにしてるからじゃない。だから外そうかって言ったんだよ」

 三朝がそう言うと、隼人は一瞬、黙り込んだ。

「ああ、解ってる。悪い」

「うん……意識してるわけじゃないよ、部下に徹するったって」

「わかった、わかった」

 三朝がうなずいて、言葉が途切れた。タバコの火がフィルターに近づくまでの沈黙があった。隼人が空き缶でタバコをもみ消す。沈む夕日で赤く染まった風が吹き抜ける。

「仕事に戻るか」

「はい」



   6


 その後、史桜の協力で彼女が覚えているという犯人2人の顔写真をモンタージュで作成し、その2人について捜査が進められた。そして同時に進めていたこれまでの事件の捜査で、目撃証言のあった第4の事件の犯人と目星をつけた23歳のフリーターを重要参考人として連行し、3隊による事情聴取が行われた。結果、そのフリーターを容疑者と確定、本部内で逮捕、残りの実行犯についてもフリーターの証言で同じように連行、逮捕する運びとなった。

 彼らによると、この連続事件の主犯とみられる男は、25歳から30歳くらいの細身で身長175㎝程度の男であったという。暗がりでしか顔を見ておらず、記憶の中におぼろげに男の顔が浮かぶ程度だったために顔写真の合成はできなかったが、それでも外見的特徴を掴めただけでも進展と言える。

 男は拉致した女性の暴行に加わることなく、ただひたすら犯行現場をなめまわすように写真を撮り続けていただけだったという。あの手に取っただけで吐きそうになるほどおぞましい写真を。そして暴行が終わるとシャッターを切るのをやめ、女性のそばにかがみこみ、いつのまにか手にしていたナイフで女性の胸を一突きにする。男が女性に触れるのはただこの瞬間のみで、被害者が息をしなくなると立ちあがり、撮りためた写真を上からバラ撒く。何事もなかったかのように振り返り、犯行に加わった彼らを促して車に乗り込んでその場を去った。


「もう一回聞く」

 三朝は見すえた。

「男が女性を刺して、その一突きで女性が息絶えてしまった。男は写真を現場に残して、アンタたちと一緒に車に乗り込んだ。帰りは自分が運転するって男が言って、アンタたちは全員後部座席に乗った、と。ここまではいいとして、その後は?」

「覚えてない、わかんない」

「どこまで覚えてる?」

「だから、俺がワゴンの戸を閉めたとこまでっ。戸を閉めたと思ったら、いきなりもとの駐車場にいたんだ。何度も言わすなよ」

「だから、それはおかしいって自分でも思うでしょ? それじゃ瞬間移動じゃない。普通に考えればありえない話しなんだから、確かに車で帰って来たはずでしょ。自分の記憶に空白があるなんて気持ち悪くないの? 何がどうなって記憶が途切れちゃってるのか、自分のコトなんだからもっと気合入れて思い出してよ、まったく」

 三朝は大きく「はぁーっ」とため息をついて机にひじを突いた。対面する23歳フリーターが傍らに立つ隼人を見上げる。

「……これホントに刑事?」

「みんなこんなだと思うなよ。じゃあ、ひとまずその車に乗った後のことは置いといて。元いた街に戻ってからはどうした?」

「どうもこうも、ただウチに帰っただけだよ」

「男はどうした?」

「知らねぇよ、車でどっか行っちまったからな」

「金はもらったのか?」

 フリーターは少し都合の悪そうな顔をすると、2人から目をそらした。

「もらったよ」

「いくらだ?」

「5万」

「1人が5万? うわー、なにそれ。どこにやったの?」

「遣った」

「何に?」

「うるせえな、パチでスッたんだよ。次の日にな」


「主犯のことは出てこず、か」

 司令室に戻り、三朝が聴取の結果を伝えると、幌がそう言ってため息をついた。隼人はソファに座り込み、またタバコをふかしている。

「参りましたねぇ、まったく」

「どうします、主任?」

 衝立越しに幌が問いかけると、隼人は「ちょっと待ってくれ」と返した。これではどの事件のどの犯人を引っ張っても、主犯のことについては大した情報は出てこなさそうだ。さすがの隼人も策に窮してウンザリだろう。

「初めはたんなるキチガイの仕業だと思ってたのにな」

「こうも尻尾をつかませないとなると、主犯も単独ではないんでしょうか」

「裏にまだ何かいるって言うのか?」

「可能性は捨てきれませんよ」

「まあ、そりゃなぁ。でもな? 夜の街でちょっと会って、ちょっと行動を共にしただけのヤツなんて、別れてしまえば何処の誰だったかなんて分かんないってことも確かにあるだろ」

「ああ、一晩だけ一緒にいた子とかですか」

「……おまえな」

「身に覚えでも?」

 三朝がそう言って幌を見ると、幌は目をそらしてパッケージからタバコを出した。

「俺、先輩よ、一応。解ってる?」

「解ってますよ」

「そうか。おまえとは一辺ハナシを付けないといけないな」

「そんな。そういえば、宏司さんは何処に?」

「外。まだアシストと頑張ってるよ」

「そうですか……でも、いくら聴いて回ってももう何も出てこない気がしますよね」

 三朝は立ち上がり、給湯室へ入った。自分が飲みたくなったついでに、隼人と幌の分のコーヒーも入れようとカップを出す。幌がタバコの煙を吐き出すと、ぼそっと言った。

「今のところ、一番有力なのは彼女か」

 三朝は一瞬手を止め、またすぐにコーヒーの瓶を開けにかかった。隼人も答えなかった。察してか幌も黙り込む。

 史桜が一番有力な情報源だと、それは隼人も三朝もわかっている。けれどその情報を聞き出そうとするなら、どうしても彼女の傷に触ってしまう。そう何度も問い詰めることが彼女にとって苦しいことだとわかっているから、特に隼人は踏みとどまっているのだろう。

けれど、それではおそらく捜査は前に進まない。殺された被害者のためにも、その遺族のためにも、そしてこれ以上の被害を出さないためにも、一刻も早く事件解決に向かわなければいけない。だから史桜自身に、彼女が巻き込まれた事件も連続事件の一端だと伝えた。彼女も、それを理解してくれたから、1度目の聴取で一気に話してくれたのだとも思う。

 三朝はコーヒーの入ったカップを幌の前に置くと、ソファにいる隼人の所へカップを持っていった。そして渡しながら2人に対して言う。

「事件の解決を急ぐことと、被害者の傷を大事にしてあげることと、どっちも大切なことですよね?」

 隼人が三朝を見上げた。三朝はそれに気づかずに元座っていたイスに戻る。

「この場合、どうですか」

「あのな、三朝」

 幌がそう言うのと同時に、隼人が三朝の隣に座った。

「何が言いたいのかは知らないが、俺らが急ぐのは事件の解決だろ」

「やっぱり、そうなんですか」

「あれだけ死人も出た。それもまだまだ先のあった若い子ばかりだ。遺族の恨みはどうする? それを晴らしてやれるのが俺たちなんだぞ」

 隼人がまっすぐに三朝を見る。三朝は一度うつむき、また隼人を見た。 

「急ぎすぎて、傷口を広げるような真似はしたくないですよ」

「そんなの俺だって同じだ」

「はい」

「おまえ、何が言いたいんだ」

 にらむような目つきをする。三朝はふと目をそらし、うつむいた。

「わかりません」

「……ちょっと落ち着けよ」

 隼人はそう言ってカップに口をつけた。幌も黙ったままタバコを吸う。

 三朝はカップを握り締めたまま首を落としてうつむいていた。

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