第五話 王の気まぐれと二つの秩序
原初の『無』との激闘から、数日が過ぎた。
王となった桜子の力によって再創造された『朧月夜の都』は、奇妙な活気に満ちていた。砕けた闘技場の跡地には、様々な世界の様式が混在した、巨大な交流都市が築かれている。日本の妖怪たちが営む居酒屋の隣で、エジプトの神官たちが太陽神ラーの教えを説き、北欧の戦士たちがギリシャの英雄たちと腕比べに興じる。それは、かつて誰も想像しえなかった、混沌と調和が同居する、新たな日常の光景だった。
しかし、その見せかけの平和の裏で、各勢力は水面下の緊張を保っていた。いずれ再開されるであろう、王が主催する『神異大戦』。その時、隣で酒を酌み交わす友が、次の敵となるやもしれぬのだ。
酒呑童子は、そんな都の喧騒から少し離れた場所で、一人、酒を呷っていた。彼の視線の先には、都で最も高い塔の頂上にある玉座。そこに座る、王であり、桜子でもある少女の姿。時折、風に乗って、彼女の笑い声や、退屈そうなあくびの気配が届く。その度に、彼の胸は締め付けられた。彼女は、確かにそこにいる。だが、あまりにも、遠い。その神々しい佇まいは、彼が知る、ただの優しい少女の面影を、上書きしていくようだった。
その、張り詰めた静寂を破ったのは、他ならぬ王自身だった。都の全ての妖怪、神々、英雄たちの脳内に、その少女の声が、直接響き渡る。
「皆様、そろそろ退屈してまいりました。第二回戦を始めましょう」
その声には、有無を言わせぬ響きがあった。
「今度の形式は、わたくしの独断による『指名試合』ですわ。記念すべき、最初の舞台に上がるのは——」
王の指が、二人の参加者を指し示す。一人は、鞍馬の山奥で、静かに瞑想していた大天狗。もう一人は、自らが建てた神殿で、死者の魂を導いていたエジプトの神アヌビス。
「——貴方たちに、決まりました」
その指名に、都がどよめく。厳格なる日本の武人と、静謐なるエジプトの死神。あまりに異質な、しかし、どちらもが強固な「秩序」を自らの内に持つ者同士。王が、この戦いに何を求めているのか、誰もがその意図を測りかねていた。
「王の御指名、謹んでお受けする」
大天狗は、瞑想を解き、静かに立ち上がった。
「我が秩序の正しさ、彼の神に問うとしよう」
アヌビスもまた、その胡狼の頭をゆっくりと上げた。
「良かろう。汝の魂が、真実の羽根より重いか、軽いか。この天秤で量ってやろう」
二人の偉大なる守護者が、アリーナの中央で対峙する。片や、心身を研ぎ澄ませた、清浄な山の空気。片や、全ての感情が浄化された、静寂な墓所の空気。二つの異なる「聖域」がぶつかり合い、観客は、ただ息をのむしかなかった。
戦いは、静かに始まった。
大天狗が、必殺の『破魔の神風』を放つ。それは、あらゆる穢れを祓い、悪しき者を滅する、絶対の浄化の風。しかし、アヌビスは、その風の中に、ただ静かに佇んでいるだけだった。
「秩序なき魂の揺らぎは、裁定の対象外だ」
神風は、まるでアヌビスが存在しないかのように、その体を通り抜けていった。彼の理において、大天狗の攻撃は「意味のない現象」として処理されたのだ。
次いで、アヌビスがその杖を掲げる。すると、彼の足元の影から、無数の死者の魂が、嘆きの声を上げながら這い出てきた。それは、生者への怨嗟を力とする、死者の軍団。
しかし、大天狗もまた、動じない。
「我が聖域に、穢れは不要」
彼を中心に、不可視の結界が展開される。死者の魂たちは、その清浄な結界に触れることさえできず、聖なる光に焼かれて、悲鳴と共に消滅していった。
物理攻撃も、術も、互いの「
戦いは、完全に膠着状態に陥った。やがて、二人は無意味な攻撃を止め、互いを見据えたまま、対話を始めた。
「貴様の秩序は、ただ、生きる者の驕りに過ぎぬ。死を前にすれば、いかなる修行も無に帰す」
アヌビスの言葉は、静かだが、真理の重みを持っていた。
「貴様の秩序こそ、死という名の停滞に過ぎぬ。生ある者は、常に高みを目指し、己を律してこそ、その輝きを増すのだ」
大天狗の言葉もまた、揺るぎない信念に満ちていた。それは、どちらが正しいか、という戦いではなかった。互いの世界が、いかにして成り立っているのか。その根幹にある、譲れない誇りの確認作業だった。
対話を通して、二人は気づいていく。
大天狗の秩序は、「生」をより良く、より気高く律するためのもの。
アヌビスの秩序は、「死」に安らぎと、絶対的な公平を与えるためのもの。
どちらか一方だけでは、世界の輪廻は成り立たない。生と死が互いを敬い、認め合ってこそ、魂は、その物語を紡いでいけるのだと。
やがて二人は、どちらからともなく武器を収めた。そして、互いの健闘と、その哲学に敬意を表し、深く一礼を交わした。その美しい光景に、玉座の王が満足げに微笑み、拍手を送った。
「どちらの秩序も、等しく美しい。この戦い、わたくしの判定により『引き分け』とします」
観客は、武力だけが全てではない戦いの結末に、静かな感銘を受けていた。王は、その空気の中で、楽しそうに次のカードを発表する。
「さて。次は、嘘つきたちの番ですわ」
「最高の嘘で、このわたくしを、心ゆくまで楽しませてちょうだいな」
スポットライトが、妖艶に微笑む玉藻前と、北欧神話のゲートから現れた、その瞳に悪戯な光を宿す神、ロキを照らし出した。二人は、アリーナの対極で、互いに不敵な笑みを交わし合う。
舞台は、次の、混沌の円舞曲へと移ろうとしていた。
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