紫の視線

 見覚えのある天蓋だ。


 身体の節々が痛み、頭は少し靄が掛かったようにぼんやりとしている。


 思考がはっきりとしないのは、目覚めたばかりだからという理由だけではない。


 羽毛の詰められたマットレス、金の刺繍が施された絹の毛布、ベッドフレームはローズウッド。これらすべてが、眩暈を覚えるほど完璧な調和を湛えていて――あるいは薬の副作用かもしれないが――起き上がる気力と思考を奪う。


 その中にあって、僕の頭の下敷きにされている、自分のでない腕は異質である。


 隣から一定のリズムで漏れる寝息。


 僕は半ば現実逃避するように、窓の方を向いた。窓からは穏やかな日差しが差し込み心を落ち着かせ、耳を澄ますと小鳥のさえずりが聞こえてくる。


 朝の静謐な時間をベッドの上でダラダラと過ごす。なんて贅沢な時間なのだろう。ずっとこうしていたいとさえ思う。


 しかしそうしているには、あまりにも不気味で居心地の悪い状況だ。


 僕は意を決し、寝息のする方に顔を向けた。


 そんな気はしていた。だがここに至るまでの過程を考慮すると、中々どうして、認めがたいものがある。しかし事実は事実として受け止めなくてはならない。


 そこには僕の姉――エリスティア・ゴールドバッシュの姿があった。


 記憶の中の姉さんは十二歳で時を止めている。昔から綺麗な顔立ちをしていたが、その美貌にさらに磨きがかかったようだ。まるで良家のお嬢様といわれても不思議ではないほどだ。


 好ましくない状況だ。


 僕は人攫いに遭ったのだ。それがなぜゴールドバッシュの屋敷で、あまつさえ姉さんの隣で目覚めなければならないのか。


 可能性は二つ。


 姉さんが僕を助けたか、あるいは攫わせたか。


 好意的に見るのなら、前者を支持するべきだ。姉はどういうわけか、僕が誘拐されている情報を掴んだ。あるいはその現場を目撃して救出した。そうして屋敷に戻り、弟の無事に安堵し、緊張の糸が解れたのだろう。そのまま同じベッドで眠りに落ちた。


 この説の欠点を挙げるとするなら、ゴールドバッシュ領から村の距離は馬車で三日はかかる距離にあることだ。姉さんが仮に誘拐の情報を握って、村までどれだけ早く馬を飛ばしても、着いたときには時すでに遅し。


 現実的に考えるならば、やはり後者が有力だ。姉さんは僕のことを溺愛している。もう何年も会っていなかったから、随分と寂しい思いをしただろう。ある時、ふと、抑えが効かなくなった。彼女の脳内に突飛な考えが浮かび、浅はかにもそれを実行した。


 普通に考えたならば、ありえない。


 あのゴールドバッシュの次期当主がそんなことをするものかと、疑念を抱くはずだ。だがそれはあくまでも世間一般の見方であり、彼女の身近な人間は別の見方をするだろう。僕がそうであるように。


 僕は偉大な魔術師を自認しているが、それでも危険な猛獣と寝床を共にしたくはない。うっかり眠りを妨げるようなことがあれば、その代償は計り知れない。少なくとも今までの自由気ままな生活は二度と訪れないだろう。下手をすると、姉さんの監視下に置かれて、生涯を終える可能性もある。


――……逃げよう。可及的速やかに。


 喫緊の方針は決まった。


 難しいことではない。


 姉さんを起こすことなく、部屋を出ればいい。


 簡単なことである。


 唯一の問題を挙げるとするなら、つい数刻前から姉さんの瞳が開き、紫色の視線が僕の姿を捉えて離さないでいることだろうか。


 まだ彼女が眠っているという可能性を捨てきるには早いのかもしれない。


「おはよう、レイモンド」鈴の音のような声。


 可能性は捨て去ったほうが良さそうだ。


「おはよう、姉さん」僕は伸ばされた姉さんの腕に軽く触れた。「疲れない?」


 姉さんは一瞬ピクリと反応して、


「問題ないわ」と一つ間を置き「少しだけよ」


「それはなにより。ところで――」


「ダメ」


 姉さんは気だるげに、しかしきっぱりといった。


「……まだ何も言ってないけど」


「ダメよ、レイモンド。寝起きであんたと話したくないの」


「じゃあどうして僕のベッドで寝てるのさ」


「私のベッドよ。あんたが家を出てからはね」


 そういって一つあくびをこぼす。


 寝起きの無防備な姉に対して気は引けるが、この状況に対する説明責任を果たしてもらう必要が僕にはあった。


 どんな嫌味な言葉をかけてやろうかと、頭を回転させていると、姉さんがそれを咎めるように以下のようにいった。


「言いたいことがあるのなら、言ってもいいわよ。ただし覚悟をすることね。お姉ちゃんの許可なく口を開こうものなら、キスで口を塞がれる、その覚悟を」


 僕は信じられないというように彼女の顔を見た。


 その表情から言葉の真意は読み取れない。しかし、エリスティア・ゴールドバッシュは口に出したことは絶対にする。


 彼女がいくら美人であるからといって、さすがに姉に唇を奪われるのは御免被りたい。


 僕は口にチャックをして、ファスナーを後ろの方に投げ捨てた。


 姉さんはよろしいというように眉を上げて、


「起きたら話をしましょう」


 彼女はそう言って僕を自分の胸に抱き寄せた。


 まるで聖女のようである。


 こんな状況でなければ、そう感じられただろうに。


 ファーストキスを人質に取られている僕はなすすべもなく従うほかなかった。


 憮然とした表情を浮かべつつ、諦めて目を瞑った。

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