最終話 君のいる神話

 ​原初の「無」との戦いは、これまでの、いかなる戦いとも比較にならなかった。


 それは、力と力の衝突ではない。


 「有」と「無」の、生存競争だった。


 ​大天狗の風は、「無」に触れる前に、その概念を消され、ただの静寂へと還る。


 アヌビスの死者の魂は、「無」の前では、そもそも「死」という物語さえも存在できず、召喚されることすらかなわない。


 連合軍の攻撃は、ことごとくが、その意味を失っていく。世界の理そのものを消去する絶対的な存在の前では、いかなる物語も、ただページを白紙にされるだけの、虚しい抵抗に過ぎなかった。


​「くそっ……! ラチがあかねぇ!」


 酒呑童子の拳でさえ、「無」に触れる直前で、その「破壊」という概念を失い、空を切る。


「我らの力が届かぬのなら!」


「この力、全て、王に捧げる!」


 彼らは、自らの攻撃が無意味であることを悟ると、次なる行動に移った。

 一つ、また一つと、自らの「物語」の力、その存在の全てを、玉座に座る王の元へと集約させ始めたのだ。


 大天狗の「秩序」も、玉藻前の「欺瞞」も、アヌビスの「裁定」も、ヘパイストスの「創造」も、ポリィの「情報」も。


 全ての物語が、巨大な光の奔流となって、王の体へと注ぎ込まれていく。


​「……ああ、みんな、温かい……」


 王の中で、桜子の意識が涙を流す。その時、彼女の中にある魂が、完全に一つになった。


 桜御前の、未来を憂う心。

 桜子の、仲間を信じる心。

 そして、王の、全てを統べる絶対的な力。


 その全てが融合し、彼女は新たな存在へと昇華した。​彼女は、ただ一人、隣に立つ鬼を見つめる。そして、酒呑童子の傷だらけの拳に、そっと自らの手を重ねた。


「さあ、行きましょう。酒呑童子……。あなたの、『愛』という、この世で最も矛盾していて、だからこそ最も強い物語に、みんなの想いを乗せて」


 ​彼女は酒呑童子の拳に、集約した全ての物語の力を注ぎ込んだ。

 その拳は、世界そのものだった。

 ​二人の放った最後の一撃が、「無」の、その中心へと、確かに触れた。


 それは、「無」の中に初めて生まれた「有」。

 それは、愛という名の、最初の「物語」。

 すなわち、世界のはじまりの一点だった。


 ​原初の「無」は、自らの内に生まれてしまった、その矮小な、しかし、あまりにも眩しい「物語」を処理することができなかった。

 その存在は矛盾に耐えきれず、夜が明けるかのように白く、消え去っていった。

 『朧月夜の都』には、穏やかな新しい朝の光が満ちていた。


 王であり、桜子でもある彼女は、その絶大な力を全ての妖怪と神々のために使うことを宣言した。傷ついた者たちを癒し、この都を、真の交流と共存の場所として再創造する。

 そして、彼女は、この世界の、新たな法則を、高らかに宣言した。


「全ての物語は等しく、ここに在ることを許される」


 ◇


 ​数年後。

 大天狗とアヌビスは、都に新たな「秩序維持機関」を設立し、種族を超えた法の番人として、その名を轟かせていた。


 玉藻前とロキは、都を舞台に巨大な「エンターテイメント商会」を立ち上げ、神々さえも騙す壮大なショーで世界中を熱狂させていた。


 ポリィとヘパイストスによって、新たな体を与えられた機械がしゃどくろは、新たなテクノロジーと魔法の融合を研究し、次々と驚くべき発明をもたらしていた。


 それぞれの存在が、それぞれの未来を、それぞれの物語を、力強く歩み始めていた。


 ​そして地上、現代の東京。

 高層ビルの屋上で、二人の男女が、プラスチックの容器に入った豚骨ラーメンをすすっていた。

 それは、酒呑童子と桜子だった。


​「で、これから、どうするんだ?」


 酒呑童子が、チャーシューを頬張りながら、ぶっきらぼうに問う。


​「そうね……。まずは、あなたの物語を、もう一度正しく伝えるところから始めましょうか」


 桜子は、王の威厳と少女の柔らかさが同居した、最高の笑顔で答えた。


「あなたが、ただの恐ろしい鬼なんかじゃなくて、不器用で、優しくて、そして誰よりも愛が深い、最高の男だってこと」


 ​二人は顔を見合わせて笑い合った。


 眼下に広がる、眠らない街の灯り。科学と神秘が、当たり前のように隣り合わせにある世界。


 彼らの、そして、この世界の新たな神話は、まだ始まったばかりだった。

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百鬼闘諍録〜失われた信仰と神懸の巫女〜 火之元 ノヒト @tata369

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