第3章「神々の仮面」Part B:旧き血の議会

 スラムの裏路地から幾度か曲がり、雨にぬれた階段を下っていくと、地層のように積み重なったコンクリートの割れ目から、かすかな光が漏れていた。


 ハルは息を潜め、足音を忍ばせながら、その先へと身を滑らせる。雨がコートの襟に冷たく染み込むたび、皮膚の奥まで緊張が沁み渡った。


 その光は、建物の内部から漏れていたものだった。廃工場のような広い空間が、無造作に再利用されている。壁には古びた回路図の断片や、解読不能な記号のような落書きがびっしりと並び、天井から垂れるケーブルはまるで黒い蔦のように空間を這っていた。ところどころ蛍光灯が点滅し、断続的な電気音と湿った空気が不快なリズムを刻んでいた。


 床に設置された排水溝の一部が持ち上げられ、地下へと続く細いスロープが現れている。その入口を囲むように数名の人物が立っており、誰もが一様に長い外套を羽織り、顔を深くフードに隠していた。彼らの動きは不自然なほど揃っていて、人間というよりは、制御された人形のようにも見えた。


 その中心——吹き抜けになった空間の底部で、奇妙な儀式が静かに、しかし確実に進行していた。


 数十名の人物が円を描いて並び、その中央には、錆びた金属の祭壇のようなものが据えられていた。表面には古代文字のような刻印が走り、そこから這い出すように生体コードと呼ばれる有機ケーブルが張り巡らされている。ケーブルは生き物のように脈打ち、呼吸をするかのように膨張と収縮を繰り返していた。


 円の内側に立つ者たちは同じ節回しで、低く、くぐもった祈りの言葉を繰り返していた。その声は人間のものというより、プログラムによる合成音声のような冷たさがあった。だが奇妙なことに、その無機質な響きの中に、どこか神聖さのようなものが宿っていた。


 「血は巡り、命は還る……」

 「記憶は血に刻まれ、血は器に刻まれる……」


 そのフレーズが、波紋のように空間を満たしていく。


 やがて、誰かが祭壇の上に引き立てられた。痩せた少年だった。服は薄汚れ、義体化の痕跡が首から背中にかけて露出している。表情は虚ろで、生気のない瞳が淡く光を反射していた。


 祈りの輪の中心にいた白い仮面をつけた男が、無言で少年の額に手をかざす。


 次の瞬間、少年の身体が微かに浮いた。重力から解き放たれるように、ふわりと宙に浮かぶ。祭壇と彼の背骨をつなぐ生体コードが脈打ち、淡い紫光を放ち始めた。その光は次第に強くなり、まるで祭壇そのものが鼓動しているかのようだった。


 そして、少年の目が見開かれ、そこに走った光は——明らかに“魔力”のそれだった。炎でも、電気でもない。もっと根源的で、存在の核を揺さぶるような熱。


 ハルは思わず息を呑んだ。

 それは、自分の内側で渦巻いていた“異常”と、あまりにも酷似していた。


 その瞬間、祭壇の光が炸裂し、仮面の男の背中から黒いエネルギーが噴き上がる。まるで闇を可視化したかのような奔流が空間を満たし、周囲の温度が一気に下がったように感じられた。


 見張りの一人が、何かに気づいたように振り返る。

 ハルは咄嗟に身を屈め、ケーブルの影に身を隠した。心臓の鼓動がやけに耳に響く。


 祭壇の周囲では、恍惚としたような表情で祈りを続ける者たちの姿が揺らいでいた。目は虚ろで、笑みさえ浮かべている者もいた。まるで、肉体と精神が乖離しているかのように。


 この“議会”は、ただの秘密結社ではない。

 魔力を用い、血と記憶を媒体に何かを生み出そうとしている——それも、都市の最下層で。


 ハルは知らず知らずのうちに、拳を握っていた。

 指先に力が入り、爪が手のひらに食い込む感覚があった。微かな熱が掌の中心にじんわりと集まり始める。それは怒りではなく、もっと原始的な反応——呼ばれている、そう感じた。


 内側に眠る“何か”が、目の前の儀式と共鳴している。

 自分の血が、その言葉に応えているかのように脈打ち、胸の奥で何かが目覚めようとしていた。


 自分の中にある“それ”が、呼応している——

 恐怖ではない。だが安心でもない。

 むしろ、引きずり出されることへの予感と抗いが、胸の内でぶつかり合っていた。


 ハルは、その場から離れるべきかどうか、判断しかねていた。

 このままこの場に居れば、自分にも何かが起こる。

 それは直感だった。皮膚にまとわりつく空気が、呼吸に混じって体内に侵入してくるような圧迫感が、そう告げていた。


 けれど同時に、彼はその“何か”を知りたいと思っていた。

 自分が何者なのか。なぜ、あの時暴走したのか。

 その答えが、この場所にあるのではないかと、本能が訴えていた。


 だが、そのとき——祭壇の奥、壁の一部が静かに開き、新たな存在が現れた。


 巨大な義体。人の姿を模してはいるが、その大きさも威圧感も、常軌を逸していた。

 金属の外殻には生体コードが織り込まれ、それがうごめくように、内側から脈打つ光を放っている。それはまるで、“力”そのものの象徴だった。


 儀式の場が、一瞬にして沈黙する。


 仮面の男が、その義体に向かって跪く。その姿は、服従ではなく、崇拝に近い。


 そして、再び祈りの言葉が始まる——


 「旧き血よ、神々の器に至らんことを……」


 その言葉が空間を満たしていく中、ハルの心に、ひとつの確信が芽生えていた。


 ——これは、都市の根幹に関わる“何か”だ。


 ただの狂信でも、力の誇示でもない。

 この場所で行われていることは、都市そのものの構造、ひいては世界の真理に触れかけているのではないか——そんな錯覚すらあった。


 そして、自分の“異常”もまた、この都市の闇に繋がっている。


 ハルは、静かにその場を後にした。

 だが、耳に残る祈りの声は、しばらくのあいだ消えなかった。

 それは呪文のように、彼の意識の底で何度も反響し続けていた。

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