第4章「血と鋼の境界」Part B:月に睨まれた路地裏で

 旧データセンターの出口からさらに数層下へ、ハルとヴィクトルは地下の生活圏へと足を進めていた。

 このあたりは「基底層」と呼ばれ、正規の市民登録を持たない者たちが寄り集まって形成された仮設都市のような一帯だった。


 剥き出しの配管、腐食した空調ダクト、古びた電子広告が断続的に明滅する雑居通路。天井には無数の電線が絡みつき、床はゴムとコンクリートが不均等に貼り付けられている。電子機器の排熱と人の湿度が混ざった空気は、喉の奥に粘りつくようだった。


 通路の脇には、商品にならないジャンクパーツを山積みにした露店や、光の点滅で料金を表示する簡易診療所の端末が見える。どれも半ば壊れかけたような作りだが、それでもこの層に住まう人々にとっては、命をつなぐ最後の拠点だった。


 「ここは……?」


 「スラムよりは設備も整ってるし、危険も少ない。だが……安心できる場所じゃない」

 ヴィクトルは警戒を崩さず、物陰をチラリと見やる。


 「この辺には“ムーンアウル”の連中が入り込んでる。連絡拠点が近い」


 ムーンアウル。

 巨大な民間軍事企業――正式には「ムーンアウル・セキュリティ」。

 大企業や富裕層の資産防衛、要人警護、情報戦への介入などを請け負い、都市の“表”と“裏”の両方で活動する。

 正規軍に匹敵する戦力を持ち、その中には元軍人や退役した治安維持部隊員も多く含まれる。


 彼らは、“治安維持部隊の届かない領域”に介入する存在として、時にスラムでの掃討作戦すら任務とする。

 その活動は多くが秘匿され、構成員は“月影の兵士”とも呼ばれる。

 一度出動が確認されれば、そこに残されるのは、記録なき沈黙と廃墟だけだ。


 「見ろ」


 ヴィクトルが指をさす先、壁の一部が剥がされ、そこに小型の通信ノードが埋め込まれていた。周囲には注意喚起のテープも、企業ロゴもない。だが、鋭い目で見れば、それが“公共”のものではなく、“特定の勢力”の管理下にあると理解できる。


 「裏で交信してる。あのノードは、ピースキーパーズの定期データと交差してる」


 「……ムーンアウルがピースキーパーズとつながってるのか?」


 「正面からじゃない。だが、裏で情報を融通してる線は濃厚だ。あいつらは民間って建前で、どことでも繋がれる」


 ちょうどそのとき、曲がり角の先に、頭部にインプラントを埋め込んだ少年が立っていた。

 機械仕掛けの眼球がハルたちをじっと見つめ、口元には小さなマイクが埋め込まれている。


 「……通報してる?」


 ハルが思わず身構える。


 だが、少年は何も言わず、ただ無表情に小さな端末を掲げる。

 そこには走査映像のようなものが映し出されていた。

 ある場所で起きた出来事――ピースキーパーズによる強制拘束の様子だった。


 複数の機動兵が、無抵抗の若者を囲み、次々と衝撃棒を打ち下ろしていく。

 叫び声と悲鳴、ぼやけた視界。視点がぶれるたび、何かのバイザー越しであることが察せられた。

 暴行は執拗で、短くカットされた記録映像の中ですら、圧迫感と苦しさが肌に刺さるように伝わってきた。


 「これ、どこで……?」


 「10ブロック東。定期掃討区域」


 そう答えたのは少年ではなく、物陰から現れたフードの人物だった。


 「最近あそこは、ピースキーパーズの新型義体兵の実験場にされてる。逃げ場はないよ」


 フードの男は、煙草のような細いスティックを咥え、紫煙を吐いた。

 その目は笑っていなかった。


 「やつらは“治安維持”って言葉で、何でも正当化する。記録は残さない。だからムーンアウルがこうして記録してんだ」


 「……じゃあ、あの子も」


 「あれは“ノードカメラ”。記憶の断片を拾って投影する義体機構だ。もう“人”じゃない」


 淡々と語るその口調が、逆にハルの中に鈍い痛みを走らせた。

 胸の奥がひりつく。だが、それ以上に、その少年と目が合った瞬間に感じた“静かな哀しさ”のようなものが、言葉にできず心に残った。


 「連中は、正義でも秩序でもない。ただのシステムだ。反応が遅れた者、適応できない者を“排除”して均す。それが“平和”だって信じてる」


 ハルは、少年――いや、少年だったものの視線に触れないように顔を逸らした。

 画面に映る暴力の映像が、次第にノイズ交じりに変化していく。

 まるで痛みすら記録されたかのように、映像全体が震えていた。

 その揺らぎが、今の都市の本質そのもののように思えた。


 ヴィクトルが短く言った。

 「……次へ行くぞ」


 ハルはうなずいたが、足取りは重かった。

 足元に転がる小さな義眼の破片が、誰かの断片だったことを思い出させる。


 遠ざかる路地裏の先、紫のホログラム広告がゆっくりと切り替わる。

 “あなたの安全は、私たちの使命です”――ピースキーパーズの標語だった。

 その言葉に皮肉を感じ取れるだけの余裕が、今のハルにはなかった。

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